Tiny garden

巣立ちの時(2)

 聖美と一緒の部屋に住むようになってすぐ、俺もバイトを始めた。
 あいつの稼ぎだけで暮らしていくのは何となく悔しかったし、ちょうど近くのスーパーで品出しのバイトを募集していたのもあって始めてみた。春からは社会人だから、そこまでの穴埋めのつもりで働くことにした。
 商品の陳列と補充だけという勤務内容だから俺みたいなのでも勤まるかと思ったが、意外と人と口を利く機会が多かった。店のエプロンつけて店内をうろつけば客から話しかけられるし、同じ店で働く人達とも『おはようございます』『お疲れ様です』『お先に失礼します』だけで会話が済むわけじゃない。だけど世間話もできないようじゃこれから訪れる社会人生活もままならないだろうし、リハビリのつもりで乗り切っている。今のところ、楽しいとは決して言えないがどうにかやっている、って感じだ。
 俺は未だに人と接するのが苦手だ。大学生活では結局、顔見知りは数人いても友人はできなかった。バイト先でも同年代のバイト仲間やお客さんに話しかけられると途端にうろたえてしまう。変な奴だと思われるのはしょうがない、逆の立場なら俺だってそう思う。でも、何と思われてもしがみついてやるつもりだった。

 バイトの勤務時間は午後六時から十時まで。何だかんだで仕事が終わると、ほっとする。
 タイムカードを押して裏口から店を出ると、俺はすぐに聖美へ連絡を入れる。
「今終わった。これから帰る」
『お疲れ様! 帰ったらご飯食べる?』
 電話に出る聖美の声はいつも明るい。別々に暮らしていた頃からそうで、俺からの連絡をいつも楽しみにしてくれているようだった。
 これはデートの誘いでも何でもない、単にバイトが終わったってだけの報告なのに、なんでそんなに嬉しそうにするんだ。
 俺は込み上げてくる苦笑いを噛み殺しながら答える。
「食べる……かもしれない。あんまり食欲ないんだ」
 夜の十時過ぎじゃ、これから何か食べるという気にもならない。軽くつまむ程度でいい。そう思っていると、彼女が言った。
『そっか。今晩、鶏の唐揚げだったんだよね』
 聖美は当たり前のように料理をする。朝と夜の一日二回、俺と自分自身の為に何かしら作ってくれる。もともと人間の三大欲求にすこぶる忠実な奴だから、食べることについても驚くほど熱心だ。自分の食べたい献立は一通り作れるらしい。
 自分で言うのもおかしいが俺は食べることに執着のない人間だった。だから聖美が毎日食事を作ってくれることにまだ慣れていなかった。両親と暮らしていた頃は朝は菓子パン、夜は弁当を買って食べていたし、貰った金を他のことに使い込んで飯抜きなんて真似をしたのも一度や二度じゃなかった。作ってもらえないからといって自分で作る気にもならなかったのは、あの家では食欲なんて湧かなかったせいかもしれない。
 でも聖美が何かを作ってくれると、夜の遅い時間でも不思議と腹が減ってくる。
「じゃあ、少しだけ貰う」
 考え直して俺は告げた。
 途端にわずかながら、彼女の声がより明るさを増したような気がした。
『うん、わかった。ご飯はどうする?』
「そうだな……そうめんってあったっけ。そうめんと唐揚げでいい」
『あるよ、鍋にお湯沸かしとくね』
「頼んだ」
 俺はそう答えた。その返事が我ながら簡潔に思えたから、ついでに何か言うべきか、夜空を見上げながら考える。
 だがそれより早く聖美が笑い、
『じゃ、気をつけて帰ってきてね。待ってるから』
 心なしか急かすみたいに言ってきたから、俺も、言いたいことは帰ってから言えばいいかと肩を竦めた。
「ああ。すぐ着くよ」
 そして電話を切ってから、一層早足になって部屋へと向かった。
 バイト先のスーパーから借りた部屋までは約八百メートル。歩きでも十五分もかからない。聖美が推した通りのいい物件だった。
 近くに小学校があって日中は少しうるさいのが難点だが、それも聖美に言わせればセールスポイントらしい。もし私達に子供ができたら、通わせるのが楽でいいね、だそうで――仮にできたとして、小学校に通わせられるのが何年先だと思ってるんだろう。俺達はまだ家族になったわけではないんだから、新しい家族のことを考えるのはまだまだ気が早い。
 でも、家族みたいなものだ。
 少なくとも本物の家族がいたあの家よりも、帰りたい場所は彼女のところだった。
 いや、今となっては『本物の』なんてどこにもないのかもしれない。

 家を出る前に、両親と話をした。
 話の内容はありきたりなものだ。この家出て、別のところに部屋借りて暮らすから。そう言った後、今までありがとうございましたとおざなりに付け加えるのが精一杯だった。
 能面みたいな表情の両親を目の前にすると足が震えて、冷や汗が出た。それでも何とか言い切ると、両親は顔を見合わせた後で互いに冷たく言い捨てた。
『そうか。散々育ててもらっておいて親不孝者だな、お前は』
『帰ってきた時にはこの家があるなんて思わないでね。覚悟して出て行きなさい』
 それから二人はいつものように口論を始めた――こんなできそこないでも一応、子はかすがいってやつだったらしい。今度こそ本気で離婚をする気で、お互い自分にいい条件を引き寄せようと必死になっていた。
 言い争う声が聞こえる中、俺は自分の部屋の荷物をまとめた。この時にはもう、耳を塞いでいる暇さえないと思っていた。出て行く時は二人に声をかけず、黙って家を後にした。
 実際、俺は親不孝な息子だと思っている。両親は俺に愛こそなかったものの、莫大な金をかけてくれたことは事実だった。逆に俺が両親の為にできたのは、二人の言い争いに割って入らないようにすることだけだった。そして両親は出て行こうとする俺を詰じりはしたが、決して引き止めはしなかった。だから俺も家には戻らない。家にいたって、両親の為にしてやれることは何もないからだ。

 俺が考えるべきなのは、この世で唯一俺を好いてくれている奇特な相手のことだけだ。
 いつか聖美こそが、俺にとってたった一人の家族となるだろう。他でもない彼女がそう望んでいるから、俺もそうするつもりでいた。
 ぼんやりと考え事をしているうち、まだ見慣れないアパートの外観が前方に伸びる道の端に浮かび上がった。あのアパートの二階、西側の部屋が俺達の家だ。窓にはカーテンが引かれていたが、ほんのりと一筋の明かりが漏れていた。それを見た途端に気分が弾んで、早足だった歩みが一層速くなる。飛ぶようにアパートの外階段を駆け上がった。
 家に帰るのが嬉しい、なんて思ったのは生まれて初めてかもしれない。子供の頃、学校で酷くいじめられていた頃だって、それでも家に帰るのは憂鬱でしょうがなかった。二階にある自分の部屋に引っ込んでドアをしっかり閉めるまでは気が休まらなかった。それだって両親が口論を始めるまでの、ほんのささやかな安らぎに過ぎなかった。
 でもあの部屋には憂鬱なんてない。おまけに俺を待っててくれる相手がいる。これが幸せじゃなくて何だって言うんだろう。
「……ただいま」
 玄関の鍵を開け、ドアノブを回しながら声をかけた。
 なぜか点いていた玄関の明かりの下、誰かが勢いよく飛び出してきた。
「お帰りーっ! 待ってたよ!」
「うわ、ちょっ、危ないだろ!」
 容赦のない勢いで首にしがみついてきた聖美を、俺はすんでのところで抱きとめた。背後でドアが閉まっていたから頭や肩をぶつける程度で済んだものの、もしドアが開いたままだったらころんと外へ転がり出る羽目になっていたことだろう。
「急にそういうことするなって……びっくりする」
 ドアに寄りかかった姿勢のまま、後頭部と肩の辺りにずきずきする痛みを覚えつつ、俺は聖美をたしなめた。
 俺の腕の中で顔を上げた聖美は、全くと言っていいほど悪びれない様子で答えた。
「驚かそうと思ってしたんだよ」
「そもそも人を驚かすなよ」
「いいじゃない、こういう刺激も新婚生活には必要なんだから」
「まだ新婚じゃないだろ」
 そう言い返したら、彼女は少し不満げに唇を突き出した。もう夜も遅いというのに彼女の唇はやたら赤く、つやつやとしていた。俺が帰ってくると聞いて塗り直したみたいにきれいだ。
 何を求められているのかはわかったから、俺も彼女に顔を近づけようとして――ふと、抱き締めていたその身体の違和感に気づく。俺は彼女の背に腕を回していたが、その回した先の手が彼女の、なぜか剥き出しの肌に触れた。
 思わず視線を下げると、俺にしがみつく聖美はすべすべした白い背中を晒していた。
 よく見るとその背中にリボンのような紐が結んである。
 俺はキスを待って目をつむっている聖美の身体を引き剥がし、その前面をまじまじと見た。聖美はややシンプルな白いエプロンを着ていた。
 エプロンしか着ていなかった。
「……何やってんの、お前」
 呆然と呟けば、聖美はようやく目を開けて、俺に向かって微笑む。
「新婚さんならお約束かな、と思って」
「だから新婚じゃないって……と言うかそもそもそういう問題でもなくて」
「そんなにしげしげ見られると恥ずかしいよ、ヤス」
 頬に手を当てて恥じらうそぶりがこれほど白々しい女もそういないだろう。もじもじするふりをして、俺を横目でちらちらと窺っている。そういうそぶりが可愛く見えないわけではないが、同時に罠にかけられたみたいでちょっとむかつく。
「じゃあ服着ろよ」
 俺の言葉に聖美は少し拗ねて、たちまち頬を膨らませてみせる。
「え、何それ。ヤス、ちょっと冷たいんじゃない?」
「冷たいって言うけど、いきなりそんなの見せられてどうしろと」
「どきどきしない? ぐっと来ない?」
「いや、俺すっかり飯食うモードで帰ってきたから、気持ちの切り替えが……」
 聖美は未だに誤解してるようだが、男っていうのは意外と繊細な生き物なんだ。特に今の俺は三大欲求のうち食欲を特にふつふつと滾らせていて、唐揚げ食べるの何年ぶりだろう、聖美の料理なら問題なく美味いだろうな、なんて想像を巡らせながら帰ってきたもんだから、いきなりのエプロン一枚に考えが追いつかなくなってる。
「別にご飯食べてもいいよ? 私は隣座ってるから」
 平然と彼女が言うので、俺は頭を抱えたくなる。
「お前な、隣に半裸の人間置いて普通に飯食えると思うか?」
「うん。私はヤスをおかずにご飯が三杯は食べられるよ」
「……聞いた俺が馬鹿だった」
 聖美のことはもう十分わかってたはずなのに、常識を突きつけて納得させようとする方が間違いだった。俺も大概馬鹿だ。
「ねえねえ、感想くらい言ってよ。ヤスはこういうの嫌いじゃないでしょ?」
 呆気に取られている俺の前で、聖美は見せびらかすようにぐるりと一回転してみせた。
 嫌いかと聞かれたら、そりゃまあ、嫌いではない。
「悪くはないよな」
 見栄張って否定するのも何だし、素直に頷いた。
 真正面や真後ろ以上に横から見た感じが特にいい。あんなに腹減ってたのに食欲がどこか行きかけるくらいにはいい。こういうのをためらいもなく試しては笑っている聖美の明るさも、俺は好きだった。
 言葉以上に俺の表情や目つきから反応のよさを読み取ったんだろう。聖美が赤い唇を吊り上げて微笑んだ。
「ヤス、ご飯にする? それとも……」
「お前も相変わらずだよな。こっちは疲れて帰ってきてるってのに」
 照れ隠しでそう言ったら、聖美はすっと腕を伸ばして、柔らかい手のひらで俺の頬を撫でた。
「なら、ヤスは何にもしなくていいよ。私がしてあげる」
「それは嫌だ。お前、襲ったからには今夜寝られると思うなよ」
 言い返しながらその首筋に噛みつくと、聖美は嬉しそうに改めて抱きついてきた。

 で、翌朝、午前七時。
 一緒に風呂に入りながら、聖美が珍しく唸っていた。
「ねむーい……」
「勝手な奴だな。昨夜は俺に奇襲をしかけといて」
 バスタブに湯を張って、二人で浸かっている。さすがに大の大人が二人いっぺんに入ると若干狭い。だが狭さに関しては聖美は文句を言わないし、俺も言う気はない。俺は彼女を膝の上に乗せ、彼女は俺にもたれかかってまどろんでいる。
「俺なんかめちゃくちゃ腹減ってるのに」
 結局、あれから夕飯は食べなかった。食べている暇がなかった。
 寝かさないとは言ったが数時間は寝た。だから聖美よりも俺の方がかわいそうな状況だと思う。どちらにせよ文句を言うのはお門違いだろうが。
「じゃあ今ご飯食べたら、きっとものすごく美味しいよ」
 例によって、聖美には反省するそぶりなんてまるでない。眠そうな目をしながらも、どこか幸せそうに微笑んでそう言った。
「だろうな。鶏の唐揚げなんて久々だし、食べるのが楽しみだよ」
 俺は頷いた。
 食事が楽しみだと言える生活は至極真っ当で、健全だと思う。俺達の場合は多少爛れてはいるかもしれないが、それでも幸せだからいい。不安や憂鬱や恐れしかない暮らしとは、比べようがないほどいい。
 浴室のすべり出し窓からは朝日が差し込んで、クリーム色の壁や乳白色の湯や濡れた髪を軽くまとめた聖美の姿を照らしている。伏せた長い睫毛には髪から落ちたのか小さな雫がついていて、それが精巧なガラス細工みたいに光って見えた。
 聖美の寝顔は純粋無垢できれいだ。起きてる時はきれいじゃないなんて言うつもりはないが、寝顔だけを見ていると、こいつ一人くらいは守れる人間でありたい、なんて柄にもないことを考えたくなる。今の俺がそこまで言うにふさわしい人間かどうかはなはだ自信はないが、帰る場所をここだと決めた以上はそのくらいやってみせたかった。
 ふと気まぐれでそのこめかみにキスしたら、聖美が目を開けた。とろんとした目つきで言った。
「すごく幸せ……」
「そりゃよかった」
 俺でも聖美を幸せにしてやれてるなら、ほっとする。
 本当はもっと、少なくとも俺が幸せにしてもらった分くらいは返せるようになりたいが――その為にも就職までバイトは続けなきゃいけないな。頑張るか。
 こいつがいなかったら、俺はここにいることも、あの家を出てくることだってできなかった。
「俺も今のとこ、人生で一番今が幸せかもな」
 彼女の言葉に応えるみたいに、そう呟いてみる。
 すると聖美は頬をすり寄せてきて、
「今が暫定一位だね」
「ああ。これからもっと幸せになれそうだ」
 俺も素直にその頭を抱き寄せる。
 これから何があっても。嫌なことや辛いことが当たり前の顔をして俺に降りかかってきたとしても、聖美がいるこの部屋に帰れると思えば乗り越えられる気がしてくる。
「幸せにしてあげる。私がここを二人だけの楽園にしてあげるから」
 そう言った聖美が振り向いて、ゆっくりと唇を重ねてきた。
 黙ってキスを返すと、なぜか笑い声を上げた聖美が試すように俺を見る。
「ねえ、ここでする?」
「しないよ、声響くだろ。引っ越してきて早々、騒がしくするのはまずい」
「ヤスが声抑えてれば大丈夫だよ」
「何で俺なんだよ。と言うか腹減った。食わないと何にもできそうにない」
 俺が空腹をいつになく強く訴えると、聖美はさっきとは別の顔で笑った。
「じゃあ、上がったらすぐご飯にするね」

 今の俺は聖美のことを言えないくらい、自分の欲求に忠実な暮らしをしている。
 でもここにはそれを咎める奴も、制止してくる奴もいない。
 まさしくここは楽園だ。ごく小さい、だが俺にとっては果てしない幸福が待っている楽園だった。
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