Tiny garden

お金で買える幸せ

 社会人二年目の夏、初めてのボーナスが支給されることになった。
 せっかくなので聖美に欲しいものはないかと尋ねたら、きょとんとされてしまった。
「ヤスが貰うお金でしょ? 自分の為に使いなよ」
「苦労かけてるし、還元すべきかと思ったんだよ」
「苦労なんてしてないよ。私はヤスがいてくれればそれでいいの」
 殊勝なことを言った後、聖美はいつものように抱きついてくる。
「それとも貯金しちゃう? 子供たくさん欲しいし!」
 貯金も確かに大事なことだ。
 でもわずかとは言え初めてのボーナス、ちょっと贅沢したいって言ってもいいのに。普段から甲斐性のない夫だから尚のことそう思う。

 大人になったからといって長年背負ってきた弱点がたちまち治るわけじゃない。
 俺は未だにコミュ障で、人付き合いは全く苦手だ。就職する時もなるべく人間関係に煩わされない職種がいいと、システムエンジニアを希望した。
 技術職ならコミュ障でもやっていける――なんてのはただの幻想であり、実際はコミュ力不要の仕事なんてないんだろう。俺の就職先はいわゆる客先常駐のシステム会社で、一定期間他社に出向いてそこで仕事をする。周囲はほぼ他社の人間という環境下では、当然ながら多少の愛想と情報伝達能力が必要とされるし、それでいて何かと外様扱いされるのにも慣れなくてはならない。
 唯一の利点は、常駐先で飲み会に誘われないことくらいだろう。
 そんなわけで俺は仕事が好きじゃない。いい歳して内心びくびくしながら他人と接してるし、できることなら聖美以外の誰とも口を利きたくないとさえ思っている。だがそうもいかない人生を、毎日必死で生き抜いている。
 だから初めてのボーナスは、俺にとって唯一のよりどころである存在の為に使いたかったのだが。

 ボーナスが支給されるその日、俺は自社の上司から飲みに誘われた。
「こんな機会でもないと全員揃わないからな」
 上司の言葉は事実で、社内の人間が全員揃って顔を合わせる機会はそう多くない。俺としてはそっちの方がむしろ気楽でいいのだが、今後のことを考えると誘いを断ることもできない。いつも『酒は得意じゃなくて』とビール一杯で誤魔化すことにしている。
 飲み会の前に連絡を入れると、聖美はすかさず探りを入れてきた。
『どんな店?』
 声が尖っている。明らかに警戒されている。
「普通の居酒屋。変な店じゃないよ」
 店名を告げたら安心したようだ。
『ちゃんと一次会で帰ってきてね』
「わかってるよ」
『女の子のいる店に行くのはだめだよ。ヤスなんてもうすぐにぺろっと食べられちゃうんだからね。私、カチコミかけちゃうよ!』
「行かないって。早く帰るから」
 どうせそういう店に行ってもまともに話せるわけがない――なんて言っても心配させるだけだから黙っておく。聖美なら本気で殴り込みに来かねない。
 誰よりも聖美と話してる方が楽しいし、ほっとする。それは向こうもわかりきってるはずなんだが、こうして心配されるのが不思議だ。

 それにうちの会社の飲み会は、何と言うか湿っぽい。
「常駐先に馴染めなくて……」
「機密情報だからって教えてもらえないこと多いし……」
「それでいて業務外の仕事まで振られたりして……」
 俺と同じく客先常駐の面々ばかりが揃っているから、飲み会の席で挙がるのはそういう仕事の愚痴ばかりだ。
 酒飲んで馬鹿騒ぎする連中がいないのはありがたいが、これはこれで鬱陶しい。俺はそういう愚痴や辛いことを溜め込むのに慣れ切ってしまっているから――学生時代に身に着けた長所であり悪癖が、ひとまずは行儀のいい新入社員らしく見せてくれる。
 上司もさすがにまずいと思ったか、最年少の俺に話を振ってきた。
「そういえば鷲津くん、モルディブはどうだった?」
「いいところでしたよ」
 俺は答えつつ、携帯電話に保存してある写真を見せる。
 青い海と白い砂浜、美しい花嫁の写真は誰に見せても好評で、その度に皆が聖美を誉めそやす。
「何度見ても、奥さん美人だな……」
 誉められるとどう答えていいのかわからなくなる。否定するのは聖美に悪いし、だからといって『俺もそう思います』なんて言えるはずがない。
 それで曖昧に笑えば、惚気てるだの何だのとつつかれる羽目になる。
「奥手そうなのにこんなきれいな子、どうやって捕まえたんだ?」
「高校時代からの付き合いなんで……」
 ものは言いようだ。付き合い、のニュアンスが違うが。
 それに捕まったのはどう見ても俺の方だった。
 だが結果として今の幸せに繋がっている。苦手な飲み会でも、家に帰ってからのことを思えば何とかしのげる。
「でもよく思い切ったな。海外挙式なんて大変だったろ」
 上司の言葉に、俺は愛想笑いを浮かべた。
「まあ、彼女の希望なんで。値は張りましたが叶えてやりたかったんです」
 お互い社会人一年目で、結構思い切ったことをしたと思う。それ以前に生活の基盤が整っていたからできたことだ。
 俺としても、聖美の晴れ姿を見てみたかったのもあるし。
「へえ……」
 上司は驚いたのか目を剥いた後、訳知り顔で言い放った。
「しかし、新婚さんが遅くまで飲みに歩くもんじゃないぞ!」
「いや、飲めないんで一次会でお暇しますけど」
「早く帰って奥さんを安心させてあげなさい!」
 だったら誘うなよと思いつつ、俺は上司の理不尽さを笑って受け流しておく。
 社会に出るってことはある種の理不尽に身を委ねるということだ。それはもう十分わかってるし、その上で俺はコミュ障なりに、理不尽に晒されても平気な体質に生まれ変わりつつある。
 それはもちろん心のよりどころが――聖美がいるからだ。

 飲み会を予定通りお暇した後、俺は駅前のデパ地下に立ち寄り、ケーキを買った。
 初めてのボーナスで買う物にしちゃ安すぎる。でも他に思いつかなかったし、それ以前にスタンドプレーみたいな贈り物だ。もっと高いものを買うなら本人に聞くべきだろう。

 そしてアパート二階の部屋へ帰ると、ドアを開けるなり聖美がすっ飛んできた。
「ヤス、お帰りーっ!」
「うわっ、待て待て! ケーキが潰れる!」
 とっさに両手を上げたのでケーキの箱は潰れこそしなかったが、ちょっとは傾いたと思う。
 お構いなしに俺に抱き着く聖美が、そこで怪訝な顔をした。
「ケーキ? お土産?」
「ああ。紅茶淹れるから一緒に食べよう」
「やったあ! おりこうに待っててよかった!」
 聖美は自分でそう言うと、ケーキの箱を供物みたいに恭しく受け取る。
 それから嬉しそうに笑った。
「でも珍しいね。ヤスがケーキ買ってくるなんて」
「ボーナス出たからな」
 俺はあんまりケーキの類が好きじゃない。
 だが聖美が大好きで、買っていけば絶対に喜んでくれるのを知っている。
 それは俺たちがモルディブまで行ったのと同じ理由だ。

 俺たちの幸せは金で買える。
 安いものから滅多に手の出ない高級品まで、幸せはどこにでも転がっている。
 昔はそうじゃなかった。金を出して手に入るような幸せはどこにもなかった。逃げるしかない、そう思っていた時に聖美と出会った。
 彼女がいれば、デパ地下のケーキも安い紅茶も、全部幸せの元になる。

 スーツを脱いで着替えた俺は、二人分の紅茶を淹れて彼女に振る舞った。
 そして夜遅くだというのに、二人でケーキをつついた。聖美は案の定大喜びで、太るかもとか口では言いながら二切れぺろっと食べてしまった。
「金で買える幸せは、買っとこうと思ったんだよ」
 俺が打ち明けると、聖美はまた目を瞬かせる。
「どういうこと?」
「俺が働いて金を稼ぐのは、お前を喜ばせる為なんだって思って」
 理不尽な社会に身を置いて働き、稼いだ金で聖美の為の幸せを買う。
 そういうサイクルが、いつしか俺の中にできあがっている。
 もちろん仕事は楽じゃない。人間関係だって面倒くさい。でも、聖美の為ならと思うと頑張れる。
「ヤス、お疲れ様」
 聖美は優しく笑うと、甘やかすような口調で続ける。
「もしどうしても辛くなったら言ってね。私がヤスを養ってあげる!」
 甲斐性で言うなら彼女の方がよっぽどありそうだ。
 だが当然、俺はかぶりを振る。
「大丈夫だよ」
「本当に? 無理してない?」
「ああ。それどころか、まだ頑張れるって気がしてるよ」
 自分でも信じられないくらいだ。飲み会に行ったり、愛想笑いしたり、時には嫁の自慢をしたりして――かつての自分が嫌悪していた世界に俺はいて、なのに逃げたいとも、辛いとも思ってない。
 家に帰ればいつでも彼女がいる。
 聖美とこうして過ごす為なら、多少の理不尽だって気にならない。
「お前がいるって、幸せなことだな」
 俺がしみじみ呟くと、フォークを加えた聖美が色っぽく微笑む。
「だったらあとで、もっと幸せにしてあげる」
「ぶれないなお前……まあいいけど」
 せっかくだから、お言葉に甘えるつもりでいるが。

 ボーナスの残りは聖美の言う通り、貯金に回すつもりだ。
 いつ必要になるかわからないし――ならなかったとしても、貯金はあって困るものじゃない。
 何より今の俺には金で買える幸せがある。たくさんある。
 今度はどうやって聖美を喜ばせようか。そんなことを、毎日のように考える。
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