Tiny garden

金属の声/後編

「うわっ、ちょ、ちょっと待て久我原!」
 ドアのないショッピングモール内の店は、強引に連れ込むのも容易いようだ。ぐいぐいと腕を引かれたので慌てて踏み止まる。
 広い入り口を挟むようにそびえるショーウインドウには、妙に扇情的な格好をしたマネキンが一人ずつ立っている。顔のない奴が着ていてもどぎまぎさせられる。俺なんかがしげしげ見ていたら、たとえマネキン相手でも変質者扱いされそうだ。
「どうしたの、鷲津? そんなに慌てて」
 わかっているくせに、久我原はわざとらしく瞬きをする。
 彼女の肩越しには下着屋の内装がよく見えた。ピンクを基調とした床と壁。目映い照明の中に、色とりどりの下着が飾ってあった。棚からワゴンからトルソーから、目につくのは全て婦人物の下着。それも何と言うか、すごいやつ。
 俺はひとまず久我原の手を振り払った。そして深呼吸の後、なるべく平静に告げる。
「いや、だってこの店はまずいだろ。男が入ったりしたら」
「別にまずくないと思うけど」
 あっけらかんと久我原は言う。愉快そうに少し笑った。
「それに言ったでしょう? 私、鷲津に見立てて欲しいんだって」
「聞いた。聞いたけど、だからって無茶だ」
「そんなことないったら。ねえ、せっかくだから好みを教えて?」
「好みって何だ好みって!」
 狼狽した俺の隙を突き、久我原は再度俺の腕を取った。むしろがしっとばかりに掴んだ。そして抱きかかえるようにして引っ張ろうとする。
「さ、入ろ」
「待てって! おい、久我原!」
「あんまり大きな声出さないの。普通にしててよ、おかしくなんかないんだから」
 たしなめる物言いは馬鹿に大人びている。思わず口を噤んだ俺を、久我原は笑顔で店内まで連れ込んだ。
 下着屋の店内はいい匂いがしていた。久我原がめかし込んできた時の匂いと似ていた。そして思いのほか広く、客の入りもいいようだ。ポップなBGMを掻き消すくらいに他の客の声がしていた。
 店員は当然下着姿ではなく、ごく普通のおしゃれをしている。俺が入って行ってもにこやかに笑いかけてくるだけだ。入店を断られるんじゃないかと思ったので、拍子抜けもした。
 ――でも、内心では笑っているのかもしれない。こんな店には不似合いな、冴えない男が引きずられてきたのを。
「あ! あれ可愛い!」
 柄にもなく女の子らしい台詞を口にして、久我原が棚の一つへ歩み寄っていく。腕を掴まれたままの俺も当然後を追い、彼女が商品に手を伸ばすのを横目で見る。
 透けるように薄っぺらな黒いキャミソール。久我原は俺の腕を放してからそれを手に取り、目の前で広げてみせた。レースの胸元が深く、これでもかと言うくらいに深く開いている。何の為にそこまで開いているのか。
「こういうの、どうかな」
 ためらいもなく尋ねられ、俺はぎくしゃく視線を外す。正視に堪えなかった。
「知るか」
「鷲津、冷たい。見立てて欲しいって言ってるのに」
「俺に聞くなよ馬鹿」
 久我原が拗ねたようだったが、こっちだって拗ねたい気分だ。半ば強引に連れ込まれて、場違いなところで肩身の狭い思いをさせられているんだから。下着の見立てなんて出来るか。
「そんなこと言ったって、鷲津にも好みくらいあるでしょう?」
 わざわざ顔を覗き込んでくる彼女。目が合うと、意味深長に笑いかけられた。絶対に、俺の反応を見て楽しんでいるに違いない。
「鷲津にだって全く関係ないってことはないんだもの。そうじゃない?」
「……外でそういうこと言うなって、いつも注意してるだろ」
 恥ずかしくないのかこいつは。
 ないか。久我原だからな。
「ね、教えて。とりあえず好きな色だけでも」
 キャミソールを丁寧な手つきで畳み、久我原が尋ねてくる。どうしてそこまで俺の好みを聞き出したがるのか、理解に苦しむ。確かに、俺にも全くの無関係という訳ではないものの――だからと言って、下着にまで口出しするほどの仲でもない。そういうのは頭の悪いカップル同士でやればいい。
 俺は、久我原が何を着てようと別に、どうとも思わないし、
「――ねえ鷲津。ブラはやっぱりフロントホックの方が好き?」
「だから聞くなって言ってるだろ馬鹿!」
「でも、私としては鷲津の手間を省いてあげたいなって気持ちもあるし」
「そういうこと言うなってば! と言うかもう帰してくれ俺を!」
 抑えた声で、しかし感情を込めて喚いてやると、久我原は不満げに唇を尖らせた。歳の割には大人びた顔立ちも、その表情では台無しだ。彼女はそれでも表立った反論はしなかった。
「せっかく鷲津の好みも取り入れようと思ったのにな」
 ぶつぶつ言いながら、下着選びを再開する。
 さすがの俺も彼女を置いていくなんて真似は出来ないから、結局傍に突っ立っていた。彼女がためつすがめつしている下着の詳細からは、あえて目を逸らしつつ。
 久我原が何を着ていようと別に、どうと言うこともないのに。

 背後で笑い声がしたのは、その時だった。
 自然と身体が震えた。びくりとした。女のものだとすぐにわかる金属的な、甲高い笑い声。しかも複数。会話内容を把握するより先に、俺は振り向いていた。
 女の集団が、棚二つ隔てた向こうにいた。全員が知らない顔だった。俺よりも少し年上に見えた。この店の棚はどれも腰上くらいの高さしかなく、連中の視線を遮るものは何もなかった。そして連中は、はっきりと俺を見ていた。俺を見て、くすくす笑っていた。
 眩暈がした。金属を引っかく爪がそのまま心までずたずたにしていくような、強い衝撃を覚えた。
 笑われている。俺が、全く知らない顔の人間にまで笑われている。連中も言うだろうか。気持ち悪いとか、不気味だとか、変な奴だとか。無関心でいてくれればいいものを、どうしてわざわざ嫌って、叩いて、中傷していくのか。
 俺は忘れていたようだった。久我原といることで、自分がどういう人間なのかを。自分がどのくらい大勢から蔑まれてきたのかを。忘れてしまっていたから、こうして現実に引き戻されると、眩暈がした。

「久我原」
 いてもたってもいられず、俺は彼女を喘ぐように呼んだ。こちらを向く彼女に、早口気味に告げる。
「俺は出て行った方がいいみたいだ」
「どうして?」
 怪訝そうな久我原。やむなく、説明も小声で添えた。
「後ろの連中が俺のことを笑っている。変質者だと思われたのかもしれない」
「変質者? まさか」
 俺が視線で指し示したにもかかわらず、久我原は振り返らなかった。例の集団はまだこちらを見ている。そしてくすくす笑っている。居た堪れなかった。
「本当だ。笑われてるんだ。俺はここにいない方がいいんだと思う。ここは男が入るべき店じゃなかったんだ」
「そんなことないと思うよ。他にカップルだっているじゃない」
 久我原の言う通り、店内には数組のカップルが存在している。でも笑われているのは俺だけのような気がする。笑い声はまだ聞こえている。
「お前まで一緒に笑われるかもしれないんだぞ」
 そういう経験も決して、皆無ではなかった。俺が囁いた時、久我原はなぜか訳知り顔になって少しだけ笑んだ。
「いいよ、そのくらい」
 あっさり言われて反応に困る。彼女が囁き返してくる。
「あの人たち、鷲津のことを可愛いって言ってたでしょう」
「――は?」
「聞こえてなかった? 私を指して、可愛い彼氏連れてる子って言ってたの。さっき言ってたじゃない」
 聞こえてなかった。
「さっきって、いつだよ」
「私がブラ選んでた時。その後鷲津に怒鳴られた」
「……ああ」
 聞こえなかった。
 そもそもあの笑い声が起きるまで、あの連中には注意すら向かなかった。俺は久我原の言動に気を取られて、ついていくのに必死で、でも今までの自分を忘れてしまうくらいに楽な気分でいた。店が店でなければ、買い物が買い物でなければ、俺もきっと頭の悪いカップルのそぶりでいられただろう。
 さっきの集団の方を、俺はこわごわ振り返る。視界の隅に数人の笑顔が映り、そこに嘲りや蔑みの色がないとわかった時、かえって居心地の悪さを覚えた。
 視線を戻し、久我原に尋ねる。
「俺、ここにいて、おかしくないか?」
「おかしくないよ。さっきから言ってるはずだけど」
 彼女の声は冷たく、淡々としている。何もかもがさも当然のような物言いをする。それでいて、酷く柔らかい。
「私も、鷲津が可愛いと思うな」
「はあ?」
「可愛いよね、未だに。その反応だけで、ここに連れてきてよかったって思うもの」
 そう言って、久我原は愉快そうに笑んだ。
 やはり俺の反応を楽しんでいたらしい。能天気な奴だ。こっちは人目が気になって気になってしょうがないと言うのに。些細な出来事で古傷を抉る羽目になって、苦しいくらいだって言うのに。
 なのに、俺は久我原と一緒にいる。彼女と一緒に街へ出て、頭の悪いカップルと何ら変わらぬ行動を取っている。俺のことを知っている連中が見たら、馬鹿にして、笑いそうなことを平然としている。高校時代まで、自分がどういう人間だったのかを忘れたふりで、久我原と一緒の時間を過ごしている――。
 自業自得だと言えばそれまでだし、自意識過剰なのも間違いなかった。両端をふらつく思いは、間違いなく、久我原のせいだった。
 さまざまな感情がやがて、久我原に対して悔しいという気持ち一つに落ち着こうとした時、俺は彼女に尋ねられた。
「ところで鷲津、こういうのはどうかな?」
 彼女が提示してきたのは、つるつるしたサテン地の小さな布地。
 そいつがいわゆるところのパンツだという事実に、俺は一分間近く思い当たらなかった。だって、俺が知っているものと形が違い過ぎる。用途自体は男物だろうと女物だろうと大して違わないくせに、どうしてこうも似ても似つかぬ形にするのか。どうして女物のそれは面積の小さい、心許ない形状をしているのか。そして両サイドから垂れ下がっている、紐のような細いリボン。これは一体何だ。飾りか?
 久我原の指は、早速そのリボンを摘んでいた。
「ちなみにこのリボンを引くと」
 結び目が解けて、布地の片側だけがぺろんと倒れて、めくれた。
「こんな風に外れます。どう?」
「……お前、これは買うなよ」
「え、何で? こういうの好きじゃないの?」
「いや、恥ずかしいだろ。こういうのは」
「そうかな。解きたいと思わない?」
「聞くな」
 俺は久我原が何を着ていようと別に、どうってことないつもりでいたが、そうでもないかもしれないと思い直した。
 こんなのを着けて来られたら、恥ずかしくて正視に堪えかねる。

 結局、久我原はその心許ない形状の下着を購入した。
 会計を済ませるまでの間、俺は店の外で待つことを許された。その時初めて、さっき俺を笑っていた集団が、いつの間にかいなくなっていることに気づいた。
 連中がなぜ俺を笑ったか、久我原の言ったことが本当なのかどうかはわからない。案外、久我原も俺に気を遣って、嘘をついてくれたのかもしれない。だとしても、連中の声を俺が、全て拾っていなかった時点で結論は出ている。
 ――以前よりは少し、緩和されたようだ。他人の笑い声に対する過剰反応。久我原といると気を取られるせいか、教室に一人でいた頃よりもずっと気にならなくなっている。完全に気にならなくなるまでには、更に時間が必要かもしれないが、それでも前よりはよほどましだった。
 ずっと、久我原が羨ましかった。興味のないことには徹底的に無関心でいられる彼女が。俺は他の連中に無関心でいて欲しかったし、それ以前に自分自身が、他の連中に対して無関心でありたかった。だがあの状況下ではそれすら難しく、俺の耳は陰口や中傷を逐一拾い集めていた。金属的な声にずたずたにされるのを、しょうがないのだと諦めてさえいた。
 今は、そういった悪意への関心が、少しずつ薄らいでいるように思う。
 常に関心を持っていないと、隙を突いて、主導権ごと俺を掻っ攫っていこうとする奴が傍にいるからだ。他の人間に目や耳や注意を向けている暇がなかった。いつの間にか、久我原だけに集中していなければならなくなった。
 そしてそういう時間が、意外と楽だと感じている自分がいる。もしかすると俺を嫌っているかもしれない、もしかすれば俺のことなんてどうとも思っていないかもしれない、そんな連中の為にいちいち神経磨り減らすくらいなら、俺も久我原だけ見ている方がいい。彼女の声だけ拾っている方がいい。
 あの声だけは、あの頃から苦手じゃなかった。

「鷲津、お待たせ」
 冷たい水のような声が、下着屋の前に響く。
 現れた久我原は、俺に対し、小さな紙袋を掲げてみせた。
「買ってきたよ」
「……ああ」
 どう反応していいのかわからず、俺は曖昧に頷く。途端に久我原はにまっとして、小さな声で言い添えた。
「じゃあ早速だけど、試しに着けてみようか?」
 そう来ると思った。更に反応に困り、苦し紛れに憎まれ口を叩く。
「お前って、いい奴なんだか変態なんだかわからないよな」
「その二択だと自分でもわからないかな。とりあえず私、鷲津が好きだよ」
「だから外で言うなって、そういうこと……」
 こういう奴だから、俺は久我原を素直に尊敬出来ない。
 でもこういう奴だとしても、今は素直に感謝している。
 金属的ではない彼女の声を、隣で聞ける今がありがたいとも思う。

お題:Capriccio様より「交響曲第一番」
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