Tiny garden

女の上手い化け具合の話

 初音の朝は早い。
 しかし身支度は相変わらず遅い。

 久成が囲炉裏の横座に着いた頃、その姿はまだ見えなかった。今朝も時間を掛けているようだ。
「初音は支度の最中か」
 朝餉の支度をする妹に尋ねる。
 佐和子は鍋を掻き回す手を止めて、静かに答えた。
「ええ。きっともうじきでしょう」
「そうか」
 顎を引いた久成は、落ち着かぬ心持ちでいた。初音が現れるのが待ち遠しくもあったし、どう誉めるべきかを考えるなら実に悩ましい。新妻の努力は買いつつも、早く朝の支度にも慣れてくれればよいと思う。こんな思案を毎朝のように繰り返していては、そのうち仕事にも差し障りそうだ。
「初音さん、毎朝頑張っておいでです」
 味噌汁をよそう佐和子が、しみじみとそう呟いた。
「兄上の為にあんなに尽くしてくださって……僭越ながら、私までうれしくなってしまいます。本当によいお内儀様ですね、兄上」
 久成は黙り込む。どう応じていいのかわからず、妹の温順そうな横顔を見つめる。佐和子は兄の方を見ずに、鍋の蓋を閉じながら続けた。
「兄上と初音さんなら、きっとよい夫婦になられるはずです」
 諭すでもなく、それが自然の道理だと言いたげに口にした。
 兄はますます答えに窮し、居心地悪そうに足を組み替える。
 佐和子は佐和子なりに兄夫婦を案じてくれているらしく、時々こうして気に掛けるようなことを言ってくる。案じられるほどの軋轢もまだないような新米夫婦だ、見ていて歯痒くなることもあるのだろう。久成からすれば気にせずそっとしておいて欲しいくらいだが、妹の気遣いも重々承知している。
 四つ違いの兄妹は幼い頃から仲が良かった。両親は鬼籍に入っており、お互い以外に頼る者がなかったのも一因だろう。久成が初音を娶ると決めた時も、佐和子を家から追い出そうとは考えもしなかった。幸いにして佐和子と初音は仲がよいらしく、三人の暮らしもその点では上手くいっているようだ。久成には喜ばしいことだった。
 ただ、佐和子の横顔を見ていると、たまに胸の痛む時もある。
「それにしても初音は、よく化ける女だ」
 久成は独り言のように言った。
「女は皆、あれほどに化けるのが上手いものなのか。佐和子、お前ならどうだ。お前の化けたところも見てみたいものだが」
 続けて何気ない調子で問うと、佐和子もふふっと笑声を立てる。
「私はもう、化けてもしょうがない歳ですもの。山風に吹きさらしでいたって気にはなりません」
「それはそれで困ったものだ」
 合わせて笑ってはみたものの、複雑な思いにも囚われる。
 二十歳をとうに過ぎ、娘と呼べる歳ではない佐和子。今は着飾ることもほとんどしなくなった。世間知らずな初音に代わって家事のほとんどを切り盛りしている。畑仕事もこなしているせいか、しなやかだった手にはまめが目立つようになった。せめてもう少し楽な暮らしぶりであれば、佐和子もまだ女らしく化けていられただろうに。稼ぎの少ない兄と暮らし続けることが妹にとって幸いと言えるのか。久成はたびたび自問する。だが答えの出たためしはない。
 三人の暮らしが続く以上、自らの健在なうちは、女房も妹も守りたい。それだけは思う。
「――あら、初音さん。おはようございます」
 佐和子の声が明るく弾み、久成ははたと我に返る。
 初音がようやく現れていた。いつものように丁寧に結い上げた日本髪、かんざしの揺れる微かな音が聞こえる。初音は深々と頭を下げ、やはりいつものように挨拶をした。
「久成様、佐和子さん、おはようございます」
 面を上げる。久成にとって見慣れぬ顔がそこにはある。一月寝食を共にしていても、まるで覚えられない初音の面立ち。
 田舎娘とも都会の女とも違う、目の覚めるような見栄えのよさを、久成は改めて実感していた。初音は実によく、上手く化ける女だ。
「おはよう、初音」
 やや堅い口調で、久成は挨拶を返す。それからいつもよりは熱心に視線を向けてみた。
 夫の目に気づいてか、初音は恥らうそぶりで俯く。
 しかし久成は誉め言葉も口にはせず、密かに眉を顰めておく。しげしげと注視したところで見慣れぬ顔だった。美しくはあったが、昨日の曖昧な記憶とは重ならない。そのことが久成にはもどかしい。
「今日もまたとびきりお綺麗です」
 佐和子はうれしげだった。兄嫁の見栄えのよさは義妹にとっても喜ばしいものらしく、初音が美しく装うたびに誉めそやしていた。久成ほどのこだわりもないらしく、美しければそれでよいと思っているようだ。
「佐和子さん。お褒めに与りまして、光栄です」
 背筋を伸ばして応じた初音は、その後で夫の方をうかがってきた。言及を求めているらしいとわかり、久成は困惑する。果たして正直に告げてよいものかと。
「久成様」
 逡巡のうち、初音の方から切り出された。
「今日の私は、久成様のお気に召しませんでしたか?」
 眉尻を下げた表情。どうやら当人にも自覚はあるらしい。久成は嘆息し、家長としての務めを果たすべく口を開く。
「気に入るも入らぬもない、だが……」
 今一度、新妻の顔を見る。つり目がちの涼しげな眼差しと、紅の引かれた薄い唇が目についた。久成の好みとは違っていた。やんわり事実を告げる。
「昨日とはまた、大分違うようだ」
 そう続けると、初音ははっとしたように身を竦めた。
「も、申し訳ございません。昨日はせっかく誉めていただいたのに、同じように出来ずお恥ずかしい限りです」
 早口になって詫びてくる。頭まで深々と下げている。
「いや、謝ることではあるまい」
 久成も慌てて取り繕った。宥めるつもりで語を継ぐ。
「お前もなかなか苦労しているようだな。俺にはこうして見てやるくらいの手助けしか出来ないが、めげずに精進するといい」
「はい……」
 いくらかは落ち着いた様子で初音が答える。だがめげているのは一目瞭然、久成が気まずさを覚えたところへ、佐和子が割って入ってきた。
「さあさ、そろそろ朝餉といたしましょう。初音さん、手をお借りしますね」
 その一言で囲炉裏端の空気が変わる。初音はいそいそと給仕を始め、久成は妹の存在に感謝する。新米夫婦が二人きりでは、この家は何も成り立たない。今は佐和子のいることが大層ありがたかった。

 洋服に着替えた久成を、見送るのはやはり初音一人だ。
 それも佐和子なりの気遣いなのだろうとわかっている。ありがたい時もあるし、今日のようにいささか滅入る場合もある。下駄を履く久成の横に座った初音は、いつもの朗らかさを失い項垂れていた。どう声を掛けるべきか、全くもって悩ましい。
「初音」
 下駄を履き終えた久成は、土間に直立して妻を呼ぶ。
 初音は即座に顔を上げ、いかにも浮かぬそぶりで鞄を差し出してきた。どうやら相当気落ちしているらしい。
「あまり、思い詰めるな」
 鞄を受け取りながら告げれば、初音はぎこちなく小首を傾げる。
「でも私は、久成様が好きだと言ってくださる顔になりたいのです」
 縋る眼差しを向けられた。
 久成は僅かにうろたえた。新米の妻に新米の夫、戸惑いも悩みもお互いにあって当然。まして初音の懸案は、久成にはまるで理解出来ぬ領域だ。励ますだけで事足りるはずもない。
 やがて、意を決した。
 鞄を持っていない方の手で初音の顔に触れた。初めは頬に触れ、軽く撫で、次に人差し指の先で、釣り上がった目元をつ、と優しく押し下げる。初音は身を震わせ、唇を引き結んだ。
 指先に伝わる感触は、紛れもない女の肌だった。指先だけでも十分にわかる、柔らかく張りのある肌。久成は密かに感嘆する。
「お前はつり目が好きなのか」
 問うと、新妻は頬を染めた。
「いえ……。ただ気を抜くと、ついこういう目元になってしまうのでございます」
 そういえば、垂れ目の顔よりもつり目の顔をよく見ているような気もした。しかしどちらにせよ、初音の面差しは久成の記憶になかなか留まらない。よく化けるものだから困る。
「ならば毎日そうするといい。わざわざ変えようとすることもなかろうに」
「でも、久成様はこういう目はお好きじゃないのでしょう」
 上目遣いで問い返されて、久成は言葉を詰まらせる。それは事実で、好みと言うならつり目よりも垂れ目の女が好きだった。唇も厚い方が艶っぽく見えるものだから、今朝の初音の目元も唇も、久成の嗜好からは確かに外れていた。
 だが、久成はかぶりを振る。
「好みなど今更だ。お前はとうに俺の女房、顔を気に入るも気に入らぬもない」
「まあ……」
 初音が惚けたような顔になる。
 好みの顔ではなくとも、夢見るようにぼんやりしたさまは何とも愛らしいものだ。久成は目を逸らさぬようにするのがせいぜいだった。海棠の眠り未だ足らず、そんな言い回しを思い浮かべては一人うろたえる。
 そのくせ口では、さも平静でいるようにふるまう。
「俺は、どんなお前だろうと慣れるようにする。お前も早く慣れることだ」
「……はい」
 しっかりと頷いた初音は、また縋る眼差しを向けてくる。
 それも化けた上での目つきではないかと、たまに思うこともある。だとしても久成は化けられぬ、いつも隠し切れずに動じてしまう。慌てふためき踵を返した。
「い、行ってくるぞ、初音。留守は任せた」
「はい。行ってらっしゃいませ、久成様」
 化け上手な女は、あどけなく瑞々しい声で夫を送る。
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