Tiny garden

小さな君へ(3)

 鷲津は今日のうちに連絡をくれた。
 電話が掛かってきたのは午後八時。その頃にはもう、私は自分の部屋にいた。夕ご飯はほとんど喉を通らなかったけど、お風呂に入ったら気分もそれなりに落ち着いた。
『……もしもし』
 携帯電話からは彼の声が聞こえてくる。いつもなら心弾むその声も、今は少し切なく感じた。
「あ、鷲津。夕方はごめんね」
 ベッドにねそべり、私は何気ないそぶりで応じる。
 佐山のことは黙っているつもりだった。鷲津は高校時代のクラスメイトの名前なんて、聞きたくないだろうから。彼にとっては一時でも復讐を考えたくなった相手だ。余計なことは言わない方がいい、そう思った。
『別にいい』
 短く言って、鷲津は自ら語を継ぐ。
『それより、今は話してても平気か?』
「うん、大丈夫だよ」
『……お前、珍しく元気ないな。具合でも悪いのか?』
 彼の問いにどきっとする。彼が私の声だけで、元気のない様子を見抜いたのも驚きだけど、それ以上に。
「そんなことないよ」
 すかさず否定する。彼も深くは追及してこない、そのことはわかっているから。
『なら、いいけど。弱ってる久我原ってあんまり想像出来ないな』
「そうかも。私、あんまり風邪とか引かないし」
『確かに引かなさそうだ』
 遠慮会釈もなく言い切られた後、少しの間があった。
 その間に、私はぼんやりと鷲津のことを思う。今現在も電話で繋がっているはずの彼が、遠い存在に感じられた。どうしたら近づけるんだろう。
『それで、さっきの話だけど』
 漂う思索に、彼の言葉が滑り込んでくる。
『お前、土日は両方とも暇なんだよな?』
「うん」
『じゃあ、どっちも空けてもらえるか?』
「え? いいけど……二日連続で会ってくれるの?」
 鷲津が私と会う為に、そこまで時間を割いてくれるなんて。ぼんやりしていた頭が急に冴えた。思わずベッドに起き上がり、正座してしまう。
 私、相当現金だ。
『いや、二日連続って言うより……』
 しゃきっとした私をよそに、彼は言葉を濁している。何か、いつもと違うそぶりだった。
『何て言うか、その、これを先に聞かなきゃいけなかったんだろうけど』
「うん……?」
『あの、久我原、お前さ』
「うん」
『――外泊って、平気か?』

 彼の言葉はなるべく素早く、きちんと理解したいと思っていた。
 だけどその問いかけは、頭では理解していたけれど、飲み込むまでにはややしばらく時間が掛かった。だってまさか。

 ベッドの上で正座したまま、私は鷲津の問いを反芻していた。まさか。まさかこれって。
『……久我原?』
 彼が呼びかけてくる。
『おい、どうした。また何かあったのか』
「う、ううん、ちっとも!」
 慌てて答えたら、勢い込んだ声になった。
 でも、びっくりして当然だ。まさか鷲津が私に、外泊の誘いを持ちかけてくるなんて。彼の方から言ってくれるとは夢にも思わなかった。と言うより、前に誘った時の反応で、鷲津の家では外泊なんて許してもらえないのかと思ってた。
「本当にいいの?」
 思わず聞き返す。
 電話の向こうでは、鷲津が怪訝そうな声を立てる。
『いいのって……俺がお前を誘ってるんだけど』
「あ、そうだよね。うん、それはわかってる」
『お前、本当に大丈夫か? おかしいのはいつものことだけど、今日はことさらに変だ』
「全然平気。普通だよ」
 いや、普通ではないけど。さっきまでの鬱々とした気持ちがどこかへすっ飛んでしまった。やっぱりこの感情、衝動は恐ろしい。こんなにも目まぐるしく気持ちの揺れ動くことは、恋でもしない限り起こり得ないだろう。
『お前がそう言うなら、平気なんだろうけどな』
 彼がなぜか心配そうにしていて、そっちの方がよほどおかしかった。珍しいこともあるものだ。あり過ぎだ。
『で、どうなんだよ』
「もちろんいいよ。お泊りしよ」
 当然、私は嬉々として答える。断る理由があるはずもない。
 途端に鷲津も、ごく微かな溜息をついてみせた。
『そうか。よかった』
 断られるとでも思ってたんだろうか。そんなこと、あり得ないのに。私は再びベッドに寝転んだ。今度は幸せな気分で目を閉じる。
「でも鷲津が外泊なんて言い出すの、意外だった。そういうのって大丈夫なの?」
 耳元には彼の声。彼の気配がしている。近いようでやはり遠く、だけどよすがのある関係。――そう思いたい。
『まあ、な。うちは放任だし、誰に何を言われるまでもない』
「ふうん」
 鷲津の家と私の家とは、そういうところが似ているらしい。外泊をしても特に何も言われない。相手が異性だとばれない限りは。
 もちろん、恋人でもない相手だなんてことは、絶対に言えやしないけど。
『実はな』
 ふと、彼が改まった様子で言った。
『今回誘ったのは、その、用があったからなんだ』
「用?」
 今までも、用もないのに会ったことはなかったように思うけど……ともあれ、問い返す。
「ホテルに行くのに、用があるってこと?」
『その、まあ、そういうことだ』
「それってどんな用?」
『いや、用って言うか、話がある。泊まるのもこの間みたいなホテルじゃなくて、もっとちゃんとしたところだ』
 鷲津はそう言った後で、息を吸い込んだ。次の言葉は、いささか硬い口調で告げられた。
『お前に話したいことがあって、それでその……泊まりがけで話そうと思った』
「泊まりがけで話さなきゃならないような、長い話なの?」
 質問ばかりで悪いなと思いつつ、どうしても尋ねずにはいられない。彼の口調がもう少し柔らかかったら、きっと私は吹き出してしまったと思う。だって、話をする為だけにホテルに外泊だなんて、何と言うか効率が悪い。よほど人に聞かれたくない話なんだろうか。
『話自体は長くない』
 と、彼は言う。相変わらず強張った物言いだった。
『ただ、結構難しい……訳でもないけど、ややこしい話だから』
「そうなんだ」
『だから一晩付き合ってもらって、じっくり話したかった』
 そこまでするほどの話がどういった内容のものなのか、私にはまるで察しがつかない。でも、そこまでして私に話したいことがあるならちゃんと聞いてあげたかったし、そうでなくとも鷲津と一晩過ごせるというだけで十分に魅力的だ。断る理由はなかった。
「どんな話かは、当日まで秘密?」
 私がまた問うと、その時だけは鷲津も少し笑った。
『そうさせてくれ。あんまり、電話で言うことじゃない』

 その後、私と鷲津は週末についての約束を交わした。
 待ち合わせ場所は以前と同じ駅前に、夕方五時集合。宿泊先のシティホテルにも一応のアメニティグッズは揃っているらしいので、持ち物は着替えくらい。ホテルの予約は既に済んでいて、だから断られなくてよかったと、鷲津は安堵した様子で言った。
 彼の言葉を聞きながら、私は思う。今の鷲津はいつもと違う。いや、昔と違うのかもしれない。私に対する態度も、それ以外の物事に対する姿勢も。どんな変化があったかはわからないけど。

 約束を終えて電話を切る直前、私は彼に聞いてみた。
「ねえ、私のこと、今でも怖いと思ってる?」
『は? いや、そりゃあな』
 鷲津は素直に認めてきた。こればかりは濁してくれないらしい。
「あのね、聞いてみたかったの。私が前に、教室で鷲津に告白した時――」
『告白?』
「うん。言ったでしょう、鷲津のこと、拘束したいって」
 そう告げたら、彼は苦々しい言い方で答えた。
『お前な、あれは告白って言わないだろ。襲われたのと同じだ』
「……告白だよ。一応」
 私自身はそのつもりだった。だけど、彼にそう思われない可能性も考えてはいる。人の感情や衝動を、真っ直ぐにぶつけられるのは恐ろしいものだ。今の私にはそれが、わかってしまう。
「あの時、鷲津は、私のことを怖いと思った?」
『当たり前だ。どんな変態かと思った』
 彼の言う『変態』は、どこまで恐ろしい存在なんだろう。単語だけでは読み取れない。ただ、いいニュアンスにも聞こえない。
「そう……今でも同じように思う?」
『ああ』
 鷲津はあっさりと肯定してみせた後、幾分か穏やかになった声でこう続けた。
『でも、俺がお前を怖いと思うのは、そういう意味合いだけじゃない』
 とっさに私は目を瞬かせる。
 じゃあ、どういう意味合い?
『それも今度、話す。だから必ず来てくれ』 
 戸惑う私をよそに、鷲津はさりげなく、初めての言葉を口にした。
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