Tiny garden

煙るような

 子どもの頃、雨の日が好きでした。
 それもざあざあ降りというほどではない、煙るような雨の日が好きでした。
 細かく降りしきる雨が街中の景色をしっとりと塗り替えていくのが好きでした。道の色を変え、家々の屋根の色を変えていくのが好きでした。微かな雨音で辺り一帯が包まれて、かえってしんと静かなように思える、雨の日が好きでした。あちらこちらに立ち込める雨の匂いが、好きでした。
 これは僕だけではないと思うのですが、傘を差すよりも雨合羽を着込んで走り回るのが好きでした。傘は子どもには少々重いものですし、その点合羽は気楽です。ゴム長と揃いの合羽を母が誂えてくれて、それで雨の日は意気揚々と闊歩したものでした。
 しかし、ざあざあ降りの日に走り回るのはさすがに良い顔をされませんでした。当たり前ですね。酷い降りの日に子どもに、傘も差させずに遊ばせておく親がどこにいるでしょう。うちの母親はこと気を回す人でしたから、そうして遊ばせてもらえるのは降りの穏やかな、煙るような雨の日だけでした。

 雨の日の街は、まるで夢のような世界でした。普段見ている景色とは、色も、音も、匂いも違う情景がそこにはあります。
 晴れた日には陽光の下で何もかもがきらめいて見えるのに、雨の日にはのっぺりと濃く色づいているだけで、それがかえって奇妙な、行ったこともない異国に似た雰囲気を漂わせているように見えたものでした。普段は見通しの良い通りの向こうが雨の日には霞んで見えず、灰がかったようになっているのも愉快でした。あの向こうには何があるのだろうと、わかり切っているくせに想像を巡らせるのが楽しかったのです。道にはいくつもいくつも水溜りが出来、そこへも尚、雨がしとしと降り注いではさざなみだっていくのを見て、その美しさに溜息をついたものでした。
 雨の日の音をご存知ですか。あれは案外と複雑に折り重なっているものでして、例えば木陰で雨宿りをするとわかります。雨が木の葉を打つ音、木の葉に溜まった雫が木を揺らして起こる葉擦れの音、木の幹を雨が伝い落ちていく音、木の根が張った大地を、生まれたばかりの小さな川が流れていく音――これだけの音を、僕らは一本の木の下で聞くことが出来るのです。目を閉じて、耳を澄ませば、幾重にも織り込まれ、積み上げられていく音の調和がわかります。それを聴くだけでも本当に楽しくて、聴き入っては時間を忘れてしまうほどでした。
 雨の匂いは、少々変わっています。僕は雨の匂いがとても好きでしたが、どうしても好きになれないと言った友人もおりました。その気持ちもよくわかるのです。むっとこもるような匂いで、ふわりと軽いものではありません。一度嗅ぎつけるとしばらくまとわりついているような、重い匂いです。かといって鼻をつくほど強い匂いという訳ではなく、晴れた日にはそれを思い出すことも出来ないような、その程度のものでした。僕が雨の匂いを好きになったのも、実はその匂いがよい、悪いということではないようです。ただ雨の降りそうな頃にその匂いを嗅ぎつけ、それが雨の匂いであることを思い出した時、もうじき雨が降るのだと察せられるからだったようです。この匂いは、雨の降る前触れのような匂いだと、子ども心に察していたからだったのでしょう。

 子どもというのはなかなかに酔狂で、しかし感性豊かな生き物です。雨一つで気分を弾ませて、はしゃぎ回ったり、笑ったり、時に難しく考え込んだり、一丁前に物寂しさを感じたりするのです。
 子どもの感性は大人の目からすれば侮れないものであることも、たまにはあります。見慣れた街に異国の姿を思い巡らせる、その時の想像力。たくさんの雨音を聞き分け、更にその調和を楽しむ情緒性。雨の匂いに心を躍らせ、それだけではしゃぐことの出来る無邪気さ、欲のなさ。或いは水溜りを跳び越えたり、跳び込んだりする冒険心。ゴム長を片足だけ履いてどこまで行けるかを競い合う探究心、――全くもって、やんちゃな子どももいたものでした、ええ。
 しかしそういった感性は、時と共に失われてしまうのです。大人になるまで持っていられるような人はほとんどいません。いても、周りの大人たちに、似通ったような子ども時代を過ごしながらもそのことをすっかり忘れてしまった大人たちに、酔狂だ、変わり者だと指を差されて、無理矢理忘れてしまわなくてはならなくなります。大抵の人は指を差されるまでもなく、夢から覚めた後のように忘れてしまいます。
 そして大人になると、雨の日があまり好きではなくなります。雨の日の色、雨の日の音、雨の日の匂い、全てがとても忌々しいもののように思えて、仕方がなくなります。現に、外を歩いている時に雨が降り出すと、誰しもが鼻の頭に皺を寄せてしまいます。僕などは、あまり品のよろしいことではありませんが、舌打ちしたくなってしまいます。そうして子どもの頃の雨を楽しむ気持ちを忘れて、まるで初めから大人であったようにふるまうのです。雨を忌々しく思い、せめて自分の出かける時には降らないでいてくれればいいものを、と思ってしまうようになります。
 僕もそうでした。ずっと、長らく、子どもだった頃のことを忘れていました。自分でも時々驚いてしまうのですが、僕自身の子どもの頃の記憶が大変希薄な時があります。それも僕に限ったことではないようで、親はしっかりと記憶しているのに、本人がまるで覚えていないというのもよくある話でしょう。言われて初めて思い出し、そして決まりの悪い思いをするのです。今はもう大人なのだから、子どもの頃の話を持ち出されたところで、子どもに戻れる訳でもないと、言い聞かすように思うのです。

 ただ、今日僕が、こうして子どもの頃のことを思い出したのは、人に言われたからではありません。父や母が話して聞かせてくれた、ということはありません。
 なぜか、不思議と思い出したのです。傘を持ってきてくれた、あなたの姿を見た時に。
 雨が降っているのはお役所の中からも見えていましたから、帰りはどうしようかと悩んでおりました。朝はあんなに晴れていたのにと鼻の頭に皺を寄せたくなりましたし、すっかり気が滅入って舌打ちもしてしまいました。品がありません。お役所には誰でも使えるようにと置き傘も用意してあるのですが、あいにく大変な倍率でした。突然の雨では競い合う気も起きず、こうなったらいっそ濡れて帰ろうとほぞを固めていました。
 あなたが傘を持って迎えに来てくれて、本当に助かりました。あなただってこの雨では寒かったでしょうに、僕の為にと足を運んでくれたこと、うれしく思います。お役所の前で傘を抱えるあなたの姿を見た時、僕の心がどれほどに震えたか、あなたにわかるでしょうか。しみじみとあなたのありがたみ、温かさを覚えました。
 そして、その時に思ったのです。――大人になるというのは、傘を持ち、或いは傘を差しかけてくれる誰かと共に生きることなのではないかと。

 子どもの自由奔放な感性に、重い傘は邪魔でしょう。必要ありません。合羽とゴム長と、後は親の許しさえあれば、好きなように遊び回れるのです。想像を巡らせることも雨音に聴き入ることも、雨の匂いを味わうことだって出来ます。
 ですが、僕らはそうはいきません。僕らには傘が必要です。僕らにはあの頃着ていた合羽もゴム長もありませんから、新たに誂えるか、或いは傘を持つようになるかです。そして傘を持つようになると、合羽の布地越しに雨を感じることが出来なくなります。雨音も、雨の匂いも遠ざかってしまいます。そうして僕らは、子どもの心を忘れてしまうのかもしれません。
 忘れてしまったものをおぼろげに思い出すことは出来ても、そっくりそのまま取り戻すことは出来ません。代わりに手に入れたものを思えば、取り戻そうという気も起こりません。
 大人になるというのも悪いことではありません。雨を忌々しく思うようになってしまっても、こうして傘を持って来てくれる人へのいとしさを、しみじみ実感することは出来ます。雨の中を並んで歩き、敷き詰められた静寂の中で、そっと打ち明け話をすることだって出来ます。
 傘の下で、こんな風にこっそり手を繋いでいることも、雨の日だから叶うことです。晴れの日では気恥ずかしくて、お互いにためらってしまいますからね。あなたのほっそりとした手を取ることの出来る今は、とても幸いです。

 大人になった今、僕は雨の日が、昔ほど好きではありません。
 でも、煙るようなこんな雨の日に、あなたと二人で歩くのは好きです。傘を差しかけてくれる人を得られて、それがあなたで、この上なく幸いです。子どもの頃のように雨を楽しめなくても、僕は大人になってよかったと、心から思います。
 あなたと共にいられてよかったと、真に、真にそう思います。
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