Tiny garden

熱情(6)

 二人揃って、ペットボトルを空にした。
 喉が渇いていた。二本だけじゃ足りなかったかもしれない。もっと買ってくるんだったと後から思った。
 ホテルの部屋は空気が乾燥している。お蔭で買ってきたお菓子に手をつける気にもならなかった。かといって冷蔵庫の中にあるジュースを飲むのも抵抗があったから、洗面台のお水で我慢した。

 大体のことが済んでしまっても、まだ一時間くらい余裕があった。
 午後四時、五分前。外した腕時計を確かめてから、私はベッドに潜り込む。鷲津は隣でぼんやり天井を見上げている。寄り添って足や腕を絡めても、彼は何も言わない。眠いのかもしれない。
 素肌の温もりと柔らかさを、存分に堪能している。幸せな一時だった。
「お風呂、入りたかったなあ」
 ふと、呟いてみる。さすがに今からお湯を張って、お風呂に入る余裕はなかった。時間があれば是非とも二人で入りたかったんだけどな。
 手足はしっとり汗ばんでいた。鷲津も私も同じように。それでも私は鷲津にぴたりとくっついていたし、彼も黙っている。許容してくれている、はずだ。
「でも、何にもしないでいるのも、案外悪くないね」
 更に呟く。こうやって触れ合っているだけでも結構、悪くない。鷲津も私を邪険にはしないし。
 とはいえ、私の言葉を聞いていない様子ではあった。上の空で天井ばかり眺めている。ホテルの天井はきれいだけど、見ていて面白いものでもないように思う。
「考え事?」
 耳元で囁いて、ようやくこっちを見てもらえた。目の端で、やっぱりちらっとだけだけど。
「ちょっとな」
「ふうん」
 何を考えていたのか、聞いてみてもいいんだろうか。聞いたとして教えてもらえるだろうか。私が鈍る思考を組み立てている間に、彼は語を継いでいた。
「お前さ」
「私?」
「ああ。本当に、俺のこと好きなのか」
 随分とストレートに尋ねてきた。
 そのせいで、私は一瞬ぽかんとしてしまった。自分で口にするのはともかく、当の本人から尋ねられるのはなかなか、驚かされるものだ。ましてや鷲津が、そんなことを聞きたがるなんて。
「もちろん」
 一秒後には胸を張って答えていた。
 鷲津はまた、目の端で私を見る。
「疑わしいんだよな」
「どうして? どうしてそんなこと言うの?」
 疑われるいわれはないと思う。私は言葉でも態度でも散々彼に伝えているつもりだし、そこで嘘をついた覚えはない。鷲津だってもうとっくにわかっていると思っていたのに――嘘やいたずらのつもりで、こんな真似までは出来るはずもない。
「だって、何か」
 彼は少々言いにくそうにしていた。
「身体目当てって感じがするから」
 そして告げられた台詞に、私は危うく吹き出すところだった。
「笑うなよ」
 むくれたような声が追ってくる。
「俺だって、自分で言うのもおかしな話だと思ってるんだ。普通逆だろ、男の言う台詞じゃないよな」
「そうだね。聞いたことないかも」
 ドラマでよくある台詞だけど、言うのは大抵女の人の方。男の人が言ってるのは観たことがなかった。私は笑いながら答える。
「でも、身体だけじゃないよ。鷲津の心も好き、ちゃんと好きだよ」
 告げてみても、鷲津はそれほど動じなかった。表情を変えずに、ただ何かを考え込むようなそぶりでいた。
 乾いた唇が語を継いだのは、しばらく経ってからだった。
「前から思ってたんだけどな」
 何気ない調子の声。いつもよりも穏やかで、柔らかに聞こえた。
「久我原ってさ、あまり他人に興味ないタイプだろ?」
 だけど尋ねられたのは、予想もしていなかった事柄だった。唐突過ぎる質問に、私は再びぽかんとする。
「どういうこと?」
「無関心そうに見えてた。クラスでも、誰に対しても」
「そんなこと……ないと思うけどな」
 クラスには仲のいい子もいたし、皆と当たり障りなく、上手く付き合ってたと思う。男子とはあまり話をしなかったけど、別に嫌っていた相手がいた訳じゃない。鷲津のことだって、私は皆が言うほど嫌な奴だとは思わなかった。むしろ、関心がなかった。
 でも、それだって昔の話。今は鷲津に誰より関心があるし、興味もある。好きな人なんだから当たり前だ。反比例して他の人に興味がなくなったのも、あくまで恋心のごく一般的な作用。私はそう思っている。
 鷲津はそうは思わないらしい。やはり何気ないトーンで続けてきた。
「俺、お前のことは、そんなに嫌いじゃなかったんだ」
 こちらを見ずに、天井だけを見上げていた。
「お前がそういう奴だったから。何でも興味がなさそうで、他人の目も気にしないで、真面目そうに生きてる。ただの馬鹿なのか、それとも要領がいいのかはわからなかったけど、お前が俺にも関心を持たずにいてくれたから、それだけはありがたかった」
 私には、鷲津の言うことがよくわからない。彼に対して関心を持たなかったから、ありがたかった? どういう意味なんだろう。
「無関心でいてくれる方がいいんだ、何かにつけて馬鹿にされたり、笑われたりするよりは」
 そこまで言うと、鷲津は深く息をついた。心なしか、横顔が疲れているようだった。今日は卒業式だったっけ、と今更みたいに私は思う。
「今は?」
 尋ねてみた。
「今は、私のことどう思ってる? 嫌いじゃない? それとも、好き?」
 興味があるのは今のことだけ。今の、鷲津だけ。そう思っていた。
 同時に、鷲津にもそうあって欲しかった。彼にとっての高校生活三年間は辛かったのかもしれないけど、窮屈で、息苦しくて、耐えられないほどだったのかもしれないけど、今はもう、そうじゃないって。私にだけ拘束されていれば、幸せで、気持ちよくて堪らないって。そう思っていて欲しかった。
 彼は私の方を見なかった。手の甲で額の汗を拭うようにして、言った。
「よくわからない」
「わからない?」
「……そんなことより」
 急に冷たい口調を取り戻した彼は、私を睨んだ。更に続ける。
「後で金、払うから」
「お金って、ホテル代のこと? それなら私が――」
 誘ったのは私の方だ。当然、自分で払うつもりでいた。高校生に四千円は手痛い出費だけど、お金では買えない時間を貰えたからよしとする。だから、鷲津に出させるつもりはなかったのに。
「お前に借りを作るのは嫌だ。俺が払う」
 きっぱりと鷲津が言うので、思わず心配になった。
「別にいいよ、気を遣わなくたって。四千円は大金でしょう」
「そんなのお互い様だろ。つべこべ言うなよ、払ってやるって言ってるのに」
「でも」
「その代わり、次からは割り勘にしてくれ」
 彼のその言葉に、私はもう一度ぽかんとしてしまった。意外な素直さと、彼の方から『次』に言及してきてくれたということ。驚きだった。それはもう、声が出てこなくなるくらいだった。
「また、会ってくれるの?」
 裸の肩に口づけながら、確かめてみる。鷲津は身動ぎをしながらも、口ではこう言った。
「いいけど、当分は無理だ。三月中は忙しいし、四月からも忙しいかもしれない」
「大学の準備とか?」
「お前だってそうだろ? だから、入学式が済んでから一度連絡する」
 そうか。そういえばそうだ。鷲津に夢中になるあまりどうでもよくなっていたけれど、春からはお互いに大学生になるんだ。進学先も違ってしまうらしいから、会えない日が続くのも無理はない。
 でも、高校時代よりはずっと楽になるかもしれない。鷲津の気持ちは、特に。もうネクタイや、制服や、教室や、クラスメイトの目に拘束されることもなくなるんだから。
「うん、待ってる」
 素直に答えた私を、鷲津はどこか不安げに見た。
「言っとくけど、今日みたいなことはするなよ。待ち伏せとか」
「しないよ。連絡くれるんでしょう?」
「ストーキングされちゃ堪らないからな」
 ぼやくように言った後、彼は少しだけ笑ったようだった。

 ホテルを出てから、鷲津とは駅前で別れた。
 午後五時過ぎ。一人で歩く帰り道は寒かった。さっきまで彼の体温を堪能していた身体には、尚のこと堪えた。
 家に着く直前、コートのポケットで携帯電話が震えた。今日までクラスメイトだった子からのメールだった。
『聖美、パーティ来れないの?』
 文面を読んで、私は首を竦める。そういえば今日は卒業パーティをするんだったっけ。忘れていた。どうせ行くつもりはなかったけど。
 すぐに返事をする。
『うん、ごめんね。約束があったの』
 メールを送ると、程なくして返信があった。
『嘘、もしかしてデートとか? 佐山くん、聖美が来ないからって残念がってたのに』
 ふと、佐山の人懐っこい笑顔が脳裏に浮かんで、さっと消えていった。放っておけば直に忘れてしまうような気がした。佐山のことも、仲のよかった子たちのことも。今はもう興味もない。
 携帯電話のキーを押す指がかじかんでいた。温めて欲しい相手がここにはいない。そのことだけが、辛かった。
『そう、デートなの。佐山にもそう言っておいて』
 メールにそう打ち、送信した。即座に携帯電話の電源を落とす。コートのポケットに放り込んで、後はそ知らぬふりをする。

 今となっては、鷲津以外は何も要らない。
 たとえ他に何も残らなくたって、構わなかった。
PREV← →NEXT 目次
▲top