白い羽(3)
鷲津の家の前まで来ると、先に玄関のドアが開いた。こちらをじろりと睨む、彼の無愛想な顔が覗いている。長袖のTシャツにジーンズという、初めて見る薄着の格好だった。
「待っててくれたの?」
門を潜りながら尋ねてみた。彼はその問いには答えず、中に入れと仕種で促す。私は笑って、お招きに与る。
「お邪魔します」
やはり、答えはない。
玄関に入って靴を脱ぐと、すかさず声が降ってきた。
「何か飲むか?」
振り向けば、鷲津は自分の部屋がある階段ではなく、階段の横にあるドアを開けようとしていた。そちらは確かリビングで、その奥に洗面所やキッチンがあるのを知っている。
家の中は静かだ。以前に来た時と同じように。
「ううん、お構いなく」
答えてから私は靴を揃える。三度目の訪問になるけど、いつもそう答えてきた。気を遣ってもらいたい訳じゃない。
再び顔を上げた時、彼は、どこか不機嫌そうな面持ちをしていた。
「別に遠慮しなくたって」
「遠慮するよ。気にしないで」
こちらが笑いかけても、向こうは笑わない。何が気に入らないのかさっぱりわからない。そのうちにいらいらした様子で尋ねてきた。
「コーヒーと紅茶ならどっちがいい」
「……じゃあ、紅茶」
「冷たいのと温かいのなら?」
「温かいの」
有無を言わさぬ質問の仕方に、私は結局素直に答えた。鷲津は一つ頷くと、先に行ってろと言い残して、ドアの奥へと消えてしまった。
彼の部屋に来るのも、一ヶ月ぶりということになる。
内装はほとんど何も変わっていなかった。モノトーンの部屋はそのままで、ただストーブが見当たらなくなったこと以外は、記憶にかちりと当て嵌まった。
グレーのカーペットに腰を下ろそうとして、ふと、窓が目に留まった。きれいに磨かれたガラスの向こう、閑静な街並みが映っている。興味を持って歩み寄れば、どんどん景色が広がっていく。家々の隙間を抉じ開けるように遠くが見通せるようになる。
色とりどりの外壁と、間隔をあけて整列した電信柱。ぽつりぽつりと覗く若葉の色。おぼろげな青空の下には春らしい眺めが存在していた。時折風が吹いて、ガラスの窓は音を立てて揺れる。それでも街並みは揺れない。ただただ広がっている。
鷲津の部屋の窓からは、静止した景色が見えていた。
春らしいといえば、桜もあった。但し、桜の木じゃない。花びらだ。窓のすぐ下、屋根の上にあった。小さな白い花びらが数枚、痕跡みたいに落ちていた。
見渡してみても、近くに桜の木は見えない。来る時に傍を通った母校の桜、あれが、ここまで飛んできたんだろうか。
「……何やってんだ」
声がして、私は我に返った。
部屋の入り口には鷲津が立っていた。呆れた顔で入ってきて、手にしたトレーを勉強机の上に置く。カップが二つ載っている。片方は紅茶で、片方はコーヒーらしい。
「窓の外、見てたの」
正直に答えると、鼻を鳴らされた。
「つくづく物好きだな。面白いものなんてないだろ」
「あるよ。ほら、見て」
私は嬉々として鷲津を手招きする。彼はうんざりした様子ながらも、私のいる窓辺に寄ってくる。窓の外を指差してみる。窓のすぐ下、屋根の上に落ちている、桜の小さな花びらを。
「桜の花びら」
「ああ、それか」
鷲津が首を竦めた。どうってことない、とでも言いたげに続ける。
「風が強いせいか、ここまで飛んでくるんだ」
「これって、うちの高校の桜?」
「多分な。他に、この辺りに桜はないし」
そう言うと、彼は窓際から身を離す。私の横をすり抜けるみたいに、窓の横の勉強机へと歩み寄る。こちらに背を向け、コーヒーをかき混ぜているようだ。音がする。
「ロマンチックだって思わない?」
尋ねてみた。
振り向かず、彼が答える。
「何が?」
「桜が。ここまで飛んできたってこと」
「どこがロマンかちっともわからない」
冷たい言葉が返ってきた。鷲津らしい。
私は軽くだけ笑って、更に言い募ってみる。
「桜の花びらって、鳥の羽みたいだよね」
震えるガラス越しに見る、ぽつんと落ちた数枚の花びら。抜け落ちた羽みたいに儚い。
「小鳥の羽がここまで飛んできたみたいだって、思ったの」
羽ばたこうとする鳥が、捕らわれて、それでももがいて、そうして散らせた白い羽。惜しげもなく振り撒かれる桜の花びらは、私の目にはそんな風に映った。なぜか堪らなく、ぞくりとした。
私に背中を向けている、鷲津の首筋も白い。桜の花びらみたいに白い。淡く色づかせる方法も知っている。捕らえる方法も、もがかせる方法だって私は、既に手に入れている。
「どうして、鳥の羽だって思う?」
こちらを見ずに、鷲津が問う。
何か感づいたみたいに鋭い声だった。
「艶っぽいから」
私は答える。率直に、正直に。
「だって、わざとらしいじゃない。桜って。風に身を捩って、もがくようにして、花びらを散らして。わかっていて、わざとそうしてるみたいなんだもの。そうすれば艶っぽく見えるって、計算してるみたいに」
確かめるように言葉を重ねていく。
「本当は、そうやってもがく様を、誰かに見てもらいたいんでしょう」
私は、もう窓の外を見ていなかった。
「本当は、逃げ出すのだって飛んでいくのだって容易いのに、わざと捕まったふりをしているんでしょう?」
捕まえているのだって嫌いじゃない。拘束したい。し続けたい。その気持ちはまだ胸のうちにある。
だけど、本当に逃げられないようにも、したい。
逃げたい、なんて思わないように。離れられなくなるように。一ヶ月も会わないなんて耐えられない、くらいに。私のことが必要で、欲しくて堪らなくて、失うことなんて絶対考えられなくなるように、したい。
鷲津は、桜の色をした可愛い小鳥だ。
今は私の手の中にいる。逃げ出そうと思えば逃げられるくらいの、緩い力で拘束している。
それでも、逃げないはずだ。わかっていた。
私に背中を向けたまま、鷲津はしばらく黙っていた。
強い風が吹いて、音を立てて窓ガラスが揺れた。華奢な後ろ姿が震える。
「逃げるのは簡単じゃない」
絞り出すような声が、ふと、聞こえた。
「お前が思うほど、容易いことじゃないんだ」
そう? 私は問い返そうとして、思わず口を噤んだ。
鷲津がこちらを振り向いていた。硬い表情、白い頬を僅かに上気させて、眼差しだけが強く、鋭い。
貫かれたように私は呼吸を止め、彼の唇が動くのをじっと、見守っていた。
「桜の花が、もがく鳥の羽だって言うなら――」
彼の唇は赤い。
上下する隆起と、喉元は白い。
惹かれた瞬間を唐突に思い出した。私は、こんな風に恋に落ちた。まさしく一瞬の、鮮烈な印象によって。
「きっと、鳥かごだ」
鷲津は言う。
「あの桜がある場所は。俺たちを、俺を拘束しておく為だけの、鳥かごに違いない」
強い視線は、私を射抜いている。だけど私を見てくれているのか、私越しに他のものを見ているのか、まるでわからない。
鳥かごと呼ばれたあの場所は、既に過去のもののはずだ。私たちはそれぞれあの場所から飛び立ち、次の場所へと向かっている。もう拘束されることはないはずだ。教室にも、制服にも、クラスメイトにも。
なのに、鷲津はまだ捕らわれている。拘束されている。何かに。過去に。私ではないものに。そのことが如実にわかって、私は眩暈を覚えた。
負けたくない。負けたくないのに。
次の瞬間、強く抱きすくめられた。
鷲津の腕が私を潰さんばかりに抱いて、吐息がひとりでに零れた。呼吸を整える暇もなく、骨ばった腕が私を持ち上げる。少しよろけながらも押しつけられた。ひやりと冷たい、勉強机の上に。
私は、彼の机の上に座らされていた。スカートから伸びる両足を力なくぶら下げて、不安定に背を逸らして。手をつこうとしたら、トレーにぶつかった。コーヒーと紅茶がカップの中で波打つ。
突然の行動に驚く暇もなかった。
すぐに、机の前に立つ彼から、キスを食らった。膝の上に手を置かれて、ぶつけるように強烈なのを、唇に。唇を離したら、耳朶に、耳の後ろに、乱暴なくらいに次々とされた。
「……どうしたの?」
失礼にならないように尋ねようと思った。にもかかわらず、少し笑ってしまった。くすぐったいからだ。
私の首筋に顔を埋めた鷲津が、自棄気味の声を発する。
「お前、何しに来たんだよ」
「何って……」
「いいよもう、黙ってろ。お前が喋ると腹が立つ」
そういう物言いで、私の言葉を遮る。鎖骨に唇を這わせる彼を、私は黙って見下ろしていた。
ほんの一瞬、胸が痛んだ。
だけど一瞬だけだった。すぐに別の感情が湧き起こって、私の中の悔しさや嫉妬を押し流してしまった。
したいなら、好きにすればいい。彼がそれを望むなら、存分に楽しませてあげたい。もっとも――私だって、黙って待つだけのつもりはないけど。
今日こそは、虜にしてあげる。私なしじゃいられないようにしてあげる。一ヶ月なんて間を置くことさえ、出来ないようにしてあげる。
色白の手が不器用に着衣を剥ぎ取り始める。もつれる彼の指先を、私は笑みながら注視していた。