Tiny garden

白い羽(4)

 ストーブのない部屋は、下着だけになると肌寒く感じられた
 だけどそれも少しの我慢。机の上に腰掛けたまま、私は軽く目をつむる。鷲津の両手が、私の肩に触れてくる。
 彼の手は、彼の肌と同じようにすべすべしている。指先が引っ掛かることもなく、滑らかに熱を残していく。気持ちいい。

 そういえば、服を脱がせるのが前よりは上手くなったみたいだ。私を抱き寄せるようにして、背中に手を回す。ブラジャーのホックを十秒で外した。彼にしては早い。
 胸元で緩んだブラジャーを見下ろし、私は溜息をつく。鷲津がそれを腕から抜き取ろうとしているのを眺める。肌が粟立つのは寒さだけのせいじゃない。
 床に、かさりと落ちる音。
 それを合図にするみたいに、鷲津は私の首筋に口づけた。指先よりも乾いた唇が触れてくる。くすぐったい。
 キスがゆっくり下りてくる。首筋から鎖骨へ、鎖骨の次は肩へ。彼のキスは弱々しい。物足りなくなるくらいだった。
「焦らしてる?」
 黙ってろと言われていたのに、つい、そう尋ねてしまう。たちまち鷲津はしかめっ面になる。
「何だよ」
「もっと強くしてもいいのに」
 催促してみる。現に、私は今までそうしてきた。彼の肌に痕が残るように、刻みつけるように、強いキスばかりを繰り返してきた。
 同じようにしてくれてもいいのに。
 ううん、して欲しかった。同じように。私に痕が残るくらいに。
「痕、つけて」
 囁く声で告げてみる。
 鷲津は顔を上げ、目を瞠った。
「いいのか? だって……」
「別にいいよ」
 頷く私を、彼は驚いた様子で見つめている。
「後で困るだろ? 残ってたら」
「困らないと思うけど、ちゃんと隠すから。鷲津だって困ったことはなかったでしょう」
「俺はないよ。でも」
 何か言いたそうにして、途中で止めてしまう彼。その内心は読み取れない。
 私は首を竦める。
「気にしないで。まだしばらくは寒いから、タートルネックを着てても平気だもの」
 ちょうど、以前の鷲津みたいに。――揶揄するつもりで口にしてみたものの、彼に通じたかどうかはわからない。難しい顔をしている。
 ともあれ、その気にはなってくれたんだろうか。鷲津はふと視線を外した。それからかさついた唇を、私の喉元に押しつけてきた。淡い温度。息が詰まる。
 再び、キスが下りていく。さっきよりも強く、時々吸うようにして繰り返してくる。私はその様子を、私に痕を残していく彼の頭を見下ろしている。既に胸の上まで赤い痣がつき始めている。うっすらと。
「怖いものなしって感じだよな」
 唇を離し、顔を上げた鷲津が、唐突に言った。
 真っ直ぐな視線が戻ってくる。首を傾げたくなる。
「私のこと?」
 尋ね返すと、ちょうど胸に触れられた。軽く手を置かれただけなのに身体が震えた。私は笑ってしまったけど、彼は笑わなかった。
「ほら、笑ってる」
 鷲津が低い声で言う。
 気に入らなかったんだろうか。彼は、人に笑われるのが嫌らしいから――好ましいという人もいないだろうけど、彼の場合は特に、そうだった。私が笑うといつも機嫌を損ねた。
 今も、硬い表情で私を見上げている。身を屈めて、私の胸に手を置いて、そのポーズとはそぐわない難しい顔つきでいる。
「ごめん」
 とっさに私は謝った。こんな状況で彼の機嫌を損ねて、途中で止められてしまうのは困る。
 だけど、かぶりを振られてしまった。
「怒ってる訳じゃない」
 意外にも彼はそう言った。それどころか、少しだけ笑ったようにも見えた。
 私の胸から手を離し、代わりに再び、抱き寄せてくれた。ただでさえ冷たい机の上、彼の温もりは貴重だった。目を閉じたくなってしまう。
「怒ってないなら、何?」
 彼の耳元で尋ねる。彼が、くすぐったそうに身動ぎをする。
「純粋に疑問なだけ」
「どういうこと?」
「だからさ。久我原にも、怖いものがあるのかどうか」
 シャツ越しの熱がもどかしい。もうちょっと、温めて欲しいと思う。なのに、鷲津はそうしてくれない。焦らしているのか、それとも――。
「最初に、この部屋に来た時だって」
 言いにくそうにしつつ、彼は続ける。
「お前、割と平気そうだった。俺のことも怖くないって言ったよな? お前見てると、何も怖いものなんてないように見えるんだ。そうなんだろ?」
 奇妙な問いかけだった。
 彼がどうしてそんな質問をしてきたのか、ぴんと来ない。むしろ彼は、その質問から何を引き出そうとしているんだろう。
 大体、怖いものがないなんてことはない。そんな人間がこの世にいるだろうか。吸血鬼だって、日光やら十字架やら、苦手なものがあるっていうくらいなのに。
「怖い話とかは苦手だけど」
 一応、慎重に答えてみた。冗談にも、本気にも逃げられるように、当たり障りなく。
「テレビの怪奇特集とかは駄目なの。夜、眠れなくなっちゃうから、すぐにチャンネル替えてる。あとは、和製のホラー映画も苦手かな。外国のは怖くないけど」
 私の答えを、鷲津は黙って聞いていた。語を継ぐまでに少しの間があった。
「……人間なら?」
 と、落ちる沈黙を割り込む、彼の問い。
「人間?」
「お化けとかじゃなくて、生きてる奴で。親とか、きょうだいとか」
 そんなこと聞いて、どうするんだろう。
 それにしてもムードのない会話。鷲津の言葉の陰で、私はそっと苦笑する。誰が、ほとんど全裸で抱き寄せられてる時に、怖いものの話をしたがるんだろう。まして家族のことなんて考えたくもないのに。
 でも、しょうがないので答えた。
「うち、親は怖くないよ」
 正直に。
「結構放任なんだ。多分。よその親はあんまり知らないけど」
「へえ。うちと同じだ」
 呟く鷲津。あまりにも場違いなトーンに、今度ははっきり吹き出してしまった。
「どうしてそんなこと聞くの? こんな時に」
「気になったから」
「変なの。私に怖いものがあるかどうかなんて、今は関係ないじゃない」
 もう遠慮する気も失せてしまった。笑う私を見て、鷲津が不満そうな顔をする。彼にムード作りを期待するのも悪いのかもしれないけど、それにしても、もう少し考えて欲しいものだと思う。

 鷲津が僅かに身を離した。肩は抱いたまま、じっと、怒った表情で私を見ている。
 私はほとんど服を着ていない。胸もはだけているし、腕も脚も全て鷲津の前に晒している。なのに鷲津は私の顔を見つめている。身体には興味もないみたいに、強い視線を向けてくる。
 手を出しづらい雰囲気だった。目の前に彼がいるのに。Tシャツの襟元から、あの白い首筋を伸ばしている彼がいるのに、私は何も出来ずにいた。
 まるでラブシーンじゃないみたいだ。
 ムードがない、どころじゃない。鷲津は私以外のことを考えている。たとえ目の前に裸の女の子がいたってどうでもよくなるくらい、他のことに囚われている。それは一体、何なんだろう。

 浮かんだ疑問は形を変えて、私の口をついて出た。
「鷲津は?」
 声を発した途端、彼の眼差しが、揺らいだように見えた。
「鷲津には、怖いものってある?」
 普通、そういうことを聞く人は、自分にあるから疑問に思うんだろう。だって怖いものがない人は、他人に怖いものがあるかどうかなんて気にするはずもないだろうから。きっと、鷲津にはあるんだ。怖いものが。きっとそれが、彼を捉えてしまっている。
 強烈な嫉妬を抱きながら、私は彼の答えを待つ。
 乾いた唇は、やがてぎこちなく動いた。
「あるよ」
 鷲津は言った。
「一番は、久我原。お前が怖い」
「――どうして?」
 即座に問い返す。予想外の答えだった。だって、私が怖がられる理由なんて。
「何考えてるかわからないし、言ってることも信用出来ない。俺のことを好きだってのが事実だとして、いつまで好きでいて貰えるのかもわからない」
 抑揚のない声で鷲津が続け、私は何となく腑に落ちた気分になる。ああ、なんだ、そういうこと。
 私の気持ちがまだ信じ切れないってことなんだろうか。こんなにわかり易く、愛情を示してるっていうのに? 鈍感なのか疎いのか、全く困った人だ。
 私は笑んで、反論した。
「ずっと好きでいるよ、心配しなくたって」
 鷲津は何も言わない。唇を結んでいる。
「そんなに心配なら、捕まえておいてくれたらいいのに。鷲津が私を好きになってくれたら、もっと確実かも。ねえ、そろそろ好きになってくれない?」
 彼の首に腕を掛け、そう呼びかけてみる。
 すると、彼は抗わないまま、ぽつりと応じた。
「好きには、なれないかもしれない」
 感情の薄い口調だった。
「でも、感謝はしてる。多分」
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