明日晴れたら、君を呼ぼう(3)
「俺、流されてる気がする……」枕に顔を埋めた鷲津が、低い声でぼやいた。
私は身体を傾けて、むき出しの彼の背中を見遣る。陽の射さない、カーテンを引いた部屋の中でも、彼の肌は透けるように白い。そしてすべすべしている。そこに爪を立てないよう、いつも細心の注意を払っていた。
そのくせ彼の首筋や胸元には、キスの痕を残したくなる。矛盾した行動だった。
「何か不満でもあった?」
そう尋ねた唇が、自然と緩んでしまう。幸せだった。こうして小さなベッドの上、二人で寄り添っている時間も。
とは言えこの状況だと、まるで鷲津は騙されたヒロイン、私は二時間ドラマによく出てくる悪漢のようにも見える。タバコでもふかしていたら完璧だろう。
「結局今回も、お前のいいようにされた」
ぼやくヒロインは枕から顔を上げない。さめざめと泣いている訳ではないらしいのが救いだった。ぐったりはしていたけど。
「でも、悪くなかったでしょう?」
あ、これはまさに悪役の台詞。もっと可愛らしく言わないと駄目かもしれない。
私は慌てて、彼の脚に自分の脚を絡めた。ついでに擦り寄るようにして彼の腕を抱く。温かい。
「お前、本当に可愛くない」
鷲津にも言われた。どうしたものかと迷う。
「ね。一応確かめておきたいんだけど」
「何だよ」
「私が無理矢理、鷲津を連れ込んだ訳じゃないよね? 今回は」
確か、そうだ。
今日のデートでは落ち合った直後に、ホテルの話題を出してみた。彼の反応をうかがうつもりで。そこで彼が何やら難色を示していたから、さてどうやって落とそうかと密かに思案していた。
それが、ケーキバイキングを堪能してお店を出た後に、彼の方から小声で提案がされたのだった。――今日は家に誰もいないから、来たいなら来てもいい、と。
そして今は彼の部屋にいる。見慣れたモノトーンの部屋に射し込むのはカーテンの隙間明かりだけ。薄暗くした部屋の中、ベッドに二人きりでいた。
「鷲津の方から誘ってきたと思ったんだけどな、あの言い方だと」
私は彼の顔を覗き込もうと、枕の横に頬を寄せた。彼もこちらを見る。目が合うと、また突っ伏してしまう。
「違うの?」
彼の頬をつついてみる。女の子の頬ほど柔らかくはなく、見た目よりも硬い。この頬にも髭が生えたりするんだろうか。あまり想像出来ない。
「そりゃあ……お前に無駄な金を使わせたら悪いと思ったから」
鷲津はまるで言い訳みたいな口調だった。私に頬をつつかれてもそのままにしている。顎を撫でられても何も言わない。だけど耳朶を摘んだら、きっとこちらを睨んできた。
「耳は止めろ」
「どうして?」
「わかってるくせに!」
摘まれた直後の耳がほんのり赤らむ。彼の弱いところはもう知っていた。面白いくらいに反応してくれるので、ついつい悪戯したくなってしまう。
「同意の上だったって言ってもらわないと、悪いことした気になるじゃない」
私が唇を尖らせると、鷲津も困ったような顔をした。
「悪いことだとはさすがに言わないけどな。お前、本当に好きなんだなと思って」
好きだよ。鷲津がね。
身体目当てだと思われるのは実に心外だった。他の人ともこういうことする訳じゃないもの。鷲津とだから触れ合っていたい、何でもしてあげたいって思うのに。
「こういうことすると、前とあまり変わってないような気がして」
ぎくしゃくと言い難そうに彼が呟く。どう答えていいものかわからず、私は黙った。目を伏せていると、彼の方が更に続けた。
「確かに、お前はちっとも変わってないんだけどな。あの日からずっと」
そうなんだろうな、と思う。私はあの日からずっと鷲津に惹かれて、追い駆けて、想い続けているだけだ。その感情には何の変化もない。鷲津が変わってくれたとしても、私は変わる必要がない。そう思っている。
でも――あの日、私は変わったはずだ。劇的な変化を遂げたはずだ。あの日のような出来事は、もう起きないと言い切れるだろうか。私の心を根底から揺り動かすような衝動は、もう二度と生まれることはないんだろうか。
思索に漂い始めた私を、ふと、鷲津が抱き寄せた。両腕でしっかりと抱かれると、とても温かい。次第に瞼が重く、開かなくなる。
「眠くなったのか」
囁き声で鷲津が尋ねた。
「うん」
答えて私は、彼の胸に頭を預ける。心臓の音を聴きたくなってそうした。規則正しいリズムが、彼がここにいることを教えてくれる。幸せだった。
鷲津は変わった。あの日から比べたらずっと穏やかになったし、優しくなった。皮肉や嘲りとは違う、純粋な笑顔を見せてくれるようになった。むしろそれが彼の本質なのだと思う。
こうして二人で過ごす時間も、変わったような気がする。ただ肌を重ねるだけじゃない。お互いに気遣い合ったり、冗談を言ったり、笑ったりすることも増えてきた。
なのに、私だけが変わらないでいるなんてこと、あるだろうか。
彼の手が、私の髪を撫でている。優しい手。指先は滑らかで、引っ掛かることは一度もない。
「寝てもいい。起こしてやるから」
「うん……でも、私が寝たら、鷲津がつまらなくない?」
尋ねると、小さな笑い声が降ってきた。
「別に。一人でぼんやりしてるからいい」
鷲津は眠くはないんだろうか。私一人で寝入ってしまうのも申し訳ない気がしたけど、本当に眠くなってきた。彼の肌の感触と、彼の体温とが心地良く、気付けば意識が漂い始めている。
眠いせい、なんだろうか。いつもと違うことを考えているのは。
今までにないことを、考えるようになったのは。
――思う。彼を独り占めしていたい、閉じ込めていたい、その気持ちは本当。だけど、彼を誰か、他の誰かにも好きになってもらいたい。そうも思う。
「久我原?」
彼の声が私を呼ぶ。私は、返事をしたと思う。だけど上手く声にならなくて、代わりに彼が呟いた。
「もう寝たのか……」
いつもの呆れたような、だけど柔らかな独り言。
思う。彼は穏やかで、優しい人だ。それだけが彼の本質ではないのだとしても、そういう側面があることを、誰かに知っていてもらいたい。私が彼といて本当に幸せなんだということも、理解していてもらいたい。彼を好きになってくれるような誰かが欲しい。そう思う。
いざそういう人が現れたら、私は妬いてしまうかもしれない。彼を独り占め出来なくなったら寂しいかもしれない。でも――。
「いろいろ、ありがとう」
鷲津の声が、そう言った。
「いつも通りにしてくれて、助かった」
私は目を開けられなかった。眠ってしまう方がいいと思った、彼の為にも。ふわふわとおぼろげになっていく意識の中、こんな言葉を拾ったような気がした。
「不思議だよな」
彼の手が、私の髪を撫でている。
「お前、ちっとも可愛くないのにな。寝てる時だけは、どうしてか――」
もしかするとその言葉は、私の夢だったのかもしれない。
すぐ傍にある温もりは確かなはずだった。
鷲津の腕の中に閉じ込められて、私はとても幸せだった。
だけど、思う。眠気のせいか、いつもと違うことを思う。
彼のことを好きになってくれる人が、他にもいてくれたらいい。彼に恋をするのは私だけでいい。彼が傍にと望む相手も、私だけでいい。でも、彼の穏やかさや優しさを知ってくれる人が他にもいたらいいのに。そうして私たちのことを祝福してくれる人が、たくさんいてくれたらいいのに。
鷲津には、幸せになってもらいたかった。
私が幸せにしてあげたかった。彼がまだ味わったことのないような幸せをあげたかった。誰にも疎まれず、笑われず、馬鹿にされることもない、そんなごく当たり前のはずの日々をあげたかった。どこへ行くにも顔を隠したり、俯いたりする必要のない生き方を、私と一緒にして欲しかった。
まだずっと先の話だけど、私は思う。
もし私が子どもを生んだら、お父さんのことを大好きになってくれるような、そんな子に育てよう。その子のお父さんがどんなに素敵な人か、ちゃんと教えてあげたい。優しさも、穏やかさも、陰りのない笑い方も見せてあげたい。お父さんはこんなに、温かな人なんだよって。
――なんて、まるで夢みたいな話だけど。
私はまだ恋をしている。
眠りから覚めた時もまだ、彼の腕の中にいた。