Tiny garden

がらんどう夫婦

 お父さま、聞いてくださいな。私、ずっと申しておりましたでしょう。あの人のふるまいが我慢ならないのだって。あの人が私に接する時の態度が癇に障って、仕方がないのだって。
 私がそう口にする度に、お父さまはおっしゃいましたね。あの人と夫婦になったのだから、あの人を信じなさいと。妻としてあの人を立て、尊敬し、たとえ気に入らぬところがあっても看過するようになさいと。
 でもお父さま、私はそのとおりにできる自信はありませんでした。今はただじっと耐えていられても、そのうちにおかしくなって、堪忍袋の緒が切れてしまうのではないかと思っておりました。だってあの人の事を、お父さまはよくご存知ではないでしょう。私だって所帯を持つまではそうでしたもの。
 ええ、ええ。お父さま、おっしゃりたい事があるのはわかります。でも後生ですから、黙って私の話を聞いていただきたいの。馬鹿な娘の言うことだと思って、まずは聞いていてくださいな。
 私とあの人の間に、とうとう一大事が起こってしまったのです。
 ええ、お父さま、どうぞ落ち着いて。順を追ってお話します。どうぞ椅子に腰掛けたまま聞いてくださいな。

 お父さまがあの人とのお話を持ってきてくださった日のことを、私ははっきりと思い出せます。とても良いお話があると、お父さまは笑んでいらっしゃいましたね。お役所勤めの、几帳面で、その上温厚な方だとあの人のことをおっしゃいましたね。上機嫌のお顔を目にして、私もとてもうれしく思いました。お父さまが喜んで下さるのはうれしいことですもの。
 あの人との縁談も断る心算はありませんでした。写真の中のあの人はにこにこと穏やかに微笑んでいて、優しそうな、温かい方だと思いました。お父さまもおっしゃいましたね、夫にするなら穏やかで優しく、温かな人がいいのだと。その点では間違いなく最良の人だと私も思っておりました。所帯を持つ前にも何度か会ってお話しましたけど、あの人は絶えず微笑んでいる、優しい人でした。私はいいご縁と思って、あの人と添い遂げようと思いました。
 でも、あの人は風変わりな人でした。祝言を終えて、ふたりで初泊まりに出掛けたその日、私は初めてあの人の風変わりなところを知りました。大変驚きました。あの人は、ずっと微笑んでいるんです。いいえ、何があっても、なのです。どんなことが起ころうともです。微笑みを崩すことなく、ずっとにこやかにしていたのです。
 ええ、お父さまはそうおっしゃるでしょうね。いつもむっつりと不機嫌そうにしている人や、お酒や賭け事を好む人や、暴力を振るうような人に比べたら、余程いいだろうとは私も思いました。確かにあの人はそうではありません。常に穏やかで優しいのです。あの人の優しさが、私には、風変わりに見えておりました。だって表情が変わらないなんてこと、奇妙でしょう。甘やかされて育った娘のすることですもの、何もかもが不慣れで、私があの人に迷惑を掛けたこともたくさんありました。それでもあの人は怒らずに、にこにこ微笑んでいるのです。私、だんだんと嫌な気分になってしまいました。あの人が何を考えているのか、ちっともわからないんですもの。
 あの人がそういう気質ですから、私達の生活は酷く穏やかで、淡々としたものでした。毎日が同じように何事もなく過ぎていきました。私はあの人と同じ家にいながら、あの人の気持ちがわからないまま過ごしておりました。
 あの人は几帳面な人です。朝は七時、お夕飯は六時とぴたりと決めているのです。決めている事なのに毎日のように、お夕飯は六時でお願いします、明日の朝は七時でお願いします、といちいち私に言うのです。お夕飯の後は書斎にこもって読書をするから、その度に、珈琲を淹れて欲しいと頼んでくるのです。これも毎日のことです。まるで私が物覚えの悪い女で、幾度も言い聞かせなくては分からないみたいに同じことを繰り返すのです。珈琲にはお砂糖を三杯。これもいつも、あの人が私に告げることです。私はちゃんと覚えているのに、あの人は毎日改めて私に告げるのです。
 私はあの人の希望に副うように努力をしました。あの人の決めた時間を毎日きちんと守って、あの人に頼まれたことはきちんとこなすようにして。でもあの人は私が何をしても、にこにこ微笑んでいるだけなんです。決められた時間のとおりにできても、できなくてもです。ご飯の支度が間に合わず、帰ってきたあの人を少し待たせてしまったことも何度かありました。でもあの人は決して叱らず、詫びる私を宥めるように微笑んでいるばかりでした。そして何もなかったように、また改めて告げるのです。朝は七時、お夕飯は六時、お夕飯の後は珈琲にお砂糖を三杯。
 あの人は私を馬鹿な、頭の悪い女だと思っていたのかもしれません。確かにあの人に比べたら私は、不出来な、至らない妻でしょう。あの人の書斎にはとんと興味も持てないような、無教養な女であることもわかっております。だけど夫婦というのはお互いにわかりあっていくものだと思っておりました。私に至らないところがあれば教えてくれるのが夫というものではないでしょうか。気に入らないところがあるのなら、直すように言ってくれるものではないでしょうか。あの人のふるまいはまるで私をほったらかしにしているようで、寂しくてたまらなかったのです。あの人が私をどう思っているのか、ちっとも分からなくて、嫌な心持だったのです。
 まるでがらんどうだと思いました。私とあの人の生活は、まるでうつろな、中身のない物のようだと。毎日毎日同じことを繰り返されて、私がそれをどうしようと、あの人は同じように微笑んでいるのです。
 きっとあの人は私に、これっぽっちも関心がないのだと思いました。私がどうしようと何の問題もなくて、ただ毎日を同じように過ごせたらそれで良し、予定の狂うことがあってもさして気にならないと考えているのだろうと、私は思いました。あの人にとっての私が何であるのかがわからず、あの人が私を同じように扱う度に、癇に障るようになったのです。

 それでも私はあの人の為に、妻としてやれるだけの事はやろうと思っていたのです。
 お父さまは覚えていらっしゃいますね。私、アイロンを使うのがとても下手でしたでしょう。昔、お父さまの着物にアイロンを掛けようとして、みっともない焦げ目をつけてしまったこともありました。あの時お父さまは私をお叱りになられましたの、覚えておいでですよね。私はとても心に堪えて、アイロンを二度と持つまいと決めたのでした。
 けど、あの人は几帳面な人ですから、ぴっと四隅の重なったハンカチが好きなんですって。それをふとした会話で聞いた時、私は苦手だったアイロン掛けを得意になろうと決意しました。折り目のきれいなハンカチを、あの人に、お勤め先に持っていって貰おうと思ったのです。アイロン掛けを始めて何日かは、あまり上手く出来ませんでした。四隅がずれてしまって、見栄えがよろしくなかったのです。なのにあの人は、黙ってにこやかにそれを持っていきました。私は悔しくて、あの人が何も言わないのが寂しくて、癇に障って、いつかきれいにアイロンを掛けてあの人を驚かせてやろうと思ったのです。
 そして、四日前の事です。私は夜のうちにアイロンを掛けるのを忘れてしまいました。それでいつもよりも早く起きて、あの人のハンカチにアイロンを掛けたのです。その日は不思議と上手くいきました。四隅がぴっと揃いました。朝の空気のお蔭で、頭が冴えていたのかもしれません。
 だけど私、うっかりして、アイロンを片付ける時に手の甲を火傷してしまったのです。――ええ、お父さま。心配なさらないで。大したことはありません、しばらくすると跡も消えると聞きましたもの。
 やがて起きてきたあの人は、朝食の席に着いた時、私の手の火傷に気付きました。それはどうしたのですかと尋ねられて、私は正直に答えました。するとあの人はにこにことしながら、何と言ったと思います?
 では、アイロン掛けはもうしないで下さい。また火傷をしては、あなたがかわいそうです――と、食事の時間を告げる時のように淡々と言いました。私にアイロン掛けをするなと言ったのです。
 私はがっかりしました。その日はきれいにハンカチの四隅を揃えていたのです。折り目のきれいな物を用意できていたのです。それなのにこの言い草、酷いとお思いになりませんか。かわいそうだなんて馬鹿にした言い方のように思えました。どうせ何も出来ない女だと言われたように感じました。火傷のことなんて、私はどうでも良かったのです。ただハンカチのことを認めて欲しかったのです。
 それで私もかっとなって……つい、朝食の席から立ち上がってしまったんです。ええ、あの人を放ったらかしにして、好きにさせておきました。だってあの人は、どうせ私がいなくてもどうにかなる人だと思いましたもの。私がいようがいまいがあの人には、関係ないのです。現にあの人はいつもどおりに朝食を済ませて、いつもと同じ時刻に出掛けていきました。台所の奥で蹲る私に、いってきますと穏やかな声を掛けてから、お勤めに向かったのです。
 あの人が出掛けてしまってから、私はしばらくの間腹を立てておりました。でも少ししてから、自分の気の短さ、浅ましさに気が付いて、朝の事を省みる気になったのです。私が感情的な娘であることは、お父さまもよくご存知でしょう。でも、時間を置けば私だってきちんと考えることが出来るのです。――あの人は悪くない。アイロン掛けが下手な私を気遣ってくれたのかもしれない。私に怪我をさせてはいけないと思ってくれたのかもしれない。そう考え直したのです。そしてあの人が帰ってきたら朝のふるまいを謝ろうと思いました。きちんと謝った上で、アイロン掛けが上手くなりたいから、どうぞやらせて下さいと頼む心算でした。

 四日前の晩は、あの人の好きな献立をお夕飯に選びました。あの人は甘い物が好きなのです。珈琲に砂糖を三杯も入れる人です、甘い物が好きに決まっているでしょう。煮豆に卵焼きに甘藷の煮物を並べて、六時に間に合うようにお夕飯を用意したのです。あの人が家の玄関を開けたら、すぐに良い匂いが分かるようにと、間に合うようにと用意しました。
 ところがです。あの晩に限ってあの人は、少し遅れて帰宅しました。七時を過ぎていました。手には小さな紙包みを二つ、抱えていました。玄関で待ち惚けていた私は、いつもと同じあの人の微笑みにぎょっとして、それから差し出された二つの紙包みにもう一度ぎょっとしました。あの人は私の為に買ってきたものだと言いました。朝のことを詫びたくて、私の好きそうなものを選んできたのだと、にこにこと穏やかに笑みながら言いました。
 開けるようにと言われて、私は紙包みの片方を開けました。そちらには本が入っておりました。ねえ、お父さま。あの人は私のことをちっともわかっていないでしょう。あの人は自分の好きな物が、私の好きな物でもあると思っていたようなのです。私がちっとも本を読まないことを、知らなかったという訳なのです。
 それでも本だけなら良かったのに、もう片方にはボンボンが入っておりました。甘ったるいお菓子です。お父さまはご存知ですよね、私は甘い物がそれほど好きではないのです。あの人は、大好きのようですけども。
 だから私は腹を立てました。アイロンのことはもう忘れて、むっつりと黙り込み、失望している事を隠しませんでした。あの人は私のことを何も知らない。夫婦としてしばらく暮らしているのに、私のことを知ろうともしない。関心もない様子でほったらかしにするくせに、私の機嫌を取るような真似もする。にこにこと笑んで、私を割れ物のように扱うのです。
 私は癪に障って、我慢がなりませんでした。お夕飯の間もずっと、あの人の顔も見ずにいたら、あの人も察したのでしょう。珍しく珈琲の事は言わずに書斎へ引き払ってしまいました。
 頼まれもしなかった珈琲を書斎に運んでいく時、私は心を決めていました。あの人にお別れをしようと――ああお父さま、後生ですから最後まで聞いていてくださいませ。これからが一大事なのです。ええ、もうあと少しです。
 あの人にお別れをしようと、私は書斎に立ち入りました。あの人はいつもならきちんと振り向いて珈琲を受け取るのに、あの晩に限ってはこちらも見向きもしませんでした。机の上に置いてください、と言ったのみです。ですから私も躊躇なくお話しました。あなたのふるまいには我慢がなりません、実家に帰らせて頂きます、と。
 あの人は、一度息を吐いてから答えました。――わかりました。あなたの良いようにして下さい。
 私はその答えを受けて、改めて思いました。やはりあの人には私は必要なかったのだと、あの人は私に関心がなかったのだと思いました。
 珈琲を置いたその足で、私は物置に向かいました。そこから旅行用の鞄を取り出して、ええ、支度を始めました。実家へ帰る為の支度です。箪笥の中を空っぽにして、この家から出て行ってやろうと思いました。
 鞄に着物や、こまごまとした物を詰め込んでいる間は、とてもいい気分でした。せいせいしていました。ようやく、ようやく楽になれるのだと思いました。あの人のふるまいの気に入らないところを思い浮かべながら、私は粛々と荷造りを進めました。
 でも……箪笥が全て空っぽになってしまった時、ふと、涙が手の甲に落ちたのです。火傷の跡に染みるように、ぽつんと落ちてきたのです。
 そして思い出すまいとしていたことを思い出しました。あの人の為に尽くしてきた、短い日々のことをです。私はあの人に、馬鹿で頭の悪い女なりに尽くしてきたつもりでした。あの人は優しい人で、その優しさに報いる為にやれるだけのことをやってきたつもりでした。
 私は、正直に申し上げればあの人を愛しておりませんでした。どう愛せばよいのかわからなかったのです。ただあの人に尽くして、あの人の希望に副うようにすれば、あの人は私を愛してくれるだろうと思っておりました。馬鹿で頭の悪い、無教養な女ですけど、愛されたいと思っておりました。身勝手なことに、あの人を愛していないにも拘らず、あの人には愛されたいと願っていたのです。あの人の穏やかで、優しく、温かな笑みが、本当に私を思って形作られた物であればと思っておりました。愛してはおりませんでしたけど、あの人を好ましくは思っていたのです。だって、何があろうと穏やかに、微笑みを絶やさずにいることなんて、そうそうできやしませんもの。あの人は、あの人のふるまいはそれだけで貴いのです。あの人の微笑みは全てのものに向けられる平等な優しさです。私はそれを、自分だけに向けて欲しいと思っていたのです。夫として、妻に関心を寄せて欲しかったのです。妻として、私を愛して欲しかったのです。
 そうこうしているうちに涙が止まらなくなっていました。ぱたぱたと雨のような音を立てて手の甲や、膝や、畳の上に落ちるのを、私はほったらかしにしていました。気の抜けたようになって、空っぽの箪笥を眺めていたのです。あの人の癇に障るところを思い出そうとしても、私の心まで空っぽになってしまったようで、一つも浮かんでこなかったのです。
 あの人が部屋に入ってきたのはその時でした。あの人は、泣いている私を見てぎょっとしたのでしょう。どうして泣いているのですと尋ねてきたので、私は黙ってかぶりを振りました。どうしてだなんて他人行儀で、わからず屋のする問いですもの。あの人は最後までとことん無関心なのだとがっかりしました。
 だけど、違ったのです。あの人は私の傍らに膝をつくと、肩を抱いてきたのです。
 今度は私がぎょっとしました。お別れを告げた妻に対して、そんなふるまいをするとは思わなかったのです。でもあの人は私に頬擦りをして、そっと言いました。
 愛しています、どうか出て行かないで下さい、と。
 私は驚きました。引き止める為の言葉だとしても、あの人がそんなことを口にするなんて、奇妙でしょう。愛しているだなんて浮ついた言葉、一度として聞かされたことがありませんでしたもの。淡々としたあの人らしくなくて、まるで人の変わったようです。だから私は尋ねてしまいました。私の事を愛していると言いましたけど、それは一体いつからですか、と。
 あの人は答えて、――ついさっきです。あなたが僕の好きな献立ばかりを用意してくれて、その後であなたが珈琲を淹れてきてくれた、あの時からです。あなたが黙って砂糖を三杯入れて、僕のところまで持ってきてくれた今晩からです。そう、言いました。
 ねえ、お父さま。あの人は私のことを、やっぱり馬鹿で、頭の悪い、無教養な女だと思っていたのかもしれません。私があの人の好みを覚えていられないと思っていたようなんです。そんなこと、ちっともないのに。
 たちまち満たされていく思いがして、私は泣きながら言ってやりました。――私もあなたを愛しています。たった今からです。今から私はあなたのことをたくさん、たくさん知りたいと思います。それらを教えて貰えたなら、忘れぬように努めます。ですからあなたも私のことを、どうぞたくさん知って下さいな。
 あの人が頷いてくれたので、私は出て行くのを取り止めました。

 あの晩、四日前の晩から、あの人は少し変わりました。私を見て時々、困ったような、照れた顔をするようになったのです。きっとあの晩の事を思い出し、面映いと思っているのでしょう。私だって面映さはありますけど、それ以上にとても幸せです。あの人のことを少しずつ教えて貰って、少しずつですけど分かりあえるようになりましたから。
 もうがらんどうではありません。はっきりとそう申し上げられます。
 あの晩から、あの人は私に本を読んでくれるようになったのです。ええ、あの晩買ってきてくれた本です。異国の童話なのですって。まだ全部は読んで貰っていませんけど、とても素敵なお話です。あの人が読んでくれたなら、どんなお話でも素敵に聞こえてくるのです。
 それから、ボンボンの代わりにお煎餅を買って貰いました。あの人はお菓子でなくても良いと言ってくれましたけど、私はあの人がボンボンを食べている間、一緒に何かを食べたいと思っていたのです。珈琲とお菓子を、ふたりで一緒に味わう時があればいいと思ったのです。
 がらんどうではなくなった私達は、このとおり、とても幸せです。
 お父さまにはこの事を、真っ先にご報告差し上げたかったのです。

 まあ、お父さま。泣いていらっしゃるの。まあ……。
 ではこのハンカチをお使いになって。四隅がきちんと合わさって、きれいになっているでしょう?
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