Tiny garden

メサイヤ

 部屋を借りた。
 同棲を始めた。
 大学はお互い卒業して就職もした。新社会人としての滑り出しはまあまあ。ヤスも『それなり』だと言っていた。
 愛はある。それはもうたっぷりと。私は高校を卒業する直前のあの日から、ヤスは――どうなんだろう? いつからか、どのくらいか、なんて言ってもらったことはないけど別に不安はない。一緒にいて一緒に暮らして一緒に寝て一緒に起きて、そういう生活を送っているのに今更『愛してるって言ってもらわないと不安なのー』なんて言うわけがない。
 そして、ここまでいろいろやっちゃったら、後に残ってるのはもう一つしかない。

「結婚しようか、ヤス」
 八畳のキッチンダイニングで朝食のトーストにジャムを塗りながら、私は彼に切り出した。
 彼は私が作ったオムレツを一口食べようとしたところで、すぐにフォークを持つ手を止める。
「は……? いきなり何だよ」
「だから、結婚。しようって話だったじゃない」
「い、いや、話してたけど……」
「じゃあしようよ。早い方がいいよね」
 こういうことは思い立ったが吉日、即断即決くらいがいい。別に脈絡のない話でもなくて、私達はずっと前からそれらしい話をしてきた。それを実行に移す時がたまたまやってきたというだけのことだ。
 と私は思っていたのに、
「随分急だな。何かあったのか?」
 ヤスはむしろ気遣わしげに聞き返してきた。
「何にもないよ、ふと思い立っただけ」
「本当か? 例えばその、子供ができてたとか……そういう話じゃないよな?」
 結婚を持ちかけただけで妊娠を疑われるのはちょっとおかしい。私はそれならそうとはっきり言う方だ、こんな回りくどいことはしない。
「違うよ。本当に結婚しようと思っただけだってば」
 きっぱり答えて、私はトーストにかじりつく。最近はアプリコットジャムがお気に入りで、同棲をスタートしてからもう三瓶空けてしまった。
「ならいいけど……いや、いいとか悪いとかじゃないけど」
 改めてオムレツを口に運んだヤスは、どことなく落ち着かない様子だった。色白の顔は瞬きが多く、内心うろたえているようなのが手に取るようにわかる。
「普通こういうのって、男の側から言うもんじゃないのか」
 更に彼が続けたので、今度は私が目を瞬かせた。
「そう? 女の子がプロポーズしちゃおかしい?」
「えっ、ってか今のがプロポーズなのかよ」
「結婚しようって言ったからね」
「だったら平日の朝飯時じゃなくて、もっと落ち着いた時にしろよ」
 信じがたいと言いたげにかぶりを振った後、ヤスはダイニングテーブル越しに私を見た。高校時代の面影がわずかに残るナイーブそうな顔立ちが、今でもすごく好みだ。見とれてしまう。
 私が見つめ返すと、彼はフォークを置いて姿勢を正す。
「言っとくけど、その気がないっていうわけじゃないからな」
「本当?」
「ああ。話してたのは事実だし、じゃなきゃ一緒になんて住まないだろ」
「嬉しい! 笑顔の絶えない家庭にしたいね!」
 肯定的な回答が帰ってきて私は浮かれた。
 ヤスの方はと言えば、どこか複雑そうに髪をかき上げてみせた。
「気が早いな、お前らしいけど」
 それから小さく溜息をついて、
「でも結婚っつったって、いろいろ準備もあるだろ。……式とか」
 気まずげに付け加える。
 結婚式と言うと一般的には両親をはじめとする親族一同、勤め先の人達、そして友人を呼ぶものだろう。私も式に出たことくらいはあるからわかる。そしてヤスが気まずげにする理由は当然のように熟知している。
「二人だけの式とか挙げちゃう? 南の島でも行って」
「み、南の島?」
「そういうプランもあるんだって。モルディブとかニューカレドニアとか」
 海外挙式というのはいい手だと思う。予算の都合で誰も招待できません、って言えるもの。両親には申し訳ないと思ってるけど、私はどうせ挙げるんだったら誰よりも彼に喜んでもらえる式にしたかった。その為には二人きりがいい。他には誰も呼ばなくていい。
「海外か。こんなことでもないと出かけそうにないしな」
 彼は感心したように頷いている。
「そうだよ。二人で休み合わせて、ハネムーンがてらってどうかな」
「まあ、悪くないかもな。費用次第か」
 私の提案に満更でもない返答をした後、言いにくそうに続けた。
「何だかんだで、やっぱり、見てみたい気はするんだよな……」
「何を?」
「いや、だから……結婚式を」
「結婚式だけ?」
「その辺のいろいろって言うか……」
「いろいろって何?」
「いいだろ何だって。追及しなくていい」
「やだ、聞きたい、教えて」
 この期に及んで濁すのでしつこくつっついてやる。
 追い詰められたヤスはやがて観念したのか、居心地悪そうに白状した。
「お前の、ドレス着たところが見たい」
「嬉しいな、そう言ってもらえて」
 私も彼の正装姿を見てみたいと思っている。海外だから羽織袴はないだろうけど、タキシードかフロックコートか、どれでも絶対素敵だと思う。楽園のような南の島で二人きり、永遠の愛と未来を誓い合うウェディング――今からうっとりしてしまう。 
「とりあえず、休みの日にでもじっくり話そう」
 想像に浸る私を、ヤスが慌てたように現実へ引き戻す。
「出勤の時間近いだろ、早いとこ朝飯食べないと」
 彼が指差すリビングの時計は午前七時を過ぎていて、私も渋々現実世界へ帰還した。
「もっといろいろ話したかったのに」
「だったら休みの日に切り出せよ、何だって今朝なんだよ」
「何となく思いついたから。いけなかった?」
「お前、相変わらず本能で生きてるよな……」
 彼には呆れられたけど、プロポーズは大成功だ。
 肩の荷が下りた私は晴れ晴れとした気分で朝食を食べ、身支度を整えて会社へと向かった。

 ところが、肩の荷が下りて晴れ晴れとしていたのは私だけだったらしい。
 その日の夜、仕事が終わった後で『買い物するから遅くなる』と電話をくれたヤスは、それから一時間後に部屋へ帰ってきた。
 ピンクのバラの花束を持って。
「……これ」
 玄関まで迎えに出た私に『ただいま』を言うより早く、スーツ姿の彼は花束を差し出してきた。
 私は驚きながらそれを受け取る。
「ありがとう。……私にだよね?」
「ああ」
「ありがとう、嬉しい。でもどうしたの、花束なんて」
 今日は私の誕生日でもないし、もちろん彼のでもない。二人が付き合いだした記念日でもないし、そもそもその日は一体いつと定めればいいのかわからないままで、今となってはどうでもよくなっていた。
「本当はこういう時、指輪とかなんだろうけど」
 私に一旦背を向けて、靴を脱ぎながらヤスは言う。
「聖美がどんな指輪好きかって、そういえば知らなかったから、花束にした」
 正直に言えば、私は指輪なんてしない方だ。自分で買うものではないと思っているし、指輪をしたらヤスに触れる時邪魔になりそうで嫌だった。だから欲しい指輪を聞かれても答えられなかったと思う。
 でも、だとするとこの花束の意味は――私はオーガンジーで包まれた七本のバラを見下ろした。はっきりとした鮮やかなピンク色で、香り高い大輪のバラだ。
「プロポーズに花束って、ベタなのかもしれないけど」
 靴を脱ぎ終えた彼は立ち上がり、振り返って私に向き合う。
 表情は硬い。でも目は真っ直ぐに私を見つめていた。
「でも俺も言いたかったから……買ってきた」
 そう言うとヤスは一度大きく深呼吸をして、それから、
「結婚して欲しい、聖美」
 と言った。
「うん」
 私は即座に頷いた。答えは一つきりしかない。
 だけど答えてしまってから、あまりにも簡潔な答えではないかという気がして少し困った。答えは決まっていたし、そもそもプロポーズなら私の方が先に済ませてしまっている。だから、その言葉も花束ももちろん嬉しいんだけど、同時に酷く戸惑っていた。
「もしかして、この為にわざわざ買ってきてくれたの?」
「そうだよ」
 ヤスは頷き、困ったように苦笑する。
「何だ、思ったより喜ばないんだな」
「よ……喜んでるよ、嬉しいよ。花束持ってるから抱きつけないだけ」
「俺らしくもないことしたって思ってるだろ。自分でもそう思う」
 確かにそう思う。
 大体こういうことは私が先にするもので、ヤスは私に押し切られる形でいつも渋々ついてきた。同棲を決めた時だってそうだった。もっと前から、いろんなことがそうだった。
 でもこの花束は違う。私は何も頼んでないし、ねだってもいなかった。
「花なんて買ったことなくて、色からしてすごく悩んだ」
 だからなのか、ヤスは少しくたびれた様子だった。
「店員にあれこれアドバイス貰ってさ。向こうは客商売だから親切にしてくれたけど、俺みたいな客は面倒くさかったろうな。花言葉もバラの本数の意味もいちいち説明してもらわないとわからなくて、自分で決めたのは色と品種くらいだ」
 それで私は彼がこの花束を購入する姿を想像してみた。夜のフラワーショップに駆け込んでくる仕事帰りの若いサラリーマン、買い物はプロポーズ用のバラの花束。何色にするかで悩み、何本買うかでまた悩み、見かねた店員さんに声をかけられ恐縮して――ドラマみたいな筋書きもヤスなら絵になるなと思う。
 何よりも、彼が苦手なことを私の為に、一生懸命してくれたんだということが嬉しい。
「このバラ、『メサイヤ』って品種なんだ」
「メサイヤ? 格好いい名前だね」
「ぴったりだろ、お前に」
 ヤスがそう言うので、私は改めてそのバラを眺めた。
 メサイヤ。仰々しい名前を戴くにふさわしい、風格ある大輪のバラ。彼の中の私のイメージはこんなふうなんだろうか。
 それとも名前そのものがということなんだろうか。メサイヤ。救世主。
「もしお前がいなかったら、俺は……」
 言いかけて、やめて、彼は強くかぶりを振った。
 そして私に向かって、ぎこちなくではあるけど笑いかけてきた。
「違うな。お前がいるから、俺は生きてる。ありがとう」
 その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏にはたくさんの思い出が一瞬にして蘇ってきた。
 私は自分でも知らないうちに彼の命を救い、彼をこちら側へ繋ぎ止めてきた。私はただ恋をして、好きな人に思いの丈をぶつけただけだったのに、それが人の命を、それも当の好きな人の命を救うことに結びついていたなんて、とても恐ろしいことだ。たまたま上手くいったからよかったものの、もしそうではなかったら、今のこの時間だってやっては来なかった。
 そう思うと嬉しくてたまらなくて、涙が込み上げてきた。
「……どうして泣くんだよ。喜ばせようと思って買ってきたのに」
 笑いを含んだ彼の声がする。
 あの頃の絶望も、死を選ぼうとしていたことも、遠い昔のことみたいに笑っている。
「嬉しくて……変かな、泣くの」
「どうだろうな。俺、嬉し泣きってしたことないし」
 ヤスが、花束をつぶさないように私をそっと抱きしめてくれた。
「でもこれから、することもあるかもしれない。お前といたら……」
 それなら、私は私の生涯を懸けて彼を幸せにしよう。
 私が彼にとっての救世主なら、きっと私にはそれだけの力があるはずだ。
「幸せなんだ。今まで生きてきた時間の中で、今が一番」
「うん……」
「だからお前の為なら、何でもできる」
 それは私にとってこの上ない愛の言葉だった。
 だって彼が言ってくれたことを、私も一字一句違えることなく同じように思っている。

 引っ越したばかりの私達の部屋には花瓶がなくて、仕方がないのでジャムの空き瓶に活けた。
 でも風格ある大輪のバラは、たとえ空き瓶に活けられても見劣りすることなく、美しかった。
「ところで、一つ聞いていい?」
「何だよ」
「バラの本数にはどんな意味があるの? さっき言ってたよね」
 バラの花束は七本。店員さんに意味を教わったって、ヤス自身が言っていたけど。
 テーブルの上で咲き誇る『メサイヤ』を眺めながら尋ねると、彼は照れたように目を伏せて答えた。
「内緒」
「あっ、酷い! 教えてくれないの?」
「どうせ調べればわかるだろ」
 ヤスは肩を竦めると、私に向かって微笑んだ。
「わかっても黙ってろよ。口にしたら安っぽくなりそうで、嫌なんだ」
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