Tiny garden

二人でならどこまでも

「ヤスは私の、白馬の王子様だね」
 その言葉に驚いたのは、まだ慣れない呼び方のせいかもしれない。
 彼女が少女漫画的と言うか、キャラにそぐわない夢見がちな発言をするのもよくあることだったから、俺は助手席を一瞥もせず応じる。
「運転中に変なこと言うな」
「運転中だから言いたくなったんだよ」
 助手席から聖美の声が返ってきた。
 今日はやたらと浮かれているみたいで、カーステから流れる曲に合わせて口ずさんだり、鞄からお菓子を出してきて俺に食べさせようとしたり、あるいは急に変なことを言い出したりととにかくうるさい。
 フロントガラスの向こうには緩やかなカーブの続く高速道路と、その上に広がる真っ青な空が見える。道路脇の吹き流しが真横になびくくらい風が強いことを除けば、とてもいい天気だった。
「だって、こんな日が来るなんて思わなかったから」
 聖美がそう続けたから、俺はフロントガラスを見据えたままで口を挟む。
「こんな日ってどんな日だよ」
「二人で車運転してお出かけとか。私たち、遠出することってあまりなかったし」
 屈託のない笑い声が古びた車内に響いた。
「しかも私、助手席に乗せてもらってるんだよ? 女の子の憧れじゃない!」
 女の子って歳かよ、と俺は内心思う。
 聖美も俺ももう二十歳だ。子供じゃない。
 だからこそ免許だって持ってるし、車を動かしてる。と言っても俺の方は免許取りたてのほやほやで、今日は練習も兼ねて二人でドライブをすることにした。高速乗ってちょっと遠くのサービスエリアまで。たったそれだけのことにも、聖美はいちいち喜んでは笑う。
 大体、車だって十年落ちの中古車だ。パワーウィンドウは軋むような雑音つきだし、キーレスは三分の一くらいの確率で作動しない。カーステはCDプレイヤーが壊れててラジオしか動かず、しょうがないからトランスミッターで飛ばして音楽を再生している。どこからどう見てもボロ車。
 白馬の王子様はボロ車になんか乗らない。いや、中古車にだって乗らないだろう。だから聖美のさっきの言葉はおかしい。俺みたいなのを王子様って呼んだら非難轟々間違いなしだ。
「ねえヤス、疲れたら運転代わるからね」
 彼女が、また俺を呼んだ。
 その度によくわからない感覚が全身を走り抜ける。びっくりしているだけだと思う。でも何だか、それだけではない気もする。
「お前、その呼び方で決まりなのか?」
 俺が聞き返すと、聖美は一瞬驚いたか何かで黙ったようだ。それからすぐに言った。
「え、おかしい? 名前で呼んでいいって言ってくれたじゃない」
「駄目とは言ってない。ただ、呼ばれ慣れないから」
「そっか。やっくんの方がよかった?」
「そっちの方が呼ばれ慣れないから、今のでいいけど」
 聖美のいいところはこういう時、『じゃあお父さんお母さんからは何て呼ばれてるの?』とか聞いてこないところだ。あるいは『友達からのあだ名は?』みたいなことも――後者に関してはもう、俺の人付き合いの悪さを聖美も十分わかってるだろうし、聞くまでもないと思ってるだけかもしれないが。
 俺をそんなふうに気安く呼んでくれる奴なんて、聖美の他にはいなかった。
「多分、大丈夫だ」
 ともあれ、俺は気を引き締め直して答える。
 週末の高速は割と混み合っていてスピードの出しようがない。一般道と違って歩行者や自転車に注意を払う必要がない分、走りやすく感じた。
「大した距離でもないし、帰りも俺の運転でいい」
「わあ、頼もしい! さすがは私の白馬の王子様!」
 聖美がまた馬鹿なことを言い出したから、俺は苦笑する他なかった。
 こんなことでいちいち喜ぶのは相変わらずだ。助手席のドリンクホルダーに置かれた紅茶のペットボトル同様、実に安上がりな女だと思う。

 俺が車の免許を取りたいと言い出した時も、聖美は随分と喜んでくれた。
 大学一年の時に普免を取っていた聖美とは対照的に、俺は車に興味なんてなかった。免許があれば就活で有利なのはわかっている。だけど自動車学校に通って教官に怒鳴られながら教習を受けるのが嫌だったし、大学でさえ嫌々行ってるのに、更に学校に行かなきゃならないというのも憂鬱だった。俺は学校と名のつくものは何もかも苦手で堪らなかった――聖美と出会ったのも学校ではあったけど、それでもだ。
 でも、二十歳になったせいだろうか。それとも単なる心境の変化ってやつなのか、最近になって免許くらいは取っておくかという気分になった。そんなことくらいでチャラチャラした奴らに就活で遅れを取るのも癪だ。それに、生きていく為にはどうしても働いて金を稼がなくちゃならない。
 大げさだと言われるかもしれないが、俺はようやく、生きていく為の覚悟を決めていた。
 聖美が俺の覚悟をどこまで理解しているかはわからない。ただ俺が免許を取りたいと相談を持ちかけると、自分が通っていた自動車学校の資料を見せてくれたり、いろいろ話を聞いてくれたりした。初めて路上に出ることになって俺が緊張しまくっていた時には、根拠なく能天気に励ましてもくれた。無事に免許が取れたのは聖美のおかげと言っても過言ではない。

 週末だからだろう、サービスエリアの駐車場も八割がた埋まっていた。
 冬が終わりを迎え、春が近づいてくる季節とあってか、駐車場には強く風が吹きつけている。停めた車が時々煽られるように強く揺れると、聖美は目を丸くしてから声を立てて笑う。
「すごい風! 今の、春一番かな?」
「どうだろうな。時期的にまだ早い気もするけど」
 この時期は毎日のように風が強いから、どれが春一番かなんてわからない。ただ風の鳴る音はエンジンを切った車内でもよく聞こえた。空はよく晴れていて、風さえなければ過ごしやすい日に違いないのに。
 サービスエリアで軽く昼飯を食べた。聖美はお土産コーナーまで覗いていくつかお菓子を購入していた。帰り道で食べようと言っていたはずだが、車に戻って一息ついた後、早速開けて食べ始めたから呆れた。
「もう食べるのかよ」
 俺の言葉に聖美ははっとして、それからにんまりする。
「いいじゃない、味見だよ味見。どうせもうちょっと休憩するでしょ?」
「帰る頃には全部なくなってるな、それ」
「そこまでは食べない……と思うけど。あ、ヤスも一個どう?」
「……じゃあ、食べる」
 慣れないその呼び方にぎくっとしつつも、俺は頷いた。
 すると聖美は個包装になったお菓子――スポンジ生地にクリームが入ったありふれたやつ――を一つ開けると、俺の手には渡さず、そのまま助手席から手を伸ばして俺の口元へ差し出した。
「はい、あーん」
「そういうのやめろよ……。頭の悪いカップルに見えるだろ」
 前に『バカップルみたいに見える』と言ったら、聖美にはなぜか大喜びされてしまったのを覚えている。だからあえて違う言い方をしたのに、聖美はそれでも堪えた様子がまるでない。
「別にいいよ」
「よくない。自分で食べれるから、貸せ」
「誰にどう見られても、私は気にしないけどなあ」
 聖美はぶつぶつ言いつつも諦めたと見えて、俺にそのお菓子を手渡してくれた。
 貰ったばかりのお菓子を口に運びつつ、今の聖美の言葉を頭の中で繰り返してみる。――誰にどう見られても、気にしない。それは俺も、そうだ。
「俺だって、そういう覚悟はもうできてるよ」
 ぼそっと呟くように言ったせいか、聖美は助手席で怪訝そうな顔をする。
「覚悟? って何の?」
 それには直接答えず、俺は言葉を継ぐ。
「だから自校だって通ったし、免許だって取った。どう見られたっていいと思ったから」
 俺は見た目からして王子様とは程遠い、根暗な男だし、そして見た目通り社交性には欠けている。自動車学校でも友人を作ることはなかった。おまけに教官にも好かれる生徒ではなかったと思う。あんなにガミガミ言わなくてもと感じたこともあったものの、どうせ免許を取るまでの付き合いだと黙って受け入れるようにした。
 そもそも他人に好かれたことなんて今までなかった。たった一つの例外を除いては。
 でもそういう俺みたいな人間でも、一人きりでは生きていけない。生きていく為には誰かと接していかなくてはならない。好かれなくても、むしろ嫌われても、陰口を叩かれても、面と向かって怒鳴られても――俺は今までそういうものからずっと逃げたいとばかり思ってきたけど、生きている以上は避けられないのだということもわかっていた。
 だから、覚悟をした。
 たった一人、俺を好きになってくれた奴の為に、しぶとく生き続けてやろう。
 他の奴にはやっぱり、好かれないかもしれない。嫌われるかもしれない。陰口を叩かれる日々が、怒鳴られてばかりの日常がこの先、社会人になるであろう俺を待ち構えているかもしれない。
 だとしても、聖美を幸せにできるなら、それでいいと思った。
 免許を取りに行ったのもその為だったし、自分では大いなる第一歩だと考えている。こんなもの、他人からすれば造作もないことできっとさぞかしくだらないんだろうけど、俺にとってはそうじゃなかった。
「ねえ、美味しいもの食べる時は、にこにこしてた方がいいと思うよ」
 聖美が割り込むように、俺の顔を覗き込んでくる。俺がややこしいことを考えている時、彼女はいつもこうやって邪魔をしてきた。何となく、心配されているような気もする。
 それで俺も考え事をやめて、食べかけだったお菓子を改めて食べてみた。甘くて柔らかく、平凡ながらもそれなりに美味しい一品だった。
「美味しい?」
「まあまあ。土産物っぽい味だ」
「それってどんな味? お土産なんてその土地ごとに違うのに」
 愉快そうに吹き出した聖美が、ふと思いついたように手を叩いた。
「そうだ! 運転慣れたら、今度はもっと遠くに旅行しない?」
「旅行?」
 俺が聞き返すと彼女ははしゃぐように身を乗り出し、
「うん。お互い免許あるんだし、代わる代わる運転すれば遠くまで行けるでしょ?」
「そりゃそうだけど……疲れないか? そういうのって」
「全然! きっと楽しいよ、私たち二人でだったら、きっとどこまででも行けるよ!」
 どこまで本気かわからないことを聖美は語る。
 そういう根拠があるのかないのかわからない前向きさは彼女らしいと思うし、近頃では俺も、彼女の前向きさに便乗してやろうかという気になることすらあった。ぐだぐだ暗いことを考えているよりはよほどいい気分になれる。
「じゃあ、もし旅行に行くとしたらどこがいい?」
 馬鹿みたいだと思いつつ、俺も笑いながら尋ねる。
 すると聖美はちょっと考えてから、急に表情を輝かせた。
「暖かいところがいいな。沖縄とか!」
「いきなり海越える気かよ。車どうするんだよ」
「それかハワイ! やっぱり憧れだよね、ハワイ旅行!」
「いや、だから、車だけで行けるところにしろよ」
「あとはどこだろう……いっそ二人で国際免許取って、ヨーロッパ巡りでもする?」
「車で!? いくら何でも無茶すぎるだろ……」
 次々と飛び出してくる非現実的なプランに眩暈がする。さすがに冗談だろうと俺は思っていたけど、聖美は案外本気みたいな口ぶりだった。
「平気だよ。私、ヤスとならどこでも行けるって思ってるんだ」
 高校時代と変わらない妙な自信に満ちた顔をして、彼女は胸を張る。
「だって私の、白馬の王子様だもの」
 その思い込みの根拠はどこにあるんだ。
 俺は呆れもしたけど、すぐに、思い込み度合いでなら俺もこいつと大差ないってことに気づいて反論の言葉を呑み込んだ。
 俺がこいつとなら生きられると思うのと同じように、聖美もまた、俺となら海の向こうだろうと外国だろうと自由に行けるって思うのだろう。それを叶えてやれるかどうかは、俺の甲斐性にかかっているのかもしれない。
 にしても、こっちは免許取りたてなんだから、まずは近場からお手柔らかにと言いたいが。まずはここから帰る道のり、安全運転で行かないと。
「けど、王子様は言いすぎだ。こんなに情けない王子なんていないだろ」
 やがて俺は出発しようと、シートベルトを締める。
 それから助手席で同じように準備を始めた聖美に、言ってやった。
「普通は王子様がお姫様を助けるもんなんじゃないのか、おとぎ話なら」
 すると聖美は瞬きをしてから、少し大人っぽく微笑んだ。
「そうかな? 探せば普通にあるんじゃない、お姫様が王子様を愛で救う話なんて」

 それなら、無事救出された後の王子様も、姫に愛想を尽かされないよう甲斐性を見せなきゃならないだろう。
 張り切ってエンジンをかけようとすると、景気よく一発でかかって思わず笑った。
 何だか俺、こいつとだったら本当に、こんなボロ車でだってどこまでも行けそうな気がする。
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