小さな君へ(2)
佐山は、高校時代とは随分と違う印象に映った。人懐っこそうな表情は見る影もなく、今はどちらかと言うと気弱で、神経質なそぶりに見えた。少し痩せたのかもしれない。体格は相変わらずいいままだったけど、顔色がいいようではなかった。
足元から黒い影を伸ばして、佐山はじっと立っていた。家に帰り着くまでもうあと少しの私の、眼前に立ちはだかっている。そのくせ面差しは神妙そうだった。
「ごめん」
彼はその言葉を繰り返した。
「どうしても、会いたかったんだ。久我原に」
口調は真剣そのものだ。だからと言って、こちらには喜んであげるいわれもないけど。
むしろぞっとしていた。
鷲津が私に、家には来るなと言っていた意味。今ならわかる。これは確かに恐ろしい。
電話を掛けてきたのはあの時、一度きりだ。だから佐山は諦めてくれたものと思っていた。同じ市内に住んでいた同士、道で偶然行きあうことはあっても、こうして会いに来ることなんてないだろうと高をくくっていた。
まさか、家まで来るなんて。
「……佐山って、ストーカーなの?」
私は寒気を覚え、率直に尋ねた。
事実そうとしか言いようのない状況のはずだけど、佐山はわかり易いくらいにショックを受けた顔になった。
「久我原、手厳しいな」
「だって、家の場所を教えた覚えもないし。また誰かに聞き出したの?」
以前、電話を掛けてきた時もそうだった。私の携帯電話の番号は、私と仲のよかったクラスの誰かを通じて、佐山の手に渡ってしまった。今更糾弾するつもりもないけどあんまりな仕打ちだと思う。そりゃあ佐山はクラスでも社交的な部類の男子だったし、信用を得るのも容易かったんでしょうけど――私からすれば、鷲津よりよほど信用ならないけど。
「ごめん」
佐山はもう一度詫びると、眉尻を下げてみせた。
「でも俺、久我原に会いたくて。この間のことで忘れようと思ったけど、出来なかった。やっぱりどうしても会いたくて、それで」
言葉に詰まったように、彼はそこで声を止めた。表情は悲痛だ。悪意のある様子には見えない。
その方が余計に厄介だった。悪意があるとわかればすぐさま通報してやるのに。ちょうど手の中には電話もある。さっきまで鷲津と繋がっていた携帯電話を握り締めている。こういう状況になっても、鷲津に連絡を取る訳にはいかないけど。彼氏ではない人だから、鷲津に助けを求める事は出来ないけど。
鷲津から見た私も、こんな風に映るんだろうか。
悲痛で、必死で、それでいて悪意のある様子ではないから、扱いに困るんだろうか。
陽の沈み始めた頃合、この住宅街は静かだった。お互いに黙り込むと不気味なくらいに静まり返った。もう五月だというのにやたら寒い。
だけど黙ってもいられない。溜息をつき、仕方なく切り出す。
「この間の時に、言ったと思うんだけど」
私は佐山を睨みつけた。佐山は怯むように顔を強張らせる。
「好きな人がいるの、私」
この間も告げた言葉を、再び口にした。
「信じてない? 好きな人がいるのも、卒業式の日にデートしたっていうのも本当だよ。それは佐山じゃない人だから」
誰かは、言えないけど。
多分、鷲津も言って欲しくないはずだ。
「佐山が私をどう思ってるかは知らないけど、もし好きだって言うんなら、諦めて」
低く、響くような声になった。
「私は絶対に、今の好きな人のこと、諦めたくないから」
絶対に。そう思えたのは鷲津が初めてだった。
誰にも渡したくないと思うほど、独占欲が募ったのも。何を捧げたって惜しくないと思うほど、可愛いと感じられたのも。どんなことをされてもいとおしいと思うほど、愛する気になれたのも、全て鷲津だけだった。今までにはそんな相手、いなかった。これからもきっと、いないだろうと思う。
他の誰でも駄目だった。鷲津じゃなくちゃ駄目。
鷲津を捕まえて、閉じ込めておきたかった。他の誰にも取られないように。
「帰ってくれる?」
私は佐山に促した。
佐山は硬い表情で、ぎこちなく口を開いた。
「少しでいいから、聞いてくれないか」
嫌だ、と突き放してやりたかった。だけど不気味さの方が先立って、徹底的に拒むことは出来なかった。少しでいいと言うなら、ほんの少しだけでも聞いてやって、すんなり帰ってもらう方がいい。
「少しだけね」
意外にも、私の声はかすれた。
逆に佐山は微笑した。トーンを上げ、はっきりした語調で継いだ。
「好きなんだ、久我原が」
そう言った。
静かな道の真ん中で向き合って、待ち伏せしていた当の相手に睨みつけられ、他の好きな人がいると言われても、佐山はそう言ってきた。
執着的だと思った。その後で、似ているのかもしれないと、確かに思った。
「同じクラスになってからずっと、好きだった。君は他のクラスメイトより、何だかすごく大人っぽく見えてたから。表情とか、仕種とか、一つ一つから目が離せなかったんだ」
佐山が語るのは、私の知らない私の姿。もしかすると私のものではないかもしれない姿。鷲津じゃない人からの愛の言葉は、ざらざらした砂の味にも似ていた。
「今でも好きだ。卒業してからも、進学してからも忘れられなかった」
彼は続ける。熱に浮かされたトーンで言い募る。
「ストーカーみたいなことをして、ごめん。でも会いたかった。この間みたいな終わり方は嫌だったんだ。どうしても、気持ちを伝えておきたかった」
そんなに親しかった訳でもなく、印象が強かった訳でもないクラスメイトの一人。彼についての思い出もさほどなく、学校行事で何かを一緒にやり遂げたとか、教室で親しく言葉を交わしたとか、そんな記憶もほとんどなかった。好きになってもらう理由は見当たらない。
だとすると、佐山にもあったんだろうか。私が鷲津に惹かれたような一瞬が。衝動的な感情が。強くて鮮烈で即物的な、あんな気持ちを、佐山は私に抱いたことがあったんだろうか。
――嫌だ。
急に、恐怖がせり上がってきた。
「久我原に好きな人がいるのは聞いた」
身を震わせる私には構わず、佐山は尚も言う。
「でも、『好きな人』なんだろ? 彼氏とかじゃなくて」
「……どういう意味?」
問い返す声までかすれている。私らしくもない。
「彼氏がいる訳じゃないなら、まだ俺にもチャンスはあると思ってる」
佐山も、佐山らしくなかった。彼らしさをちゃんと知っているつもりはなかったけど、私の知らなかった顔と、声をしている。
「だってそいつより、俺の方が久我原を好きでいるんだからな」
愛想のいい、社交的なクラスメイトの面影はどこにもない。光をぎらつかせた眼差しは、真っ直ぐ私に狙いを定めていた。射抜かれると、背筋に悪寒が走る。
「待ってたっていいだろ?」
クラスメイトだった頃よりも強引な調子で、佐山が宣言した。
「俺は久我原が好きだ。久我原を好きじゃない奴には、絶対に負けたくない」
吐き気がするくらい、同じ気持ちだった。
私もそうだ。鷲津のことが好き。他の誰にも負けたくはなかった。鷲津のことは、私だけが閉じ込めておきたかった。私以外の何にも囚われていて欲しくなかった。
それはごく普遍的な感情なのかもしれない。程度の差こそあれ、恋をすれば誰もが抱く思いなのかもしれない。
でも、向けられてみて初めてわかった。ろくに知りもしない、好きでもない相手からそういう感情を剥き出しにされるのは恐ろしい。倫理観とか常識とかをすっ飛ばしてしまうほどに強い衝動を伴っている、その感情は恐ろしい。まして相手が、強引な手段さえも厭わないような人間なら。
佐山がそんな人だとは思わなかった。
鷲津もきっと、私がそんな人間だとは思わなかっただろう。それなら――鷲津が私を怖いと言ったのは、もしかして。
気付きたくないことに気付いてしまった。
目の前にある事実以上に、ずしりと重い。
「帰って」
佐山には、そう告げるのが精一杯だった。どうにか声はかすれずに済んだ。でも睨みつける気力はなかった。佐山なんてどうでもいい。どこかへ行って欲しい。
それで佐山も踵を返した。黙ったまま、私の前と、この住宅街の道から立ち去った。
彼がいなくなると、どっと疲れた。家のすぐ近くだっていうのに、ここにしゃがみ込みたくなった。
何も言い残していかなかったのは、次の機会を考えてのことなんだろうか。そんなもの、あるはずがない。鷲津が私を好きじゃなくても、私は鷲津のことを、ずっとずっと好きでいるから。佐山を受け入れるつもりなんて絶対にない。
じゃあどうして、鷲津は私を受け入れてくれたんだろう。
好きにはならなくても、許容して、たびたび会ってくれようとするんだろう。
鷲津にとっての私も、底知れない感情と衝動を抱いた、恐ろしい存在に違いないのに。