Tiny garden

読み返せぬ手紙

 あなたがこの手紙を読んでいる時、僕は既に、あなたの傍にはいないでしょう。
 便箋を手にしているあなたは、きっと驚いているでしょうね。こんなところにあなた宛ての手紙を隠しておいたこと。円らな瞳が驚きに見開かれるのが目に浮かぶようで、それを見ることが叶わないのが、何とも口惜しいと思います。
 この手紙を隠しておいた理由は、僕が、あなたの傍にいるうちは言えないようなことを伝える為です。本当は言葉を、声に出してあなたに伝えられたら一番よいのでしょう。ですが僕は、あなたの顔を見るとうまく言葉が出てこなかったのです。あなたの傍にいるうちに伝えられたらよかったのに、言えそうになかった。こうしてこっそりと手紙を隠しておく僕のことを、どうぞ許してください。そしてどうぞ、最後まで読み通してください。本を読むのが好きではないあなたには、あまり好ましくないやり方だったかもしれませんが、今となっては僕には、このように伝えるしか方法がなかったのです。
 我が妻よ。遠く離れてしまった僕のことを、この手紙を目に留めているうちは、考えていて欲しいと思います。こんな手紙の一通だけで、残されたあなたの寂しさがまぎれるとは思えませんが、今だけは、どうか僕のことを想っていてください。あなたがこの手紙を開いている頃、僕も遠くであなたのことを、必ず、必ず想っています。

 あなたと初めて会った日のことは、今でもすっかり覚えています。
 振袖姿のあなたは初々しい、とてもきれいな娘さんでした。着物に着られている様子で、時々窮屈そうに顔を顰めているのも知っていましたが、それでも僕の目にはとても愛らしく映りました。あの日、お見合いの席で、僕はいささか浮かれてしまったようにも思います。あなたのように若く、愛らしく、闊達としたお嬢さんを妻として娶ることが出来るなら、それは大層誇らしいことだと思ったのです。僕はその場で、あなたとのご縁をまとめてしまいたい衝動に駆られました。
 あなたには話したことがありませんでしたが、実は僕は、女性の方とお付き合いしたことは、これまで一度としてなかったのです。中学の頃よりカトリックの男子校に入っておりました。六ヶ年一貫して男子校でしたから、十代の頃はそもそも女性と口を利く機会に乏しかったのでした。ですから女性の扱いに関しては、全く自信がありません。あなたに対する態度も、あなた自身がよくご存知の通り、惨憺たるものでした。
 大学を出、お役所勤めを始めてからは、女性の方とお話をする機会もありました。と言っても、あなたに悋気させるつもりは毛頭ありませんから、はっきり書いてしまうなら、僕は大多数の女性に相手にされませんでした。いつも笑っているのはいいけれど、何を考えているのかわからなくて、気味が悪いのだそうです。陰口を叩かれることもありました。笑っているばかりで気の利かない、機転の利かない僕を快く思わない人が、大勢いたようでした。僕はそういう扱われ方にはすっかり慣れていましたし、特に思い悩むこともありませんでしたが、このまま行くと一生独り身でいるだろうなと考えていました。
 ですからあなたとの縁談は、降って湧いた幸運でした。あなたのお父上には大変感謝しています。それともちろん、僕と一緒になってくれたあなたにも心から感謝しています。本当にありがとう。

 あなたはとてもよい妻でした。共に暮らし始めた頃から、僕はそう思っていました。以前にも何度か告げたことがありましたが、その時あなたは、まるで疑わしげに僕を見ていましたね。今もそうでしょうか。疑わしい思いで、この手紙を読んでいるのでしょうか。だとしたら、そんなことはありません、と言いたいです。
 確かに主婦としての腕前が及第点であったとは、言い切れないかもしれません。いえ、誰しも初めてのことにはそういうものでしょう。家事を受け持ったばかりのあなたが何もかも完璧に切り盛りしてしまったのでは、不肖の夫たる僕の肩身も狭いと言うものでした。しかし幸い、と言っていいのかどうか、あなたは完璧ではなく、ほどほどに不慣れな新米主婦であり、そして大変な努力家でありました。一切の家事を引き受けてやりこなそうとする姿は、初めてお会いした時の初々しさとはまた違う、頼もしいものに見えました。初めのうち、僕はあなたに全てを任せる気でいたのです。
 ですが、いざとなると僕は不安で堪らなくなりました。何せ女性の扱いは不慣れです。あなたにどう接したらいいのかすら、初めのうちはよくわからない状況でした。何かぶしつけな振る舞いをして、あなたを傷つけてしまってはいけないと、僕は慎重になっていました。それともう一つ、本当の心のうちを明かすなら、僕はあなたのことをまだ若いお嬢さんだと思っていました。若くて初々しく、ナイーブな年頃であろうお嬢さんに、あまり無理を押し付けてはいけないと思いました。あなたが何か失敗をして、それを酷く気に病んで、例えば実家に帰ってしまうなどということのないように、常に気を配ろうと思い立ったのです。
 それで僕が取った行動は、あなたに細々として欲しい事柄を知らせるやり方でした。朝ご飯は七時、お夕飯は六時、お夕飯の後は珈琲にお砂糖を三杯。毎日のようにそうして知らせ続けた結果は、あなたはもうご存知でしょうから、ここに記すのは止めておきましょう。思えばあの頃は、僕のやることなすことがあなたの神経を逆撫でしただけでした。そもそもあなたをただ若い娘さんだと思い込んでいたことこそがぶしつけでした。あなたを対等な存在だと、妻であると認めるならば、それはしてはならない振る舞いだったでしょう。

 あの日、あなたがアイロン掛けをして、手に火傷を負ってしまった日。僕はあの時もまだ、あなたを若く繊細な娘さんだと思い込んでいて、これは大層なことになってしまったと思いました。あなたに火傷をさせてしまっては、あなたのご両親に申し分が立ちません。あなたにも済まなく、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまって、それで言ったのです。『アイロン掛けはもうしないで下さい。また火傷をしては、あなたがかわいそうです』と。
 僕の言葉にあなたが、朝食の席を立ち、そのまま台所へ駆け込んでしまった時には、驚きました。まさかあなたがあれほどまでに立腹するとは思わず、あなたが何に腹を立てているのかもちっともわかりませんでした。しかし女性の扱いに不慣れな僕は、訳がわからなくとも謝るべきだろうと思いました。物で釣るつもりはなかったのですが、誠意の表し方の一つのつもりでした。あの日、仕事の帰り道であなたへの贈り物を選び、意気揚々と携えて家に帰ってきたのです。
 贈り物のことも、ここには詳しく記しません。僕の不徳の致すところであり、あなたを傷つけてしまったこと、申し訳なく思います。今でも時々思い出しては、僕自身の無神経さに背筋がぞっとします。僕はもっとあなたのことをよく知っておくべきでした。反省して、今ではあなたのことを誰より一番知っている気でいます。
 あなたが僕に、実家へ帰ると告げてきた時は、大変驚きました。あなたをそこまで怒らせているとは思ってもみなかったからです。確かにあの日の夕餉の席で、あなたはむっつりと黙り込み、不機嫌そうにしていましたから、怒っているのだろうとは思いました。ですがまさか、僕が詫び方を考え直す間もないうちに、別れを切り出されるとは考えもしませんでした。
 僕は物分かりのいい夫でいるつもりでした。あなたよりもずっと年が上なのですから、そうあらねばと思いました。ですからあなたの申し出を了承し、潔くあなたを送り出すつもりでいました。
 ですが、あなたの置き土産である珈琲を口にした時、あ、と思ったのです。僕が何も言わぬうちから、あなたは珈琲を淹れてくれた。それもお砂糖を三杯、忘れずに。僕が細々と注文をつけるいつもの珈琲と、何も言われずともあなたが淹れてくれた珈琲が、まるっきり同じ味わいであったことに驚きを覚えました。あなたが僕の好みを覚えてくれたのだとうれしくなりました。そう言えばと思い当たったのはあの日のお夕飯の献立。煮豆に卵焼きに甘藷の煮物は僕の好物ばかりで、あなたが僕の好みを、はっきりと言葉にしないものまで把握しているということに、とても驚かされたのです。
 あなたは本当に、よき妻であり、素敵な女性です。若い娘さん、ナイーブなお嬢さんなどと見縊るように思うことは、その瞬間からなくなりました。代わりに僕はあなたに対し、深い愛情を抱くようになりました。奇妙なものです。愛情などとはっきりと自覚したことはこれまでなかったはずなのに、その時湧き起こった思いを、僕ははっきりと愛情であると認識したのです。まるで元から知っていた、懐かしいものであるように、です。あなたを愛するようになったのも当然の成り行きのようで、僕はあなたを引き止めなくてはと、強く思いました。あなたを失う訳にはいかないと、失いたくはないと思い、あなたの部屋へ向かったのです。

 後のことは、あなたも知っての通りです。
 僕は今でも時々、あの夜の出来事を思い出します。思い出しては、何とも面映く、そわそわと落ち着かない気分になります。あの時あなたにはつい、歯の浮くような台詞を告げてしまいましたが、あなたが笑わずに聞いてくれたことは幸いでした。もう二度とは言えません。とてもではありませんが、気恥ずかしくて。
 ですが、僕の想いは変わりません。面と向かっては口に出来ませんが、手紙にすれば平気です。あなたを愛しています。今も変わらずに。いえ、以前よりも一層、愛しています。
 これはラブレターです。僕が初めて書いた、恐らくは酷く拙いものであろうラブレターです。しかしラブレターと言うものは、誰しもが不思議と書き方を知っているものなのです。初めて書いたものでも、拙くとも、自分で読み返せるものでは到底なくとも、あなたに伝わればそれでいいと、僕は思っています。及第点ではないラブレターでも、あなたに読んで貰えればいいと。もっとも僕は、本当に読み返すことが出来そうにないので、もしも誤字や脱字があっても、看過してくれるとありがたいのですが。
 あなたを愛しています。これからもずっとです。遠く離れている今でも、お役所の中からあなたのことを想っています。あなたも今頃は僕の書斎で、僕のことを想っていてくれるでしょう。あなたが掃除をしに来る時、ちょうど見つかるように隠しておいたので、きっと見つけてくれることと思います。
 今は僕が傍にいなくて、寂しいでしょう。でも今夜もなるべく早く帰ります。僕もあなたと離れているのが辛いのです。片時も離れていたくありません。と言ってもあなたを養うことに不満はないのですが、今はお役所から家までの距離が、まるで千里の遠さに思えます。
 ですから今日も定時になったら、飛んであなたの元へ帰ります。僕の帰りを待っていてくださいね。
 愛を込めて。


 追伸
 今日のお夕飯は煮豆に卵焼きに甘藷の煮物でお願いします。
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