Tiny garden

小さな君へ(6)

「お前って、やっぱり変な奴だよな」
 シャワーカーテンを閉めた狭いバスルームに、鷲津のぼやきが響く。
「そう? 名案だと思ったんだけど」
 私がにやりとすると、彼はこちらを軽く睨んだ。
「何が名案だよ」
「気分転換には一番いいでしょう? お風呂に入るのって」
「だからって二人して入ることはないだろ。かえって落ち着かない」
 お湯を張ったバスタブは小さい上に浅い。だからほとんど折り重なるようにして浸かっていた。上半身はどうにか重ねられたけど、お互いの膝は折らなくてはならなかった。それでも、重ねた身体の温度とお湯の温度、どちらも肌に心地いい。私の下敷きになっている鷲津は、言葉通りに落ち着かない顔をしていたけど、窮屈な思いをすること自体は不快でもないらしい。
「文句を言っても結局付き合ってくれるところが好きだよ」
 彼の胸に頭を預ける。濡れた肌から水滴が、私の髪まで伝ってきた。
「ほとんど無理矢理付き合わせたようなものじゃないか」
 鷲津はまだぼやいている。それでも私を押し退けようとせず、圧し掛かられるままでいる辺り、満更でもないのかもしれない。

 一緒のお風呂を提案した当初、鷲津はあからさまに嫌がってみせた。女の子どころか男同士でも嫌だと、訳のわからない理由で拒んでいた。
 だけど、彼を組み敷いてしまえばこちらのもの。彼の弱いところはもう知っているし、無力化した上で一枚一枚衣服を剥ぎ取れば、そのうちに彼も抵抗しなくなった。それでも文句は言っていたけど、バスタブにお湯を張った後は、そのまま捨てるのももったいないからと結局付き合ってくれることになった。
 お風呂に入ったら入ったで、文句を言うことだけは止めていない。そんな鷲津がやっぱり可愛いと思う。

「こうしてるのも、悪くないと思わない?」
 私はお湯の中に手を入れて、彼の脇腹辺りを撫でた。たちまち彼が身動ぎをする。
「止めろ、振り落とすぞ」
「無理だよ。こんなに狭いバスタブだもの」
「床の方に落っことしてやる」
「そんなの駄目。シャワーカーテンの意味なくなっちゃうよ」
 やり取りのおかしさに、私は喉を鳴らして笑った。こちらを見上げてくる鷲津が、恨めしそうにしてみせる。
「いつもこうだよな。気付けばお前のペースに乗せられてる。こっちの都合なんてお構いなしだし」
「今回は構ってあげたつもりなんだけどな」
 水滴したたる喉元に軽く噛みついた。彼がまた、びくりとする。
「構って……ないだろ。俺は話があるって言って、それで今日だって誘ったのに」
「でもすぐには話せないことなんでしょう? 話そうと意を決するだけでも一晩中掛かっちゃうかもしれないんでしょう?」
 そこまでして打ち明けられる話が一体何なのか、私にはやっぱりわからない。だけど鷲津が話したいと思っているなら、せめて話しやすい環境にしてあげたかった。その為の、まずはリラックスタイムだ。
「お風呂でゆっくりしたら気持ちも解れて、言いにくいこともするっと言い出せるようになるかもだよ」
 至極正論と思える私の意見も、鷲津にとっては呆れたものでしかないらしい。ふんと鼻を鳴らされた。
「ゆっくりなんて出来るか。下になってる俺の気も知らずによく言うよな」
「重い? 逆になろうか?」
 私が尋ねれば、それでもぎくしゃくかぶりを振ってみせる。
「重くはないけど。そういう問題じゃない」
「じゃあ、嫌だった? でも身体は正直って感じだよね?」
「……うるさいな」
 鷲津が僅かに腰を引いて、直後頬を赤らめる。恥ずかしそうにしながらもきつい視線を向けてきた。
「お前、よくためらいもせずそういうこと言うよな」
「そういうこと、って?」
 わかっていてわざと聞く私。彼の目が余計にきつくなる。
「だから……そういう、品のないことを言うなって話だよ」
「品のあるように言ったつもりなんだけど」
「ない。全然ない」
 ばっさりと切り捨てた彼は、意外にもすぐに笑ってみせた。どちらかと言うと呆れたような、嘲りにも近い笑みだった。
「久我原は悩みとか、なさそうだよな」
 瞳が急に冷静になる。私を見る眼に、熱がない。それでいてやけに真剣。
 私は彼の顎の辺りに頬をすり寄せ、その視線から逃れた。
「そんなことないよ。私にだって悩みくらいあるよ」
「へえ。例えば?」
 例えば、好きな人が私を見てくれないこととか。
 全く見てくれてない訳じゃない。だけど今のところ、私は負けているらしい。鷲津の心に巣食っている何かに。多分、今夜打ち明けようとしてくれている、その内容に。
 ――でもそれを正直に言うと、また彼を落ち込ませることになりそうだ。そう思って、違うことを答えた。
「結構小さな悩みが多いかな」
 そういう悩みも、ない訳じゃない。
「この間見かけた可愛いワンピースを買おうかどうかとか、携帯の機種変しようかどうかとか、あんまり仲良くない子からのメールは返信内容にいつも悩むし、これ以上食べたら太るなって時に、でもまだもうちょい食べたいなって悩むなんてしょっちゅうだよ」
 思いつく限りを並べ立ててみる。私だけじゃなく、いろんな人が持ってそうなささやかな悩み事。ちょっと悩んだらすぐに忘れてしまいそうな大したことのない内容ばかりだ。
 鷲津もそう思ったんだろうか。見上げると、腑に落ちたような顔をしていた。
「そんなのは悩みの内に入らないだろ」
「かもね。すごく悩んでる人に比べたら」
「やっぱりないんじゃないか、悩みなんて」
 あるよ、と声には出さず答える。
 それからふと、佐山の顔が脳裏を掠めた。慌てて唇を噛み、この間の記憶ごと追い払う。鷲津といる時に思い出したい悩みではなかった。
「あっても、どうでもよくなっちゃうんだよ」
 見上げた頬にキス一つ。それから私は努めて明るく告げる。
「好きな人と一緒にいたら、辛いこととか嫌なこととかどうでもよくなっちゃうものなの。悩み事も、鷲津といる間は簡単に追い払えるし、幸せな気持ちになれるから他の事柄なんて二の次、三の次になっちゃう。そういうのって、あるでしょう?」
 鷲津には、ないかもしれないけど。
 でも私にはある。鷲津と一緒にいるだけで幸せな気持ちになれた。たとえ彼女にしてもらえなくても、好きだって思ってもらえなくても、ただ利用されてるだけなんだとしても、幸せだった。他のことなんて本当にどうでもよくなってしまうくらい、鷲津が好きだった。
 この想いの前では、何だって些細なことだ。
「へえ」
 馬鹿にするかと思ったのに、意外にも感心するような態度で鷲津が言う。
「そういうの、わからなくもない」
「え?」
 その上理解しているみたいな口ぶり。私は戸惑い、彼の顔をじっと見る。
 鷲津も私を見ている。やっぱり熱のない、だけど真剣な目つきでいる。
「わかる、の? 鷲津にも」
「何となく。お前と全く同じだとは言わないけどな」
 彼が唇を動かすと、顎の先から雫が落ちた。ぴちゃんと音を立てる。
 長い間お湯の中にいるせいで、身体が温まってきた。そろそろ出ないとのぼせるだろうか。でも、もう少しこうしていたい。
 私は彼の表情から、彼の真意を探そうとする。こうしてお湯の中、肌を重ねていても、彼は私に触れようとしない。本当に何もしないつもりでいるのかもしれない。私に、話したいことがあるから?
「どうでもいいって思えるようになれたら、一番いいんだろうな」
 鷲津は淡々と続けた。
「いろいろあっても、そういうこと全部吹っ切れたら、苦しくもないのかもしれない。俺は案外、吹っ切れるのかもしれないって、今思った」
 吹っ切りたいのはきっと、彼を捕らえてしまっている何かについて、なんだろう。それが彼にとって『どうでもいい』ことになってしまったら、私を一番に見てもらえるようになるだろうか。
「私に話をしたら、どうでもいいって思えるようになる?」
 尋ねてみた。
 すると彼は少し考えてみせてから、こう言った。
「……ならない、かもしれない」
「そう」
「わざわざお前を巻き込むようなことでもない気がした。今日、誘っといて何だけど。お前が知らないんなら、知らないままでいてもらって、俺が一人で吹っ切った方がいいのかもしれないって」
 思わせぶりな口調だった。彼の真意はまるでわからない。だけど言葉が温かいようにも感じられて、彼の表情も穏やかになって、私まで気分が安らぐ。
「鷲津がそう思うなら、いいんじゃない」
 それが全て本音だとは言い切れなかったけど、私はそんな風に告げた。確かに嘘でもなかった。
「私は鷲津の教えてくれることだけ受け止めるから。鷲津が決めたことなら、それでいいと思う」
「そうか。じゃあ……」
 彼は穏やかに語を継いだ。
「やっぱり、お前には言わない。俺一人で、どうでもいいことにしようと思う。完全に吹っ切れるまで、時間は掛かるだろうけど、何とかしてみせる」
「うん」
 私は頷く。知りたいと思わなかった訳じゃない。でも、鷲津がそれを言う必要がないと思ってるなら、その気持ちはきっと正しいはずだ。私は鷲津を信じていたい。
 吹っ切ってくれたら、私のことだけ見てくれるようになる?
「悪かったな」
 心底済まなそうに鷲津は言った。
「せっかく誘っといて、肝心の話すらしないって……時間の無駄だったよな」
「ううん。楽しいからいいよ」
「今から帰ってもいいんだぞ」
「やだ。泊まらせてよ、鷲津だって泊まっていくんでしょう?」
 急に楽しい気持ちになって、私は彼の首に腕を絡めた。すぐに、押し退けられてしまったけど。
「泊まってく。でも、何にもしないからな」
「えー、どうして?」
「一旦宣言したからには、翻したら負けた気分になる。今日は絶対何もしない」
 頑固に言い募る鷲津をどう落としたらいいのか。私はお湯の中でしばらく、悩んでいた。
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