Tiny garden

初戀

 お母様、聞いてくださいな。私、あの人と喧嘩をしましたの。
 たった一晩だけですけど……それはそれは大変な喧嘩になりました。あの人があんな顔をするなんて思いませんでした。いつもにこにこ笑っていて、滅多なことでは腹も立てず、穏やかでばかりいるあの人がです。あんなに腹を立てるだなんて思いもしなかったのです。
 でもお母様、私だって、少しは気分が悪くなりました。というよりも、むしろ腑に落ちない思いでいっぱいでしたの。あの人がどうして腹を立てるのかわからなかったんですもの。それは、私にも若干軽率なところがあったかもしれませんけど、そんなに怒るようなことかしらって思ってしまったんですもの。だからつい、売り言葉に買い言葉とでも言うのでしょうか、言い争いにこそなりませんでしたけど、私も迂闊なことばかり言って、あの人を余計に困らせたのだと思います。
 幸い、もう既に仲直りしております。ええ、ちゃんと胸の内を打ち明けあって、私たちは元通りの仲むつまじい夫婦に戻りましたのよ。あの人は大層疲れた様子でしたけど、私のことを許してくれて、そして私に対しても深く詫びてくれました。実のところ私は喧嘩の間中、あの人ほど腹を立てていたわけではありませんでしたから、仲直りもすぐにしてしまえたのです。
 仲直りは、出来たのですけど……ねえお母様、私、どうしても腑に落ちないことがあるのです。男の人の気持ちって、未だにちっともわからないんですもの。あの人とどう接してよいのかわからないことがたまにあります。この度の仲違いも、そういった私の、言わば読み違いから生じたものだと思うのです。
 お母様、聞いてくださるかしら。


 事の起こりは、私が昔話を始めたことでした。
 あの人は本を読まない時は、私の話を聞きたがるのです。何でもお役所の部長さんがあの人に対して、そのようにすべしとおっしゃったのだそうです。男の人が女の人の話をとにかくよく聞くようにするのが、夫婦円満の秘訣なのだそうですよ。私はこの通りお喋りの好きな女ですもの、部長さんの助言は当を得ていると思いましたの。そしてあの人も、他の女の人はともかく、私の話を聞くのは好きなんですって。ちょうどよろしいでしょう? ですからあの日も、私は乞われるままにあの人に、幼少の頃の話などを聞かせたのです。
 何の話にしようか、いくつか候補がありましたの。昔、うちで飼っていた大きなむく犬の話にしようか、それともお母様の大切なお庭の話にしようか、迷ってしまったのです。でもあんまり迷ってしまったから、そのどちらでもない話にしようと思いました。それが運のつき、読み違いだったのです。
 あの人に話して聞かせたのは、私の、初めての恋の話でした。
 ……いやだ、お母様。そんなにお笑いにならないで。確かにお母様は私のことをよくご存知ですものね。私が幼い頃はどんなにおませさんで、そしてどんな人に恋をしていたのかも憶えておいでなのでしょう?
 本当に、とんでもなく早熟な娘だったと、私自身が思いますもの。あの頃は結婚する、とまで息巻いておりましたの、忘れずにおります。何だか気恥ずかしいことですけど。
 それで、あの人も初めのうちは穏やかに耳を傾けていてくれたのです。私が懐かしそうにするのに相槌を打ってくれたり、ついはにかんでしまう時にも見守ってくれたりしていました。だけどある時急に、不機嫌そうになってしまったのです。
 ねえ、お母様。お母様は私の初恋がいつ頃のことか、ご存知ですものね? 五つ、六つくらいの頃の恋の相手にやきもちを焼くだなんて、ちょっと不毛なことだと思いません? 男の人の気持ちって本当にわからないものです。――あの人は私の初恋の相手に、随分と妬いてしまいましたの。おかしなことでしょう?
 確かに、事細かに話して聞かせはしました。私の初恋の人は、私よりもずっと年上で、なのに口下手で、かんしゃくもちなところもありますけれど、でも私にはとっても優しくて、たっぷり甘やかしてくれるような人でです。腕ががっしりとしていて、私のことも軽々と抱き上げて、木の上に登らせてくれたり、泳ぎを教えてくれたりしたってことも話しました。お母様はご存知でしょうけど、あの人には初めて話すことでしたから、そのように伝えましたの。どんな風に優しくしてもらったかとか、どんなところが好きだったか……いろいろ話しました。そういう話題には事欠かないくらい、とっても優しくて、私に甘い人だったんですものね。
 でもそうしたらあの人、急に笑うのを止めてしまったのです。そして私の話を遮るようにして、唐突に尋ねてきましたの。僕とその相手と、どちらがあなたに優しいですか、ですって。これだけでも十分、おかしなことと思いました。だって五つ、六つの娘に対してと、連れ添う妻に対してと、比べる対象にもなりはしないはずですもの。どちらがより優しいか判然とさせたところで、何の物差しにもならないことは火を見るより明らかです。答えても仕方のないことですと私は言ったのですけど、その時、あの人はやけに石頭になっていました。頑として問いに答えさせようとするので、私は根負けして、渋々と答えました。
 ええ、お母様、そんなにお笑いにならないでください。だってあの人、いつになくしつこかったんですもの。もちろん誤魔化しもせずに答えました、初恋の人はとても優しくて、他の人とは比べようもないくらいです。だからこそこんなにも深く思い出に残っているのです、って。
 答えたらどうなったか、ですか? それは……あの人、へそを曲げてしまいました。面白くなさそうにして私の話を終わらせると、逃げるように書斎へ引っ込んでしまったのです。

 お母様はそうおっしゃいますのね。ええ、確かにそうでしょう。夫の前で妻が、他の男の人の話をしたら、機嫌を悪くするのは当然のことかもしれません。私だってあの人が、勤め先のご婦人の話をし始めて、何のかんのと誉めそやしたらよい気分はしないと思いますもの。
 でも、私が話したのは本当に小さな、子どもの頃の話です。やきもちを焼くなんて馬鹿げたことです。そう思いませんか?
 え? お母様も、似たようなことがあったのですか? まあ、お父様ったら……! やっぱり男の人って大変に難しいんですのね。そんな昔のことまで比べたがって、きっと自分が一番でなければ気が済まないのでしょうね。今となっては可愛いものですけど、その時は実に厄介で、困った人だと思いました。いつもの笑顔はどこへやら、あんなに腹を立てたあの人を見たのは初めてでしたもの。

 その後ですか?
 しばらくは放っておきましたの。私の方もへそを曲げたあの人をどう扱ってよいのかわかりませんでしたし、あの人も放っておいて欲しそうにしていましたから。私も腑に落ちない思いが強くて、すぐには頭を下げてやるものかって思っていましたのよ。
 でもお母様、ご心配なさらないで。ちゃんとその後は謝りに行きましたから。ちょうど、いつもなら珈琲を淹れる時間になったので、私はあの人の為に珈琲を拵えて、あの人のいる書斎に向かいましたの。納得がいかなかったのはその時もそうでしたけど、ひとまずあの人を宥めなければと思いましたから。それに、私の物言いだって十分に軽率でしたもの。
 あの人は書斎にいながら、珍しく本を読んではいませんでした。机に向かって、じっと考え込むようにして、私が珈琲を置いてもむっつり黙っていました。
 私はあの人に詫びました。先程の軽率さと無神経さを謝罪して、何のやきもちを焼くこともありませんからと告げたのです。そう告げた途端におかしくなって、私は思わず笑ってしまいましたけど、あの人はいつもの微笑を忘れてしまったように難しい面持ちでいました。
 少し、ためらうように間を置いて。それからあの人はおもむろに、私へと言いました。――さっき話した初恋の人を、あなたはまだ、忘れられないのではないですか、と。
 言われて私はびっくりしてしまいました。まさか、忘れてしまいたいと思ったことは一度もありませんし、忘れてしまう必要だってありませんでしたもの。ですから頷きましたところ、あの人はさらに難しい顔になって、眉間に皺を寄せました。
 次にあの人は、またためらいながら尋ねてきました。初恋の人のことを、まだ好いているのですか、と。それも当たり前のことでしたから、私は頷きました。
 それであの人は険しい顔つきになりました。そして深く息をついてから、もう一つ尋ねたのです。――それなのに僕のところへ嫁いで来て、本当によかったのですか、って、聞かれてしまいました。
 私はぎょっとしました。さすがにあの人も考え過ぎだったと思うのです。随分と深刻な話になってしまったので、どこからどう正していこうか迷ってしまいましたけど、順を追って丁寧に打ち明けていこうと思いました。私の初恋の人は忘れられそうにない人ですし、今でも大変に愛しております人ですけど、その人のところへ嫁いでいくのは出来ないことですもの。昔はそんなことも申しておりましたけど、考えるまでもなく無理だとわかることでした。他でもない、お母様がいるのですから。
 あの人に対して、私は言いました。私の初恋は五つ、六つの頃のことですから、今になって気持ちが甦るということはありません。そして私の初恋の人は、私の父ですから。さすがに父のところへは嫁いではゆけません。そのように言いました。
 考えてみたら、初めからはっきりさせておけばよかったことなのかもしれませんね、お母様。でも初恋の人がお父様だなんて気恥ずかしくて、胸を張って言えることでもないでしょう? それにまさか、こんなことでやきもちを焼かれるなんて、思ってもみなかったんですもの。
 全てを知ったあの人は、ぽかんとしておりました。鳩が豆鉄砲を食らった顔をしていました。しばらくしてから、疲弊しきった顔になって、深く深く溜息をついていました。どっと疲れたと言っていましたけど、私だってその晩はいささか疲れてしまいました。

 ねえ、お母様。男の人ってやっぱり難しいものですのね。
 ちょっとしたことで機嫌を損ねたり、やきもちを焼いたりするのに、しばらくは何でもないような顔をしているんです。そうして胸に溜め込んでおいて、ある時急に腹を立て始めるから、全く扱いに困ってしまいます。
 それに子どもの頃の話くらいで妬いてしまうなんて……私、ちょっと悩んでしまいましたの。あの人にとってそんなに信用ならない妻なのかしらって考え込んでしまうくらいでしたもの。でもお母様に話してよかった。お父様も同じようになさっているなら安心です。きっと男の人って、総じてそういうものなのでしょうね。

 え?
 お父様が妬いていらっしゃるのって、私のことで、なのですか? 私を貰っていってしまったあの人に対して……まあ、それも困ったやきもちです。
 大体、お父様が持ってきてくださった縁談でしたのに。私をお嫁にしてくれたあの人を妬むなんて、とても馬鹿げたことです。
 男の人って本当に困ったものですね、お母様。
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