Tiny garden

君のものなら何でも欲しい

 白い首筋が震えて、呻き声を迸らせた。
「変態」
 鷲津が私に、そう言った。
 湯上がりみたいに火照った顔で、彼は私を見上げている。ネクタイを首からぶら下げて、シャツから伸びる首筋も、喉仏も晒したままで。床にしりもちをついてから、一向に立ち上がる気配がない。
「君みたいな女を、シキジョウマって言うんだ」
 詰るような口調で鷲津は言い、その後で唇を引き結ぶ。彼の唇はかさかさに乾いて、薄皮が剥けかけていた。水分が必要だ、と私は思う。
 それにしても、シキジョウマって。――色情魔、と漢字に変換されるのに、三秒のタイムラグがあった。生まれて初めて言われた。色情魔。ふうん。言われたところで、それが自分自身に正しく当てはまるのかどうかわからなかった。ぴんと来ない私は、けれど変態ではあるのかもしれない。少なくとも真っ当ではない。そんな自覚はあった。
 なぜかと言えば、鷲津を押し倒すような体勢でいるからだ。
 彼のスラックスの両脚、その間に割り入るように両膝をついていた。彼の上体に覆い被さるように、身体を挟んで床にも手をついている。私の、肩までの長さの髪は、もうすぐ鷲津の顔に触れそうだった。私の影は確実に、鷲津に落ちていた。この体勢から見下ろす鷲津は、影の落ちた青白い顔のせいで、やけに繊細で心許なげな少年に見えた。
 言葉以外での抵抗をしないか弱い少年。彼を拘束しようとしている私は、間違いなく不真面目だった。変態でもあるのかもしれない。
 だけどどうしても、このか弱い鷲津を拘束したかった。されたかった。
「嫌なの?」
 私の声はやけにはっきりと響いた。
 窓の開いた教室は、風の音以外は驚くほどに静かだった。お互いに黙ると、遠くから車のクラクションや鳥の鳴く声が聞こえてきて、その微かな音のせいで場違いな穏やかさに支配されていた。
 鷲津が乾いた唇を動かす。
「い……嫌に決まってるじゃないか」
 震える声でそう言った。
「誰がこんなこと、こんな、ところで、したがるって言うんだ」
 言葉に迷うような、ためらう仕種を見せている鷲津。どこか恥じらっているようにも見えて、私の心は再び打ち震えた。鷲津の、今まで見たことのない一面を目にする度に、私は強く、彼に惹きつけられていくみたいだ。
「どうせ、からかってるんだろ」
 鷲津がまた、言った。
 今度はきつい視線と共に言われた。
「他の連中と一緒になって、俺をからかって、笑ってやろうって魂胆だろ。知ってるんだぞ、お前らが俺をどう言ってるのか――」
 その台詞は継がせたくなくて、私は彼に顔を近づけた。抵抗さえされなければそのまま唇を塞ぐつもりで。
 だけど彼が、ひゅうと喉を鳴らして身を引いたので、私の企みは実行されなかった。乾いた唇が遠ざかる。彼の紅潮した顔は、まだ眼下にある。

 鷲津はあまり、評判のいいクラスメイトではなかった。
 といっても悪名が広く知れ渡っているという訳ではないし、不良だとか、素行に問題があるとか、劣等生だとか、そういうことでもなかった。
 クラスに溶け込まない存在だった。誰とも必要以上には口を利かず、顔つきにも愛想がなく、孤高の人と呼ぶのが相応しい人だった。だからと言って決して社交性が皆無だというわけでもなく、必要に駆られれば当たり障りのない、しかし棘も隠さない言葉を口にすることもあった。ちょうど、さっきのように。
 彼のようなタイプは好かれる存在ではないらしい。私のクラスの友人も、そういう風に言っていた。私も、昨日までは鷲津と言えばクラスメイトの一人で、友人たちがあれこれ言うのを否定もせずに、笑って聞き流していた。そのくらい、どうでもいい存在だった。
 でも、その彼がどうでもよくない存在になった。
 ちょうど、ついさっきだ。
 彼の物憂げな表情と白い首筋に惹きつけられた。
 怯えたような、恥じ入るような、だけど険しさも決して失っていない、少年の眼差しに射抜かれていた。

 初めてだった。こんな風に、人に惹きつけられるのは。
 初めてにもかかわらず、私はどこか冷静だった。それでいて酷く強引なまでに、彼に執着していた。今すぐにでも拘束したかった。何もかも、鷲津の全てを。
「からかってなんかいないのに」
 私の声は震えない。
 震えているのは心だけで、声はひたすら真っ直ぐに響いた。堂々としていたかったし、いられたと思う。この思いは真っ当でも、真面目でもないだろうけど、でも――本当だ。嘘じゃない。
「私、本気なの」
 そう告げると、鷲津の目がゆっくり見開かれた。ぎょっとしたように私を注視して、慎重に、熱い息を吐く。私の髪の先が震えた。
「本気……って」
「うん。本気」
「何を、言ってるんだか」
 わからない、と言いたげに首を横に振る鷲津。その後でまた、私を見つめる。今度は何かを探るようだった。私の心を、覗きたがっているようだった。
 見せてもいい。見られてもいい。私はいつでも曝け出す用意があった。初めてのことなのに、そうしたいと思った。そうすることは衝動的でもありながら、どこか理性的なふるまいにも思えた。
 鷲津が考えを巡らせるように目を伏せた。何を考えているのかはわからない。覗けるのなら覗いてみたい。たとえその胸の中、私への悪口や罵りの言葉や、冷たい気持ちがいっぱいに詰め込まれているのだとしても、知りたかった。
「久我原さん、君は」
 呼吸ごと震わせて、鷲津は言葉を続けた。吐息が熱い。身を捩りたくなる。
「君は、誰にでもこういうことをするのか」
 喘ぐようなリズムで彼が言う。
「そんな子じゃないと思っていたのに――そんな、君は、そういう子じゃ」
「ううん」
 私は待ち切れなくなって、素早く答えてしまった。
「違うよ。誰にでもじゃない。鷲津だけ」
「でも、他の奴にもそう言うんだろ」
 鷲津は精いっぱいの嘲りを込めてきた。むしろそうすることで、普段の彼らしさを保とうとしているように見えた。それはきっとただの虚勢だ。虚勢だと気付けたのは、恋愛感情ゆえだ。
 だって私は、鷲津に惹かれているのだから。
「他の奴って誰?」
 問い返したら何だか笑えてきた。おかしかった。今まで、いちクラスメイトの私を真面目な子だと捉えていたくせに、一息に飛び越えて変態だの、色情魔だの、他の奴にも同じことを言うだのと。鷲津の中で私の印象が変貌を遂げていくのが面白くて堪らない。
「笑うな」
 咎める声が上がったので、私は笑うのを止めた。でもおかしい気持ちは変わらずに、明るく言ってみた。
「本当に鷲津だけなのに」
「まだ言うのか。そんなこと、こんな風にされて、信じられるはずがないよ」
「本当だってば。私、初めてなんだもの」
 初めて。
 様々な意味で、何もかもが初めてだった。
 そう口にした時、鷲津が身体をびくりと震わせた。何か気まずそうな顔をして、それでもまだ疑わしげに言い返してくる。
「嘘つけ」
「嘘じゃない。私、こんな風に人に惹かれたこと、なかった」
 なかった。本当に。
 今までにしてきた恋は偽物なんじゃないか。そう思うくらい鮮烈で、激しい感情だった。それでいてやけに冷静でもいられた。当たり前のようにただ思った。――鷲津が欲しい。拘束したい。されてしまいたい。お互いに。
 拘束したい。その為になら何でも出来る気がしていた。例えば今みたいに、手を伸ばして、彼の白い首筋を指先でなぞることとか。
「や、止め……」
 鷲津の喉が鳴る。隆起が上下する。噛みつきたくなるような、白い、白い、その部分。
 他人に初めてすることも、容易く出来た。鷲津にはそうしたいと思った。
「初めてなの」
 私は指先を、彼の顎まで運んだ。それでまた鷲津がびくりとしたけど、気付かないふりをしておいた。
「一目見ただけでその人に、強く惹きつけられたのも。その人を拘束して、自分のものにしたいと思ったのも。その人に拘束されて、ずっと傍にいられるようになりたいと思ったのも」
 顎の上は、唇。下唇。かさかさしたそこは、吹き込む風のせいか色が悪い。色づけてあげたい、と思う。そして水分をあげたい、と思う。
「鷲津の全てが欲しい、と思ったのも。――鷲津のものなら何でも欲しい、と思ったのも、初めて。今日が、今が初めて」
 上唇の中央はほんの少し尖っていた。指先が触れると、鷲津はまた身体を震わせた。目尻に涙が滲んでいる。仕種の一つ一つがいとおしかった。

 鷲津のものなら、何でも欲しい。
 何でもいい。全て欲しい。
 冷たい視線も、怯えの色も、恥じらいも。侮蔑、嘲り、罵りの言葉も。赤らむ頬も白い首筋も震える身体も。吐息も涙も、何もかも全て。彼に向けられる悪評も、彼の存在そのものも、全て私のものにしたかった。
 そう思うのも恋だ。きっと。変態じみていても。真面目ではなくても。
 鷲津を私のものにする代わりに、私は鷲津のものになりたかった。鷲津の為なら何もかも捧げる気でいた。ただ一つだけ、卒業を迎えても離れずにいられること。それさえ保証されれば後は何も要らなかった。

「私にちょうだい」
 再び顔を寄せても、今度は鷲津は、逃げなかった。もうすぐ背が床につきそうで、単に逃げられなかっただけかもしれない。ただ、瞬きをしない瞳が私を見つめていた。
「鷲津をちょうだい。拘束させて。卒業しても、一緒にいられるようにさせて。そうしたら――」
 至近距離、吐息が混ざり合う。
 どちらのものかわからない熱が、唇に触れてきた。吸血鬼の気分で口づけたくなる距離だった。
「鷲津にも、私をあげる。何もかもあげる」
 でも、キスはしなかった。
 ほんの少し身動ぎをすればすぐに触れ合う近さで、私は彼の答えを待った。
 彼が目を閉じるのを、焦れる思いで待っていた。

 二人きりの教室は静かだった。
 風の音と、外の音しかしない。新鮮な空気が入り込んでくる室内は、なのに次第に濃密になっていく何かに満ち満ちていた。ふつふつと煮詰められていくように、私たちの間にある『何か』が質を変えていく。色づいていく。
 硬く、冷たい教室の床が、だんだんと温くなっていくようだった。私たちの体温で溶けてしまうかもしれない。普段は同じ制服の人間ばかりが詰め込まれている教室が、柔らかく溶けて、私たちを包んで、尚もどろどろに溶けてしまうかもしれない。
 目の前に美味しそうな唇がある。乾いて、かさついていて、皮の剥けかけた、色の悪い唇がある。そのくせ頬は赤々としている。首筋は白い。美味しそうだった。
 それでも私は待った。待ち続けた。焦れながらも待っていることが出来た。不安はなかった。期待はあった。欲求もあった。鷲津のことが好きだった。
 そう思うのは恋だ。
 恋じゃなければ、一体何だと言うんだろう。

 結局、鷲津は、目を閉じなかった。
 ごく薄く目を開けたまま、ほんの少し身動ぎをしてきた。

「……本当、に?」
 乾いた唇を離して、彼が尋ねてくる。
「本当に、君をくれるのか」
「うん」
 私は頷く。迷わず、強く。
 それで彼は瞳に、鋭い光を宿らせた。けれど平静を装うように、口ぶりは淡々と続けた。
「飽きたらすぐに放り出すぞ」
 震える声で虚勢を張っていた。
「俺は、拘束されるのは嫌いなんだ。面倒になったら振ってやる。それでもいいなら」
「させないから、そんなこと」
 根拠もなく、私は言い切る。
 でも本当にさせないつもりだった。飽きさせないし、振らせない。拘束し続ける。この気持ちが胸にあるうちは絶対に、永遠に。
 鷲津は遮られて不満げだった。かさかさの唇が尖り気味に動いた。
「どうだか。そうやって言われること自体、気分が悪い」
 私との関係においては主導権を取りたいようだった。察した私は、逆に意地悪をしたくなる。ちょうど、まだ、至近距離にいた。少し身動ぎをすれば唇の触れ合う近さにいた。
「ねえ、鷲津」
「何だよ」
「キスしていい?」
 尋ねた途端、虚勢を張ろうとしていた鷲津の表情が崩れた。うっと詰まるのも聞こえた。
 その後で、
「さっきは聞かなかったじゃないか」
 責める口調で言われたから、言い返してやる。
「さっきは、鷲津がしてきたんでしょう」
「違う、あれは――あれじゃなくて、その前だ。首に、してきた時は」
「唇にしたいから聞いてるの」
 これは、嘘かもしれない。しようと思えばいくらでも出来た。さっきだってそう。
 だけどあえてしなかったのは、鷲津の答えを聞きたいからだ。
 虚勢でも何でもない、本当の答えが聞きたかった。
 鷲津はしばらく私を見ていた。狼狽がありありとうかがえる眼差しが、忙しなく動いて私を観察していた。そうして何かを思ったのだろう、繊細な少年の顔で答えた。
「……今更だ。好きに、すればいい」
 本当の答えは、虚勢の裏に見つかった。
 だから私はほんの少し身動ぎをして、吸血鬼の気分で彼の唇を味わうことにした。

 冬の風の音がする教室は、着実に温度を下げていく。
 けれど私は寒くなかった。そんな感覚も放り出して、違うことに夢中になっていた。
 欲しいものを手に入れたから。
 ――この先、何でも手に入れられるとわかったから。
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