Tiny garden

熱情(5)

 ごろりと、彼の身体を仰向けに戻した。
 彼は全てされるがままだった。唇は固く結んで、私をじっと見ていた。
「痛かったら言ってね」
 私は声を掛けつつ、彼の片脚に触れた。軽く折るようにして膝を立てさせる。それほど力は込めてないのに、鷲津は全身を硬直させた。
「痛かったら蹴るって言っただろ」
 彼の答えが返ってくる。声に少し、張りが戻ってきたようだ。
 どうせすぐに失われるだろうけど。
「そっか、そうだったね」
「本気だからな。本当にやるからな」
「わかってる。だから、足からにしようと思って」
 言うや否や、私は彼の足を両手で包んで、ほんの僅かに持ち上げた。指先にそっとキスをする。
 鷲津が、途端に身動ぎをした。
「な……止めろ馬鹿、洗ってないのに!」
「気にならないよ」
「気にしろよ!」
 奉仕しろって言ったのは自分のくせに。鷲津にはまだ覚悟と自覚が足りないみたいだ。じっくり、たっぷり焼きつけてあげないと。
 私は鷲津の為なら、何でも出来るんだって。
 足の指から足の甲まで、唇でゆっくり口づけていく。その次はざらつくかかと、次は硬いくるぶし、それから骨ばった足首、すべすべしたふくらはぎ。最後に膝の裏を舌先でくすぐると、鷲津が吐息交じりの声を漏らす。
「何、やってるんだよ……お前……」
「ネットで調べたの。どうしたら、男の人にも喜んでもらえるかって」
 今は何でも調べられるから便利だ。本屋さんでおかしな本を買う必要も、友達に洗いざらい打ち明けた上で情報を得る必要もない。自分一人で片がつく。そうして大したリスクも負わず、鷲津の為だけに尽くすことが出来る。
「こうされるの、好き?」
 もう一度足の指先から始める。足の指、足の甲、かかと、くるぶし、足首、ふくらはぎ。膝の裏は少し刺激を強めにして。何度も何度も繰り返す。鷲津の返事は一向に聞こえない。ただ、押し殺したような吐息だけが聞こえてくる。
「ねえ、どこが好き?」
 膝頭にも口づける。それから手のひらで太腿を撫でると、何も言わない鷲津が手を伸ばし、枕を掴んだ。両腕でぎゅっと抱えている。可愛い。
「痛かった?」
 自分でも意地が悪いと思う質問を、彼にぶつけてみた。
「馬鹿」
 返ってきたのは吐き捨てるようなその文句。思わず、笑いたくなる。
「枕を抱えてるから、しがみつかなきゃいけないほど辛いのかと思って」
「お前、最悪だ。最悪の変態女だ」
「そうかもね。そういう女の子は嫌い?」
 問い返してもやはり、答えはない。
 諦めた私が再度彼の足を持ち上げた時、ふと、彼が違うことを口にした。
「久我原」
 私を呼んだ。
 今にもかじりつこうとしていた足の指から唇を離して、私は彼の顔を見る。真っ赤に上気した顔がこちらを見ている。ぎりぎりのところでどうにか虚勢を張っているようだった。
「聖美って呼んで」
 催促すると、かすれた呻きがあった。
「うるさい。頼みがあるんだ」
「頼み?」
 何だろう。私にして欲しいこと、具体的に出来た、とか?
 好きな人に頼られるというのはうれしいものだ。どんなことでも聞いてあげたいと思う反面、内容如何ではちょっと焦らしてやろうかとも思っている。そうされる方が鷲津の好みにも合うだろうし。
「なあに。言ってみて」
 私は促し、涙を湛えた鷲津の目が、ぐるぐると宙を泳ぐのを見た。迷っている。ためらっていると察した。
「恥ずかしがらなくてもいいよ。何でも言って」
 重ねて告げる。鷲津が息をつく。どこか、辛そうだった。
「笑うなよ」
 そして不意に、そう言い出した。
「え? うん、笑わないよ」
「じゃあ……」
 白い喉が鳴り、隆起が艶っぽく上下する。
 その後で彼は言った。
「悪い。――テレビ、点けて」
 私にとってはかなり、意外な頼み事だった。

 鷲津の手が震えながら、ベッドから離れた位置に置かれたテレビを指差す。ソファーの真正面にある大きな画面は、今は誰もいない空間だけを薄く映し込んでいた。もう少しこっちを向いていたなら、鏡の役割も果たしてくれたのだろうけど。
 視線を鷲津に戻して、私は尋ね返した。
「どうしてテレビ? 観たい番組でもあるの?」
「いや、ない」
 彼は力なくかぶりを振る。
 それで私は首を竦めて、更に尋ねた。
「じゃあ、観ながらしたくなったとか? そういうこと?」
「馬鹿、違うよ」
「アダルトビデオを観ながらするのが好きな人もいるんだって。鷲津も、そういう人なの?」
「違うって」
 鷲津は疲れたような溜息をつく。それから目の端で私を見た。縋るような眼差しだった。
「声、聞くのが嫌なんだ」
 恥じらいを含んだ微かな響きが、そう言った。
「声?」
「……自分の声」
 意味を理解するのに少しかかった。ああ、と私が漏らすと、彼は悔しそうな顔をしてみせた。
「男の声なんて、気持ち悪いだけだろ」
「そうかな」
「そうだよ。だからテレビ点けてくれ。チャンネル、何でもいいから」
 ねだる口調で言われて、正直、心が揺らいだ。鷲津の望むようにしてあげたいと思った。
 でも――。
 別の、それとは違う熱も、私の中で湧き起こった。
「駄目」
 答えた。
 見下ろす顔が、愕然と引き攣る。
「何でだよ」
「鷲津の声、聞きたいから」
「なっ、この、変態!」
 彼は私を罵ろうとするけど、私の心は既に固まってしまった。しょうがない。諦めてもらうほかない。
 とっさに彼の両腕を押さえつけると、その頬に唇を寄せてみた。彼は顔を背ける。でも私の手は振り払わない。抵抗するのはほんの一部だけだ。
「鷲津の声を聞くのが好きなの」
 背けられた顔の横、覗く赤い耳朶を噛む。鷲津が声を零す。いい声だった。
「好きな人の声だったら、聞きたくなるのが普通じゃない?」
「……お前は、普通じゃない」
「あ、そっか。でも私は、鷲津のことが好きだよ」
 何度でも言える。首筋にキスをしながら、肋骨を撫でながら、片手だけを繋ぎながら、何度でも言った。
「好きなの。だから、鷲津のことは全部受け止めたい」
 キスの度に大仰な音を立ててみる。外国映画みたいに、わざとらしく。
「好きだから、鷲津のすることは全部、何でも覚えておきたい。そういう声だって聞きたい。隠さないで、ちゃんと教えて欲しい」
 繋いだ手のひら、彼の手は汗ばんでいる。
「鷲津を、私が一番幸せにしたい」
 昨日の痕を残した白い腹部は忙しなく呼吸を繰り返している。
「私が一番気持ちよくしてあげたい」
 キスの痕に唇を重ねていく。次々と、ゆっくりと。そうして鷲津が声を零し、身を捩るのを楽しむ。
「だから声は聞かせて。隠したりしないで。して欲しいことは正直に言って。恥ずかしいからとか、自分の声が気持ち悪いとか、そんな思いは私の前では要らないから」
 私といる時が、一番幸せだと思わせたい。
 だって私は、鷲津の為なら何でも出来るんだもの。誰よりも好きでいる、愛してゆける自信がある。たとえ、今は利用されてるだけだとしても、鷲津が必要としてくれてるのには変わりない。そうしていつか、私なしではいられないようにしたい。身も心も。
 きっと、心よりも身体の方が解き易い。それは今日までの鷲津との時間でよくわかった。だから身体の方からじっくりと、解いてあげたい。素直にしてあげたい。
「ねえ、お願い。隠そうとしないで」
 彼の胸の上、視線を向けて笑いかける。
 鷲津は苦しそうな顔をしていた。額に汗を滲ませて、眉間に深い皺を刻んで。絶え絶えの息で言ってきた。
「わかった、わかったから」
 懇願する口調でもあった。
「もうこれ以上焦らすな」
 そして今までで、一番素直な頼み事、だった。
「うん、いいよ」
 もちろん、私に異論はない。鷲津が素直になってくれたんだから、これ以上は意地の悪い気持ちにもならない。
「それとお前も脱げ。俺一人でこんな格好なんて、耐えられない」
「自分で脱いでいいの?」
 私はそう尋ねたけど、彼はもう余裕がなかったんだろう。曖昧に頷いてきた。
 だから私も、自分で服を脱ぐことにした。
 彼の為にと思って選んできた下着が、ようやく日の目を見た――その後、五分も眺めてもらえなかったけど、それはそれで、構わなかった。
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