Tiny garden

巣立ちの時(1)

 初めて朝帰りをしたのは十八の時だった。
 久我原聖美に打ち明けたいことがあって、わざわざホテルの部屋を取って泊まったあの時だ。でも思うところあって、最終的に秘密を話すことはないまま風呂入って、一緒に寝ただけで終わった。それまでの過ごし方から比べれば、朝帰りだというのに非常に健全だった。
 あの後、彼女と別れて家へ帰る途中、俺はほんの少しだけ期待していた。俺の朝帰りを知った両親が怒ってくれるんじゃないかと思っていた。駅前からバスに乗って帰って、バス停から家までの道を背中を丸めて歩いた。首の後ろに朝日が突き刺さるように感じたのを覚えている。玄関のドアの前に立った時、急に緊張してきて深呼吸をした。ズボンのポケットから鍵を取り出し、なるべく音を立てないように回そうとしたけどできなくて、シリンダー錠が回る音がやけに響いてどきっとした。息を潜めて中に入り、靴を脱いで揃えて、それから覗いたリビングには――両親がいた。
 能面のような表情に険悪な空気をまとって、二脚あるソファにわざわざ離れて座っていた。
 俺がドアを開けるとこちらを振り向いたが、何も、何一つ言わなかった。どこへ行っていたのか、誰といたのかも聞かれなかった。
 だから俺は二人の間を黙って突っ切り、台所に行ってコップに水を入れて飲んだ。
 その後は自分の部屋に引っ込んで、帰ってくる時よりも息を潜めて、二人がどこかへいなくなるのを待っていた。
 俺が育ったのはそういう家だった。

 うちの両親はどちらも自己主張の非常に強い人間だった。
 一体どういう出会いと経緯を経て、あの二人が結婚なんてとち狂った行動に踏み切ったのか、今でもわからない。ただその結婚生活は俺が小さな頃から既に破綻していた。二人とも仕事に没頭していて、家へは喧嘩をしに戻ってくるような生活だった。お互いに自分の仕事に誇りがあるらしく、それで相手が家庭を顧みないことを責め立てていた。二人の口論はいつも自分と相手のことだけで、そこに俺が入る余地はなかった。
 俺も小さな頃はまだまともな神経をしていて、親が喧嘩をするのを見ているのが辛かった。それで何度か止めに入ったけど、そうすると二人の矛先は俺の方へ向いた。いろいろ、思い出したくもないことを言われた。耳を塞いでも聞こえてきた。それで俺はいつからか親に干渉するのを諦め、自分の殻に閉じこもるようになった。中学に上がる頃には親とほとんど会話をしなくなったし、酷い時には一日中誰とも口を利かずに過ごした。
 どんな能力だって使わなければ自然と鈍る。十代の俺は人と口を利くのがすっかり苦手になっていた。そのくせ耳だけはとてもよくて、聞きたくもない話を延々と拾い続けた。尚も続く両親の口論も、クラスメイトの陰口も、面と向かって馬鹿にしてくる連中の嘲り笑う声も、全部。
 久我原聖美には別の機会に、結局は打ち明けざるを得なくなってしまったが、あの頃の俺はこの世から消えてなくなることだけを願っていた。それもできるだけ、周囲に嫌な記憶を植えつけるようなやり方で。そうしたらクラスの連中は晴れがましいはずの高校卒業を陰鬱な記憶と共に迎える羽目になるだろうし、誇り高い仕事をしているうちの両親も学校に謝ったり、警察に呼び出されたりして散々な目に遭うんだろう。そうだとしたら最後の最後で溜飲が下がるというものだ。
 ――本気で、そんなことを考えていた。

 大人になった今ならわかる。
 あの頃のクラスの連中は、嫌われ者のクラスメイト一人が勝手に死んだところで大してうろたえもしないだろう。そりゃ一時は騒ぎになるだろうがあっという間に忘れられて、何年か後の同窓会で格好の酒のつまみになるだけだ。
 そしてうちの両親は厄介払いができたとせいせいするだろう。俺がどうしてその選択をしたのか知りもしないままだろうし、俺の為に、あるいは金の為にでも裁判起こして戦うなんてこと、絶対にしないだろう。
 だから、俺は生きててよかったんだ。
 あの時止めてもらってよかったんだと、今は思う。

 俺を止めてくれた久我原聖美とは、大人になった今でも一緒にいる。
 現在は俺の隣で、不動産物件の情報を熱心に読み耽っている。
「……バス停まで徒歩二分、最寄のスーパーも八百メートル先だって」
 2DKの間取りとカラーの外観画像の下、ずらずらと並んだ物件情報をつぶさに眺めては俺に向かって読み上げる。一緒に見てるんだから言われなくてもわかってるのに、黙って見ているということができないらしい。
「ね、ここにしようよ。通勤にも便利だし、結構広いし、駐車場タダだし」
 そうして顔を上げた聖美が目を輝かせて訴える。
「まだ一件分しか見てないだろ、もっと吟味してから決めろよ」
 俺は不動産屋のテーブルに並んだ、プリントアウトされた数枚の用紙を彼女の前に押しつけた。
 用紙には、不動産屋がこちらの条件を聞いて選び出してくれた物件ばかりが掲載されている。だからどれも条件はほぼ同じだ。駅かバス停が近くにあり、リビングかダイニングの他に二部屋、築年数は問わないができれば駐車場無料。家賃も似たり寄ったりで、バイトで貯めた金が軍資金の俺達にもとりあえず数ヶ月賄える額だった。
「それにこういうのは情報だけ見るんじゃなくて、実際に見に行ってから決めるんだよ」
 聖美があまりに安直に決めそうになっていたから、俺は声を潜めて釘を刺す。
 すると彼女は目を瞬かせ、すぐに楽しそうに笑った。
「あ、そういえばそうだね。やっぱり内装とか見てみたいもんね」
「そういうこと。わかったら他のもちゃんと見ろよ」
「はーい」
 素直に返事をして、聖美が別の用紙に手を伸ばす。
 すると不意にくすくす笑いが聞こえて、俺達は同時に顔を上げた。
 笑い声の主は差し向かいに座るスーツ姿の店員で、こちらを見て、いやに人懐っこい顔つきで言った。
「亭主関白なんですね。同い年でそういうカップルって最近珍しいですよね」
 俺達より数歳上といった印象のこの店員は、客商売らしく話しかけてくる口調も妙に親しげだ。昔の俺なら不快感しかないところだが、今はそれを『仕事でやってんだろうな』と受け入れるくらいの余裕はあった。
「そうなんです。私はいつも三歩下がって、彼の影を踏まないよう歩いてて」
 すかさず聖美が恥じ入るふりで答えたので、俺は思い切り溜息をついてやった。
「誰がだよ……。お前が三歩下がってるところなんて見たことないぞ」
「そりゃ下がってるんだもの、見えっこないよ」
「むしろ常に前を行ってるだろ。何かっていうと決めるのはいつもお前だ」
「それを許してくれる器の大きい彼氏がいて幸せだよね、私」
 彼女が屁理屈みたいな答え方をすると、不動産屋の店員がまた笑う。他人の惚気で笑わなきゃならないなんて大変な商売だ。聖美も人前では自重すればいいのに、放っておくとどこでもべたべたしたがるのが困る。やめろって言っても聞かないし。
 何を言っても聖美を言い負かすことなんてできないとわかっている俺は、卓上の物件情報を適当に拾い、黙って睨みつけるように読んだ。
「でもやっぱりさっきのとこがいいよ、だってバス停まで徒歩二分だよ?」
 ややもせず、聖美がくいっと袖を引いてくる。どうやら最初に見た2DKが気になってしょうがないらしい。
「私もヤスも春から社会人なんだし、交通の便のよさって大事じゃない」
 確かにそれも事実だ。春の暖かいうち、天気のいい日なら多少長い距離を歩くのも気にならないが、天候の悪い日に駅やバス停までとぼとぼ歩いていくなんて憂鬱でしかないからだ。
「まあ、条件はいいよな」
 駐車場がタダというのもいい。俺のボロ車を置いとく場所が必要だからだ。
 俺が譲る姿勢を見せたからか、店員がそこで腰を浮かせた。
「でしたらそこの大家さんに連絡取ってみますね。今から内覧できるかどうか確認してみます」
「お願いします!」
 間髪入れず聖美が頭を下げ、店員は頷いて俺達のいるテーブルから離れていく。
 そしてパーテーションで仕切られたテーブル席には俺と聖美の二人だけが残され、そうなると聖美は黙ってない。指を絡めるように手を繋いできて、俺に向かって甘えるように笑んだ。
「楽しみだね。私達の部屋、見に行くの」
「まあな」
 店員がいつ戻ってくるかわからないから、俺は素っ気なく答えた。
 繋がれた手はテーブルの下に隠して、軽く握り返しておいた。

 もともとは大学を卒業したら一緒に住もう、という話になっていた。
 その辺は俺も異論はなく、それでいいと応じた覚えがある。就職先の希望を市内もしくは近郊でと決めたのも、ここに実家があるからではなく、聖美がいるからというだけだった。それは聖美も同じだったようで、二人揃ってこの近辺での就職を考えていた。自分達で金を稼ぐようになれば、実家にしがみついている必要だってなくなる。今よりもっと幸せな暮らしができる。そう思って、約束をしていた。
 ところが卒業を半年後に控えたこの秋、お互いに希望通り内定を取った気の緩みからか、聖美が急に態度を翻した。
『やっぱり私、卒業までなんて待てないよ。もう一緒に住んじゃおう?』
 急にとは言ったが予兆もあった。去年辺りから彼女がバイトを始めたのだ。就活を控えてるのに余裕あるもんだと俺は思ったが、全てはこの時の為にということだったのかもしれない。
 かくして彼女は預金通帳を錦の御旗に俺を黙らせ、ほとんど押し切られる形でこの秋から気の早い同棲生活を始めることとなった。
 もっとも、俺としても気乗りしないわけじゃなかった。大人になってしまった今、あの険悪な空気が流れる家で暮らすのは苦痛を通り越してナンセンスに思えた。正直に言えば聖美と会う度にホテル代がかかるのも地味に辛かったし、何より今の俺には、聖美と一緒に過ごす時間こそが唯一の――まともに『生きてる』時間だと感じてもいたからだ。一緒にいない理由なんてない。
 少し迷った後で頷くと、聖美は嬉しそうに笑って勢いよく俺に飛びついてきた。危うくそのまま押し倒されて、頭を打つところだった。
 だが、聖美が喜んでるからいいか。そう思って、受け止めておいた。

 俺達は不動産屋に連れられて車に乗り込み、内覧とやらに出かけた。
 俺は子供の頃から引っ越しというものをしたことがなくて、家具の入っていない家を見るのは初めてだった。アパートの二階の部屋に、鍵を開けてもらって立ち入った。まずは玄関で靴を脱ぎながら、靴箱の大きさなどを確かめておく。内覧でまず確認すべきは収納だとネットで見たからだ。
「わあ、広い! でもくらーい!」
 玄関から抜かりなくチェックを入れる俺とは対照的に、聖美はさっさと中に入ってしまった。全ての窓の雨戸が閉まっていたのは外観からわかっていたので、中が暗いのは当たり前だ。
「雨戸を開けてみても構いませんか」
 後から入ってきた不動産屋の店員に尋ねたところ快諾されたので、俺も聖美の後を追い、室内に入る。
 まずベランダに面したダイニングに入り、ガラスの窓を開ける。そこからやや重い雨戸を押し上げると、たちまち眩しい日光が室内に差し込んできた。
 その光に呼ばれたみたいに聖美がこちらへすっ飛んでくる。
「明るくなった!」
「子供じゃないんだから、見たままのこといちいち言わなくていいよ」
 何だか妙にはしゃいでいる。俺は苦笑したが、聖美は更にテンションを上げて別の窓へ突っ込んでいく。
「ねえねえ、どうせなら全部開けちゃおうよ!」
「そうするつもりだったよ。暗いとよく見えないしな」
「じゃあヤスはそっちね、私こっち開けるから!」
 彼女が奥の部屋の窓を開けに行ったのを横目に見てから、俺ももう一つの部屋の窓と雨戸を開放した。
 すると空っぽの部屋には光が溢れ、中がよく見えるようになった。築年数はそれなりだったが適度にリフォームされているらしく、壁紙もフローリングの床もきれいだった。家具のない部屋はがらんとしていて、予想していたより広く見えた。もちろん実際に暮らすに当たってはあれこれ家具を運び込むことになるだろうから、こんなに広くは感じないだろうということも考慮しておかなくてはならない。
「やっぱりいい感じじゃない? 思ってたよりきれいだし……」
 目を輝かせて部屋を見回していた聖美は、その後でふと思い当たったようにまたどこかへ飛んでいった。
 かと思うと玄関の方から声がして、
「ヤス、こっちにお風呂があるよ!」
 どうやらバスルームを確認しに行ったらしい。
 それも確かに大切なことではあるが、まさに気が早いと言うかせっかちだと言うか――もたもたしているとしつこく呼ばれそうなので、俺は慌ててバスルームへと足を向ける。
 擦りガラスの戸を開け、聖美はバスルームを覗き込んでいる。俺が近づいていくと振り返り、ちょっと嬉しそうな顔をした。
「お風呂は広くないと駄目だよね。ここの浴槽なら大丈夫じゃない?」
「悪くはないな。それに思ったよりきれいだ」
 クリーム色の壁と浴槽を、縦長のすべり出し窓から入る日差しが照らしている。実際に風呂に入るのは大抵夜だろうが、湿気の問題を考えると採光も無視はできない。
「私はこの部屋、気に入っちゃった。ここにしない?」
 バスルームをじっくり検分した後、聖美がねだる口調でそう言った。
 俺もこの部屋に悪印象はなかったが、一件目を見ただけで決めるなんて馬鹿げたことはしたくない。
「他のところも見てから決めよう。もっといいのがあるかもしれない」
「わかった、いいよ。でもここが暫定一位でいいよね?」
 聖美は素直に頷き、聞き返してくる。
「そりゃ一件しか見てないんだから、一位にもなるだろ」
 俺が冷静に突っ込んだら、不動産屋の店員が吹き出し、その後で慌てていた。
「すみません。いい漫才コンビだなと思って……」
「だって。いっそ夫婦漫才でも始める?」
 調子に乗った聖美がそんなことを口走ったので、俺は黙って首を横に振った。

 人間、変われば変わるものだ。
 他人とまともに口も利けなかった俺が、今じゃ『漫才コンビ』なんて言われるほどよく喋ってる。もちろん相手が彼女の場合だけだが、それでも大した進歩だと思う。
 聖美と一緒に部屋を見て回っているうち、じわじわと実感が込み上げてきた。
 俺はもうじき、あの家を出るんだ。
 そうしたらもっと何かが変わるかもしれない。そんな予感も、確かにあった。
▲top