Tiny garden

人形の夢と目覚め(2)

 鷲津の家は、二階建ての一軒家だった。
 真新しいその家の扉の前で、鷲津は鍵を取り出す。自分で鍵を開けると、ドアを大きく開いて私を招き入れてくれた。玄関では黙って靴を揃え、後に続く私に対し、二階だから、と小声で告げる。
 家の中は外と変わらないくらいに冷え込んでいた。ストッキングの足の裏、床がひんやりして感じられた。鷲津の白い靴下が階段を上がっていく。私もそれを追い駆ける。

 二階の一室に通された。
 ぱっと見て、鷲津本人の部屋だとわかる殺風景な部屋――目についたのはきれいに片付いた机と、整えられたベッドと、小型の電気ストーブ。それになぜか、カーテンの掛けられている本棚。色合いは全てモノトーンで統一されていて、冬の景色よりも寒々しく見えた。
「座れよ」
 グレーのカーペットの上、鷲津は私にそう命じた。私が従うと、すぐにストーブのスイッチを入れる。唸るようなモーター音が聞こえてくる。
「何か飲むか?」
 コートを脱ぐ彼が尋ねてきた。
「ううん、お構いなく」
 私は答え、やはり着ていたコートを脱いだ。畳んで傍らの床に置く。
「けど、寒いだろ?」
 鷲津は尚も尋ねたけど、ずっと歩いてきたせいか、それほど寒さは感じていなかった。
「平気」
「……ならいいけど」
 興味もなさそうに言った鷲津は、勉強机の椅子にコートを掛けた。鞄も机の上に置くと、私のコートと鞄を拾い上げ、同じようにする。
 その後で、鷲津も床に腰を下ろした。私の真向かいに座った。行儀のよい正座だった。だけどそわそわと落ち着きのない様子で、視線を四方へさまよわせている。なかなか、私の方を見てはくれなかった。
 私は彼の視線を引きつけようと、あえて言葉を掛けてみる。
「おうちの人、いないの?」
 途端に鷲津はびくりとして、それから低い声で答えた。
「いないよ。今日は夜まで帰らない」
 やや強めの視線が泳ぐ。まだ私には留まらない。
「じゃなきゃ、お前なんて連れてこなかった」
 やけになったように言い足され、私もそうだろうな、と思う。
 こういう時に、どんな相手でも大人の顔は見たくなかった。大人の振りかざす倫理観は、私の抱く恋心にはそぐわない。全く不要なものだ。
「それより」
 鷲津は私の肩越しに、勉強机の上に置いた、私の鞄へ視線を投げた。
「鞄の中身、見せろよ」
「え?」
 意外な言葉に少し驚く。私が瞬きをすると、苛立った声が返ってきた。
「だから、お前のことは信用してないんだって。録音なんてされてちゃ堪らないからな。確かめさせろ」
 信用がないにも程がある。吹き出しそうになるのをどうにか我慢した。
「いいけど、そんなことしてないよ。考えもつかなかった」
「うるさいな、とにかく見せろって言ってるんだ」
 有無を言わさぬ調子で急かされ、仕方なく立ち上がる。鞄を手に取り、鷲津の方に向けて開けてみせると、すぐに言われた。
「中身を空けろ」
 さすがにそれは面倒だった。だけどここで突っ撥ねて、鷲津に相手にされなくなるのも困る。信用を得ておくのも後々の為に必要だろう。そう踏んで、私は渋々鞄をひっくり返した。ざあっと音を立てて、教科書やノートやらが足元に零れ落ちた。
 鷲津はそれらを、思いのほか丁寧な手つきで拾い集めた。教科書とノートは四隅を合わせて重ねていく。床に落ちた衝撃で蓋の空いてしまったペンケースも、中身を拾って、しまってくれた。その仕種が妙に優しげで、うれしくも、妬ましくもなる。あんな手つきで私のことも、扱ってくれたらいいのだけど。
 中身を全部検めて、空っぽになった鞄まできっちりと調べ上げられた。そんな彼でも、私の財布を開ける時だけは確かめてきた。
「いいか?」
「どうぞ」
 大した額も入っていない、恥ずかしいのはそのことくらいだ。私は頷き、鷲津は財布を開けた。盗聴器もレコーダーも入っているはずがなかった。
 でも、何か別の物を見つけたようだ。不意に眉を潜めた鷲津は、それを指先でつまみ上げ、引っ張り出してきた。
 ビニールで小さく包装されたままのそれは、まだ三つ繋がっていた。鷲津の指に触れられて、ぱりっと微かな音を立てた。淡いグリーンをしたそれが何なのか、彼は知っていたようだ。思い切り動じた様子で睨まれた。
「何で、こんな物持ってるんだよ」
 私は素直に答えた。
「買ったの。昨日の帰りに、ドラッグストアで」
「嘘つけ」
「どうして嘘をつかなきゃいけないの?」
 逆に問い返すと、彼は気まずげに目を逸らした。ぼそぼそと聞こえてきた。
「だって……普通は持ち歩かないだろ、女の子は、こういうの」
「そんなことないと思うけど。女の子だって、避妊の重要性くらいは知ってるよ」
 鷲津のことは好きだけど、彼のすること全てに責任を負えるとは思っていない。念の為の備えは必要だと思う。だから私は昨日の帰り道、ドラッグストアに立ち寄った。
 確かに初めて買うものだった。たくさん種類があって迷ってしまったけれど、まずは手頃な値段のものにした。次に買う時は鷲津の意見も聞いてみようと思っていた。
「でも、説明書に目を通しても、使い方がよくわからなかったの」
 私は正直に彼へと打ち明けた。
「だから鷲津に聞いてみようと思って。鷲津は知ってる? これの使い方」
「……恥ずかしくもなくそういうこと口にするよな、お前」
 彼は真っ赤な顔になり、非難がましい目を向けてくる。私からすると恥ずかしがる必要なんて、どこにもないと思うのに。鷲津とのことに関しては、何もかも真剣でありたかった。
「大事なことじゃない?」
 そう尋ねたら、返事はなかった。
 代わりに別のことを聞かれた。
「昨日、聞いたけど」
「うん」
「お前、嘘だろ。初めてだっていうの、本当は」
 何を問われたのか理解するのに十秒かかった。
 理解した直後に吹き出してしまった。
「本当だよ。どうして疑うの?」
 問い返した私に、鷲津は小さな溜息をついてみせる。
「堂々としてるから。随分、余裕ありげにも見えるし」
「そうかな。緊張はしてるよ」
 すごくどきどきしている。好きな人と二人きり、ストーブの音以外は静かな部屋の中にいて、どきどきしない方がおかしい。
 こうして向き合っている今も、目は自然と彼の首筋や、唇へと向いてしまう。彼の顎から下、制服の襟元から覗く僅かな部分は今、ほんのりと赤らんでいる。唇は今日もかさついていた。そのどちらにも触れたい、すぐにでも。
「怖くないのか」
 ぼそりと、鷲津が言った。
「何が?」
「いや、だから……俺のことが」
「ううん、ちっとも」
 鷲津のことを怖がる理由なんてどこにもない。私はそう思うけど、私の答えが彼には不満だったようだ。あまり機嫌のよくなさそうな顔で続けてきた。
「俺、一応男なんだけど」
「知ってる」
 違っていたら困る。
「お前はそんなに強そうにも見えないし、絶対に俺の方が力はある。いざとなったら無理矢理押さえ込んでってこともあるかもしれないのに」
 それは、そうかもしれない。鷲津は男子にしては華奢だけど、それでもやっぱり私よりは腕力もあるはずだ。特に身体を鍛えたことのない私は、ほぼ確実に、彼には敵わない。
「どうして怖がらないのか、気になってしょうがない」
 彼がそう言うから、私も素直に教えてあげた。
「だって私は信じてるもの。鷲津が、そういうことする人じゃないって」
 本音では、『出来るはずがない』なのかもしれない。
 今日、こうして家まで招いてくれたことさえ予想外だった。悪ぶった台詞は言い慣れていないような彼を、恐れる理由は何もなかった。そういうところからして好きだった。
 初めてなのは、本当。だから緊張していない訳じゃない。鷲津が――恐らく私と同じように、初めてのはずの彼が、私に触れてくれたらうれしいと思う。最初のうちは痛いものだと聞いているから、過剰な期待はしていないけど。それより。
 むしろ、私に触れさせてくれたらうれしい。
 彼を。白く、透き通るような肌を。噛みつきたくなるような彼のことを、吸血鬼の気分で味わうことが出来たなら、私はそれだけでよかった。だから怖くない。一刻も早く、彼が欲しい。
「変な奴」
 鷲津が呟いた。
 今は真っ直ぐに私を見ている。その目の奥で、何かが揺らいだ。
「お前、やっぱりおかしいよ。変態か、そうでなければよっぽどの馬鹿だ。正気の沙汰じゃない」
「そういうの、自分ではよくわからないから」
 私は首を竦めておいた。狂っているのは、多分、事実だ。鷲津という存在に、私は完璧に狂わされているんだろう。
 拘束したい。その気持ちは確かにある。でも、それはやっぱりおかしいことなんだろうか。恋なんて正気でするものじゃないはず。そうでないなら、たった一人の、それも昨日までは関心もなかったようなクラスメイトに対して、こんなにも執着したくなるはずがないでしょう?
 この気持ちは紛れもなく恋だ。私はそう信じている。

 ちょうどいいタイミングで、部屋が暖かくなってきた。
 そろそろ焦れてきた私は尋ねる。
「キスしていい?」
「嫌だ」
 鷲津は即答する。私はそれを不満に思い、口を噤んだ。
「お前の好きなようにはさせない」
 言うや否や、彼は私の両肩を掴んで、ぐいと床へ押し倒した。後頭部を打たないように、すかさず鷲津の首根っこにしがみつく。そのまま喉元の隆起に口づけると、呻くような声が聞こえてきた。
「嫌だって言っただろ」
 直後、予想していたよりも優しく、私の背中は冷たい床に押し付けられた。
 制服越しにひやりと感じたのが心地よかった。
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