Tiny garden

白い羽(1)

 卒業式の日からしばらくの間、鷲津は連絡を寄越さなかった。
 予告されていた通りとは言え、不安にはなった。ホテルに行ってから一週間が過ぎ、二週間が終わろうとする頃になると、さすがにそわそわしてしまった。こちらから連絡しては駄目だろうか、家まで押し掛けたら怒られるだろうかと、まるでストーカーじみたことを考え始めた。三週間目には他のことがまるで手につかなくなって、日々をだらだらと過ごすようになっていた。
 それでも、ストーカーじみた行為を実際にすることはなかった。なぜかと言えば、まさに彼も言っていた通り、私も暇ではなくなったからだ。

 四月になると、大学生活が始まった。ドラマのような華やかなキャンパスライフを夢見た訳ではないけれど、想像以上に静かな幕開けとなった。私が頭の中を鷲津でいっぱいにしていようがいまいが関係なく、入学式が済み、講義も始まり、そうしてぽつぽつと友人が出来た。今のところ、当たり障りのない付き合いをしている。
 高校時代とあまり変わらない過ごし方を、大学でもしていた。違うのは学び舎の広さと、制服を着ていないことくらい。それとここに、鷲津がいないことと――私の心は既に、彼に拘束されている。

 入学式を終えたら連絡する、と言っていた鷲津は、けれどなかなか電話をくれなかった。四月も中旬に入ったというのに、一向に電話を鳴らしてくれない。代わりに新しい友人からの連絡が入るようになったけど、あからさまにがっかりしてしまわぬよう、気を遣うのが大変だった。
 鷲津はどうしているだろう。進学先で楽しくやっているんだろうか。まさか入学早々に可愛い女の子とめぐり合い、そのまま男女交際……などということは、さすがに鷲津の性格に限ってはないだろうと思う。思うけど、それにしても、不安になる。
 大体、あれほどの魅力的かつ誘惑的な鷲津を見て、私以外の女の子が好きにならないと断言出来るだろうか。あの白い首筋や、赤らみがちな頬や、煽るように睨みつけてくる双眸や、華奢と言っても差し支えない身体つきは、大変に魅力的かつ誘惑的かつ美味しそうなものだ。いや、実際大変に美味しかった。その魅力を進学先の大学でも振り撒いていたとしたらどうだろう。私以外の女の子にも告白されたり、押し倒されたり、ホテルに誘われたりしていたらどうだろう。彼は拒んでくれるだろうか。むしろ、拒んでもらう必要があるのだろうか。私は彼女でもないのに。ただ、利用されているだけの身なのに。
 不安以上に嫉妬に駆られた。こんなことなら鷲津と同じ進学先を選んでおくんだった。悔やんでも時既に遅し。私は悶々としながら、気だるい四月を尚も寂しく過ごしていた。

 そんな折だ。
 私の携帯電話に、見知らぬ番号の不在着信が残されたのは。

 それは、携帯電話の番号だった。鷲津の家の電話番号ではない。だけど予感がしていた。
 鷲津かもしれない。鷲津に違いない。きっと携帯電話を新しく購入して、その番号で連絡をくれたんだ。根拠もないのにそう確信した。思い込んだ私はすかさず、その番号へと掛け直した。ちょうど自分の部屋にいたから、油断があった。直情的に行動した。
 コール音の後、すぐに繋がる。それでも声がするまでにはほんの僅かな間があった。その間に私はベッドに座り、彼の声を待った。鷲津の声がするのを。
『……もしもし』
 声を聞いた途端、落胆した。
 鷲津の声ではなかった。男の人の声。
「あ……」
 今更ながら私は不用意さを恥じた。見覚えのない番号に掛けるだなんて、普段なら考えもしないような行動だった。鷲津のこととなると判断力すらなくなっている自分に、いささか呆れる。
「ごめんなさい、間違えました」
 電話の向こうの人にそう告げ、私は通話を終えようとした。
 だけどその時、
『待ってくれ! 久我原だろ?』
 逆に相手に制され、しかも名前を呼ばれた。
 さすがにぎょっとする。知らない番号だし、相手が誰なのか心当たりもなかった。聞いたことのあるような、ないような声。
「……誰?」
 恐る恐る尋ねると、間を作りながら向こうは答える。
『俺……あの、佐山だけど。覚えてる……よな?』
「佐山?」
 覚えてはいる。高校時代のクラスメイト。卒業式の日のやり取りだってまだ覚えていた。望んだ訳でもないけど。
 彼の電話越しの声を聞くのは初めてだ。先程までの馬鹿みたいに浮かれた気持ちがすうっと冷めて、一気に警戒の域にまで達した。私は声を尖らせる。
「さっき私に、電話を掛けた?」
『掛けた』
 彼はあっさりと認めた。警戒レベルが上昇する。
「私、佐山に電話番号を教えた記憶ないんだけど。どうして知ってるの?」
 この間までだって、私と佐山は仲が良かった訳じゃない。あくまでも一クラスメイトとして当たり障りのない付き合いしかしてこなかった。だから、彼が私の携帯電話の番号を知っているのはおかしい。
 こちらの警戒を察してか、佐山も慌てたように応じる。
『違うんだ、その、教えてもらってさ。どうしてもって頼んだんだ。俺、もう一度久我原と話したかったから』
「……ふうん」
 呆れた理由だ、と思う。どういう用件があるのかは知らないけど、こんなやり方は強引だ。
 もっとも、鷲津に対して執着している私が言えた義理でもないだろうけど。こっそり首を竦めて、更に聞いた。
「誰に聞いたの?」
『え?』
 佐山の声が揺らいだ。
「だから、私の電話番号。誰から聞いたのか教えて」
 促す。この件についての心当たりは数人。直に切れる縁とは言え、友人だった人間の電話番号を気安く渡すなんて、裏切りもいいところだ。それには少し不快感を覚えた。
「誰なの?」
 私は重ねて問う。
『久我原、ごめん。怒ってるよな?』
 不安げな佐山は、的外れなことを問い返す。溜息が出た。
「怒ってるって訳じゃないけど……そりゃあ、自分の電話番号を勝手に言い触らされたりしたら、誰だっていい気分はしないでしょう?」
『違うんだ。言い触らしたとかじゃない。俺が頼み込んで、無理を言って教えてもらっただけなんだ。その子は悪くない』
 そういう物言いで、佐山はその子を庇った。と同時に、その子が誰なのか口を割るつもりもないと知らせてきた。こちらは気分が悪かったけど、どうしようもない。
『本当にごめん。もう掛けないから、今だけ話をさせて欲しい』
「……話って何?」
 やむを得ず私は、彼に言葉の続きを求めた。だけど決して、聞きたい訳ではなかった。打ち切れるものなら打ち切りたい。佐山のことも、彼に私の電話番号を渡した誰かのことも、何もかも。
 電話の向こうから、深呼吸が聞こえてくる。 
『あの、久我原』
「なあに?」
『卒業式の日のことだけど……。あの日、デートだったっていうのは本当なのか?』
 佐山がそう言い、私はまた首を竦める。見えもしないのに。
「本当だけど、どうして?」
『いや、断りにくくてそういう風に言ったのかって、思ったから』
 今の言葉から察するに、佐山は私の言い分を信じていないらしい。そんなにデートと無縁そうに見えるんだろうか。
 ちゃんと、本当なのに。
 あの日は確かに鷲津とデートしていた。ラブホテルで。
「本当だよ」
 繰り返して告げる。
「私ね、好きな人がいるの。あの日は本当にデートだった。……がっかりした?」
 笑った私とは対照的に、佐山は黙った。答えない。
 それで私も、この通話を打ち切る気になれた。
「そういう用件だって言うなら、もう掛けてこないで」
『久我原』
 彼が私を呼ぶ。どこか咎める口調にも聞こえた。
「何? そういう用件だったんでしょう?」
 冷たく突き放すと、佐山はまた黙る。ノイズだけになる。
 沈黙を肯定と受け取り、私は挨拶もせずに電話を切った。そのまま、携帯電話をベッドに放り、自分もぱたりと倒れ込む。

 馬鹿みたい。
 佐山は、私なんかのどこが好きだったんだろう。――鷲津の言っていた『私を好きだという男子』は、多分佐山のことなんだろうな、と思っている。だけど高校在学中だって、別に仲が良かった訳じゃないのに。好きになってもらう理由なんて、なかったように思うのに。
 でも、それは鷲津にとっての私も、同じなのかもしれない。鷲津からすれば同じ思いで、私を見ているのかもしれない。私の鷲津に対する恋情は、まさに一目惚れと言うに他ならないものだ。だけど一目惚れなんて他人に言われたなら最も信用ならない恋の理由だろう。自分で口にするなら、これほど確かな理由もないというのに。
 馬鹿みたいだ。私も、佐山も。
 決してきれいとは言えないやり方で好きな人に近づこうとしている。
 私はその後ろ暗さ、罪悪感をも吹っ切って、鷲津のものになろうとした。二度も、抱かれた。佐山はどうだろう。後ろ暗さも罪悪感も吹っ切って、きれいじゃない手段を用いる気になるだろうか。多分、そうはしない。親しくなかったクラスメイトの僅かな情報だけでもわかる。佐山は、そういうことをする人ではない。電話番号の件だって、きっと気の迷いがあったのだろう――もしかすると頼み込んだというのも嘘で、誰かに私の電話番号を、強引に押し付けられたのかもしれない。お節介焼きはどこにでもいるものだから。

 それきり、あの見知らぬ番号から電話が掛かってくることはなかった。
 代わりに見覚えのある番号から連絡があった。佐山とのやり取りから二日後、ようやく、鷲津が電話をくれた。
PREV← →NEXT 目次
▲top