明日晴れたら、君を呼ぼう（２）
天気予報は的中した。土曜日の空は見事なまでの青一色。雲一つない。
私と鷲津は駅前で待ち合わせをしていた。
先に着いていたのは彼の方。五月も終わろうとする頃、彼は黒尽くめのファッションを止めていた。それでも帽子を被って、俯き加減で立っていた。ひっそり、人目を避けるみたいに。
「鷲津」
駆け寄って声を掛けると、彼の身体はびくりと震えた。僅かに面を上げ、帽子のつば越しにこちらを見やる。
「ああ、久我原」
その表情は陰っている。私を見つけても笑ってくれない。
「帽子、似合うね。陽射しが強いから？」
私は笑顔で尋ねた。彼が帽子を被ってきたのは初めてのはずだ。今まではフードを被っていたけど、それは私と一緒にいるところを誰にも見られたくないからだと思っていた。
実際、彼に帽子はよく似合っていた。だけど出来ることなら、人の多いところでも被っていて欲しくなかった。そんなもの、もう要らないだろうから。
「いや、その……」
鷲津がまた俯く。ざわざわと賑やかな駅前で、彼の声を拾うのは難しかった。私は距離を詰め、彼の帽子の下へ隠れるように身を寄せる。こうすると、ごく近くで見つめていられる。
「あんまりくっつくなよ」
彼は私を見下ろし、眉を顰めた。すかさず笑みを返してみる。
「まだ、人目が気になる？」
尋ねた途端、しかめっつらが硬くなる。図星みたい。
笑んだままで彼を注視していると、やがてたどたどしい言葉が聞こえてきた。
「……お前と歩くのが嫌だって訳じゃない」
「わかってる。先週だって、バス停まで迎えに来てくれたよね」
あの時はうれしかった。結局一緒には歩けなかったけど――でも、今日はそれが叶うんだ。初めて鷲津と並んで歩ける。そう思って、一人でどきどきしていた。
「けど、知ってる奴に見つかって、何か言われるのは嫌だ。こういう人通りの多いところなら、誰に会うかわからないし」
鷲津の視線がすっと逸れる。
「この間だって言われただろ。お前に迷惑が掛かるんだぞ」
――佐山のことか。すぐに察した。
思い出すも忌々しい彼のことは、だけどもう大丈夫だ。昨日、しっかり引導を渡しておいたから。どこかで偶然鉢合わせすることがあったとしても、向こうから避けて通ってくれるだろう。
他の子だって別に気にしない。もし聞かれたら正直に、鷲津が好きだから一緒にいるんだって、胸を張って言えるもの。笑われたり馬鹿にされたりしても平気。言い返してやるから。佐山の時みたいに、穏便に済ませるつもりなんてない。変わったと言われるくらい、思いっきり突っ撥ねてやるから。
「気にしなくていいよ」
私は、鷲津にそう言った。
「だって私、鷲津のことで迷惑だとか、そういう風に思ったりしないもの。誰に何を言われたって平気。全然平気だから」
なるべく軽い口調で言ってみたつもりだったけど、鷲津は何も答えない。まだ俯きがちでいる。よほど気になるみたいだ。
しょうがなく、私は手を伸ばした。彼の頭から、被っていた帽子をひょいと奪った。難なく取れた。
「わっ、何を！」
彼がぎょっとしてみせる。でも、私はやっぱり笑う。横取りした帽子は後ろ手に隠して。
「もう要らないでしょう？」
今日はいい天気だった。雲一つない青空の下、陽射しがきらきらとアスファルトを、駅前通りを照らしている。
私の好きな人も、きらきらきれいに照らされている。透けるような白い肌、戸惑いを隠さない顔つき、服を着ていても隠し切れない痩せた身体。もう何度もじっくり眺めた姿ではあったけど、太陽の下で見るとまた違う。晴れた日は、彼がより穏やかに見えた。
前髪だけでは陰らない、鷲津の表情が気恥ずかしそうだ。
「お前の為に被ってきてやったのに」
口ではそう言いつつ、帽子を取り返そうとしない。だから私も帽子の代わりに、片方の手だけを差し出した。
「それより、手を繋いで歩こうよ」
鷲津と手を繋ぐのが好きだ。これからは外でもそうしたい。
「……無茶なことばかり言いやがって」
彼の表情がきゅっと歪んだ。堪らなく悔しそうにしながらも、口元が笑っている。笑うまいと懸命になっているようにも見える。
「無茶じゃないよ。簡単なこと」
「そりゃ、お前はな。けどこっちは……」
「いいから、ほら！ 早くケーキ食べに行こうよ」
私は強引に彼の手を取る。指を絡めて手を繋ぐ。そのままぐいと引っ張ると、鷲津は渋々と言った様子で歩き出す。手を振り解こうとはしない。
「幸せだね」
駅前通りを並んで歩く。
青空の下、二人で手を繋いで。
たったそれだけのことが幸せだった。恋人同士なら当たり前のことでも、私たちにはそうじゃなかった。これからは当たり前にしていきたい――恋人同士にはなれないとしても。一緒に生きていく同士として、手を繋いで、寄り添い合っていたい。
「お前の幸せって、安いものばかりだよな」
鷲津が呟くように言う。こちらを見ないのは、照れているからなんだろうか。
「そうでもないよ。これから食べに行くケーキだって、お金掛かるじゃない」
反論した私を、ちらと目の端で見てくる。
「けど、バイキングだろ。少ない元手でうんと食べてやろうって魂胆だろ」
「そりゃあ、バイキングに行くのに元を取らないでどうするの？」
「とりあえずしっかりしてるよ、久我原は」
呆れたようにも聞こえる言葉。私は首を竦める。
「節約するのはいいことでしょう」
「それはそうだろうけどな」
「今日だってホテルに行くからお金掛かるもの。他のところは切り詰めないと」
私だって、そういうのはちゃんと考えているんだから。デートコースを任されたからには、それはもうしっかりとね。
「――何だって？」
急に、鷲津が立ち止まった。腕を引かれて私も止まる。視線を上げると、目を丸くしている彼が映る。
「久我原、今、何て」
「ん？ 他のところは切り詰めないと、って」
「いやそこじゃなくて、その前」
「ああ、ホテルに行くからお金掛かるって」
「ば、馬鹿！ こんな外で、そういうこと言うなよ！」
鷲津が赤面している。自分で聞き返しておいて言うなも何もないものだ。私は反応に困り、更に聞き返す。
「でも、行くんじゃないの？ 最終的には」
「誰が行くって言ったんだよ！」
「暗黙の了解って奴かと思っていたけど」
まさか今日も、何にもしないで帰るつもりだったとか？ そんなのは寂しい。私はもうそのつもりで、今日は可愛い服に、可愛い下着で決めてきたっていうのに。
「鷲津は嫌なの？」
これこそ外で聞くことじゃないような気もしつつ、私は声を落として尋ねる。鷲津はまたしても俯いてしまう。耳まで真っ赤だ。
「い、嫌とかそういうことじゃないだろ」
「じゃあ、どういうこと？」
「その、だって、今更って感じじゃないか。別にそういうことしなくたって、一緒にいられる関係になったのに」
彼の言いたいこともおぼろげに察した。今までの私たちは利用し、利用される関係だった。その最もたる要素が身体の繋がりだった訳だ。利害関係よりも一歩進んで、お互いに必要な存在となった今、身体の繋がりは必要ないと彼は思っているのかもしれない。
そんなことはないと、私は思う。
「一緒にいられる関係になったからこそ、そういうこともしたいの」
繋いだ手を、より強く握ってみる。ぎゅっと、深いところまで触れ合っていられるように。手の面積なんてたかが知れてる、本当はもっと広い範囲で触れ合っていたい。
「私は嫌じゃないからね。ちっとも」
その点だけは強調しておいた。本当に嫌じゃない。むしろ、大歓迎。
「後は鷲津が決めてくれていいよ。嫌なら無理強いはしないから」
赤い顔に視線を流すと、彼は独り言のトーンで零した。
「……嘘つけ」
ちゃんと、その言葉も拾っておいた。
ともかくも、腹が減ってはなんとやら。私たちはケーキバイキングへ殴り込みをかけた。
美味しい紅茶とケーキに舌鼓を打ちつつ、慎みを覚えた私は六個目で止めておくことにした。鷲津は三個目の半分まで行ったところでギブアップしていた。
「ケーキは二つが限界だ」
牽制のような宣言を聞き、私は声を立てて笑った。
「そうみたいだね。次は、ケーキ以外のお店にしようか」
彼のケーキの残りも平らげる。そんな私を、彼は羨望に近い眼差しで見つめてくる。
「お前ってよく食べるよな」
「好きなものは別腹なの」
「別腹も何も、ケーキしか食べてないだろ」
言われてみればそうだった。この為にお昼ご飯を抜いてきた訳だから。
鷲津はどうなのかな。ちゃんとお昼、抜いてきたんだろうか。それとも食べてきたからあまり入らなかった……ということでもないか。
「しっかり食べておかないと、後で泣きを見るかもだよ」
食後の紅茶を味わいながら、私は何気ないそぶりで告げる。
「……どういう意味だよ」
問う彼の顔が赤くなる。多分、わかって聞いてるんだろう。
もちろん、そういう意味に決まっている。