Tiny garden

嫁入りの前の朝の話

 その朝を、久成はまんじりともせずに迎えていた。
 囲炉裏端で灰を掻きながら、ひたすらに一つのことを思案していた。だからだろう、背後でみし、と床が軋むまで、妹が現れたことに気づけなかった。
「佐和子」
 振り向きざまに名を呼ぶと、背後に立った妹が口を開く。
「起きていらしたのですか、兄上」
「ああ」
「眠れませんでしたか」
「……いや」
 久成は曖昧に答え、かか座に腰を下ろした佐和子へ灰掻きを手渡す。火の扱いは佐和子の方が慣れていた。まめの目立つ荒れた手が、器用に火を熾す。薪が燃え出せば、辺りは明々と照らされる。
「寒くはありませんでしたか」
 そう尋ねた後、佐和子は兄の答えを待たずに苦笑した。
「声を掛けてくださればよかったのに……」
「寝ているところを起こしては悪い」
 正直に告げても、妹はその気遣いを喜ばない。かえって気遣わしげにされた。
「私のことなら構いませんから」
 久成からすればどうしたって構うのだった。今となっては唯一の家族である妹だ、兄として丁重に扱ってやりたかった。そうしたくても出来ていない現状があれば、尚更に。
「お疲れでしたか」
 火に照らされた横顔が尋ねてくる。久成はためらってから答えた。
「さすがにな。身体が鈍っていたようだ」
 これは正直な答えではなかった。身体の疲れなど微々たるもので、寝付けなくなるほどでは決してない。
「山歩きは後から疲れが来るものですから」
 真意を知ってか知らずでか、佐和子は慰めるように続ける。
「でも、残念でございましたね。日の暮れるまで山にいたのに、結局何の成果もなくて」
 その言葉に、久成は唇を引き結んだ。
「山の狐も、兄上たちを見て逃げてしまったのかもしれませんね。これで里まで下りてこなくなるといいのですけど」
 佐和子は横顔で笑んでいる。見慣れた顔だというのに、その胸中は読み取れない。久成は妹の顔色をうかがいつつ、しばらくの間黙っていた。
 昨日は山へ、狐を狩りに出かけていた。山の裾野にあるこの農村では、近頃無用心な狐の姿をちょくちょく見かけるようになっていた。ちょうど田植えの時期を控えていて、村人たちの中には狐に荒らされるのを危惧する者もいた。昨年が不作の年だったことも影響していたようだ。遂には山狩りをしようという話まで持ち上がり、火縄銃を持っていた久成にもお声が掛かった。久成は妹の目を気にしつつ、その誘いを受けたのだった。
 しかし日暮れまで山を歩いても、結局誰一人として、一匹の狐も仕留めることが出来なかった。
「何か、温かいものでも用意しましょうか」
 妹の問いに、久成はかぶりを振る。
「いや、いい」
 やっとの思いで唇を解き、それでも後の言葉が続かない。抱え込む思いを言うべきか、言わざるべきか、久成は煩悶していた。そぶりだけでも察したのだろうか、佐和子もふと笑みを消す。
 ぱちぱちと爆ぜる音がしばらく続いた。
 そこに優しい声が、こちらをうかがうようにそっと加わった。
「……本当は、行きたくなかったのではございませんか」
 佐和子が言う。尋ねる口調ではない。
 久成は目を伏せた。少しの間を置き、息を吐きながら答える。
「いや、そんなことはない」
「差し出口でしたね。申し訳ございません」
「気にするな」
 即座に詫びられ、もう一度かぶりを振る。
 山狩りを多少億劫に思ったのは事実だが、全く気乗りしなかった訳でもない。むしろ意気込んでもいた。火縄銃の手入れは怠らずにいたが、撃ってみせる機会はなかなか訪れなかった。習練としてもよい機会だと思った。
 しかし、現実には――。
「佐和子」
 名を呼ぶと、妹はびくりと肩を震わせる。こちらを見る目に、隠し切れぬ狼狽の色が覗く。昨日の朝、狩りに出る間際に向けられたのと同じ眼差し。
 久成の胸裏には焼け付くような思いが過ぎる。それを呑み込もうと切り出した。
「俺は、狐に会った」
 佐和子がはっと瞠目した。
「兄上」
「誰にも言うな」
 釘を刺し、妹が頷いたのを見て、更に語を継ぐ。
「山で狐に会った。子狐だろうか、思ったよりも小さな奴だった」
 昨日のことだ、容易く思い出すことが出来た。小首を傾げるようなその仕種。草むらの中に潜り込んだ、小さな身体つきの狐。
「賢そうな奴でもあったな。人の言葉がわかるような顔をしていた」
「それで、どうなさったのですか」
 佐和子が硬い表情で促すので、久成は苦笑いで続きを打ち明ける。
「どうもこうもない。お前に話した通りだ、獲物も成果もなかった」
「逃がしてあげたのでしょう」
 長い付き合いの兄妹だ、こちらの言動など妹には見透かされているらしい。久成には佐和子の胸中が、時々まるでわからなくなると言うのに。
 ともあれ、言い当てられようとしたので、先んじて答えてやった。
「まあ、そのようなものだ」
 途端、佐和子の表情が晴れやかになった。自分のことのように安堵して、
「さすがは兄上。ご立派な行いでございます」
 と称えるものだから、居心地が悪くなり、もごもごと言い返した。
「誉められるようなことではない。村の連中は狐を追い払おうとしていたのに、俺がそれを邪魔したのだからな」
「いいえ。無益な殺生はしないこと、それが一番よいのでございます。私は兄上の行いが正しいと存じます」
 佐和子が熱心に誉めたがるので、久成は事の真実を飲み込んでしまうことにした。
 本当は違った。逃がしてやりたかった訳ではないのだ。
「兄上は正しいことをなさいました。狐もきっと、兄上の思いを酌んでくれることでしょう」
「そうだろうか。恩返しにでも来ると思うか、佐和子」
 いつになくうきうきと話す妹に、兄もつい気分がよくなる。佐和子が楽しそうにするのは滅多にないことだった。おどけた物言いで聞き返せば、すかさず笑みまで見せてくる。
「ええ。狐女房の話もありますでしょう」
 一転、久成は妹の慧眼さにぎょっとした。兄の心をどこまで見透かしているのか、狼狽したくなる。それでも口では平然と言った。
「あれはお伽話だ、本当にあるものか」
 すると佐和子もむきになったようで、
「でも、狐も鶴も亀だって、助けてやれば恩返しをするものと言うでしょう。兄上のところにも、狐のお嫁様がやってくるかもしれません」
「俺がそんな嫁を貰ったら、お前だって気になるだろう」
「いいえ。私は兄上の選んだ方なら、たとえ狐だろうと文句は申しません」
 やけにきっぱりと言い切る。久成は呆気に取られ、それを見てか佐和子の次ぐ言葉はやや遠慮がちになった。
「私はいつでも、どんなお内儀様でも不満など申しません。よいご縁があったら、どうぞ迷わず身を固めてくださいませ」
「だからと言って、狐の女房か」
 かわすつもりで笑ったが、妹は笑わなかった。
「だって兄上は、いつも私の話をまともに取り合ってくださいませんから」
「言っているだろう。こんな田舎の、落ちぶれた男のところへ、好んで嫁に来る奴などいない。それこそ狐か鶴でもなければな」
 久成も嫁が欲しくない訳ではなく、ただ半ば諦めているのだった。田舎の農村で教員をやっており、稼ぎはたかが知れている。住まいは古くみすぼらしい借家。おまけに二十歳をとうに過ぎた妹が共に暮らしている。これでもかと揃った悪条件をわざわざ呑みに来る女もいまい。
「出戻りの妹に、気兼ねすることなんてございませんでしょう」
 佐和子の物言いは、久成の気分を害した。とっさに咎めた。
「気兼ねなどしていない。そういう言い方をするな」
 はっと、佐和子の顔が強張る。
「でも……」
「お前が気に病むことでもない。縁がないのは俺の不甲斐ないせいであって、お前のせいではないのだからな」
 反論をぴしゃりと封じてやると、念を押すようにもう一言、
「俺は今の暮らしでも十分だ」
 久成は呟いた。
 それで佐和子は押し黙り、しかし唇をきゅっと噛み締めてみせた。妹のそんな顔つきは当然面白いものではなく、久成も無言になって目を逸らす。明け方の家は奇妙に張り詰めた空気で満ちる。
 血の繋がった兄妹の二人暮らし。そうでありながら、時々こうして気まずくなる。
 囲炉裏の火を見つめる久成は、昨日の出来事をほんの少し、思い返していた。


 山で会った狐は、身体が小さく、子狐のように見えた。
 何度か遠い銃声を聞いていたから、他の者に追い立てられていたのだろう。久成が一人でいたところへ飛び出してきた。こちらにはすぐに気づき、眼前で動きを止めた。
 目が合った、ような気がした。
 狐に表情があるのなら、きっと愕然としていたことだろう。火縄銃を担いだ狩人の前、のこのこ出てきたことを悔やんでもいただろう。それでも、その狐が身を翻し、近くの草むらへ飛び込もうとするまで、たっぷりと時間があった。
 久成は、その狐を撃たなかった。
 撃てなかった。
 銃を構えることさえせずに、逃げ込んできた狐が再び逃げていくのを見送っていた。愕然としていたのはむしろ久成の方だった。出くわした狐の双眸を、記憶の中に強く焼き付けていた。それは別の、少しばかり古い記憶と重なる。
「やあ、栄永先生」
 追い駆けてきたらしい他の村人が、木々の向こうから声を掛けてきた。
「そちらに狐が行きませんでしたか。小さな身体の奴です」
 ためらうことなく、久成は嘘をついた。
「いいえ。こちらには来ていません」
 すると村人は残念そうな顔をして、
「そうでしたか。もう少しで仕留められたのに」
 まだ諦め切れぬ様子のまま踵を返した。

 村人が姿を消し、ややしばらく経ってから、背後で草むらががさがさ鳴った。
 立ち尽くしていた久成は振り向き、顔を覗かせる狐に気づく。まだ逃げていなかったのか、それともわざわざ戻ってきたのか。背の高い草の間から、こちらを見て、何やら不思議そうに小首を傾げた。
 久成はその時、情けない気分で少し笑った。
 そして情けなさを引きずったまま、忘れられずにいた。
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