Tiny garden

ネクタイと拘束

「……疲れた」
 鷲津が呟いて、深く息をつく。それから、ゆっくりネクタイを緩め始めた。
 その仕種を、ドアの隙間から見かけて、はっとした。とっさに目を逸らせない。彼の筋張った指が制服のネクタイを解き、襟元からするりと外していく。
 静かな放課後の教室には衣擦れの音が溶け込んだ。ひとさじ分の砂糖のように、溶けていく、甘い音。
 彼の指はカッターシャツのボタンに掛かり、慎重に、一つだけ外す。白い首筋と隆起する喉仏が覗き、私はそっと息を呑む。吸血鬼の気分になってしまう――噛み付きたくなるような首筋がそこにある。
 ほとんど口も利いたことのないクラスメイトの、隙だらけの一瞬。私の足は動かない。思わずじっと見入ってしまう。

 クラスの友人たちの、鷲津に対する評価は辛い。彼のような男子は好かれるタイプではないそうだ。クラスに溶け込まない彼を、容赦なく風変わりだと評する。
 私自身もこの瞬間まで、鷲津のことを気に留めもしなかった。鷲津は男子生徒なのに透けるように色が白く、華奢と呼んでも差し支えないほど痩せぎすだ。その痩せた身体にきりりと結んだ赤いネクタイと、決して着崩されることのない制服が、彼の余裕のなさ、面白みのなさをわかり易く表していた。いつも遠くを見ている眼差しと、全てのことに興味がなさそうな表情の鷲津。愛想はなく、隙もない。同じクラスになって一年、私は彼と必要以上に言葉を交わさなかったし、特に交わしたいとも思わなかった。それどころか、彼が他のクラスメイトと口を利く姿をあまり見かけなかったような気がする。
 だけど今、彼が一人きりの教室で見せた、どこか物憂げな表情は衝撃的だった。鮮烈に、私の頭に焼き付いた。肌の白さも眩しかった。彼が制服のネクタイを外し、ボタンを外して、安堵の息をつく一連の動作から目を逸らせなかった。解き放たれたような顔つきに、ほんの僅か隙が生じた瞬間、私の胸は震えた。この感覚、一体何と言うのだろう。
 いつも遠くへ向けられている眼差しは、曖昧なようでその実鋭い。彼が見ているものの貴さと、そこまでの距離の遠さとを窺わせた。

 鷲津の様子を観察しながら、私は誘われるようにふらふら、教室に近づいた。
 中途半端に開いたドアの向こう、曇り空からの鈍い光を浴びた鷲津が、はっとこちらを振り返る。目を瞠ったのは一瞬、すぐに隙のない微笑が浮かんだ。
「久我原さん」
 彼は私をクラスメイトらしく呼んだ。私は表情の取り方に迷い、はにかみながら応じる。
「鷲津、まだ帰ってなかったんだね」
「まあね」
 鷲津は顎を引く。ボタンの外れた襟が揺れ、白い首筋がちらついた。
 外されたネクタイを握り締め、彼は呟くように続ける。
「少し、休憩してから帰ろうと思って」
「ふうん」
 私は短く相槌を打ち、それから教室の中へと身を滑り込ませた。
 おずおず、慎重に歩み寄っていく私を、鷲津は拒まない。窓際に立ったままでこちらを見ている。柔らかい表情。
 次の言葉に私は迷った。数えるほどしか口を利いたことのない相手だったから、適当な話題も思いつかない。考えて、考えて、当たり障りのない話を選んだ。
「ネクタイって、窮屈そうに見えるね」
「窮屈だよ」
 即座に肯定して、鷲津はおもむろに窓を開ける。ごう、と音を立てて晩冬の風が入ってきた。
 放課後の教室。私たちの他には誰もおらず、冷たい風が吹き込んでも文句を言う人はいない。私も言わない、鷲津のすることに、黙って歩み寄るだけだ。
 窓の外には雪解けを迎えた町並みが広がる。遠くにそびえる山の端々にだけ白が残った、憂鬱な季節だった。
 景色を見遣り、目を細める鷲津。
「ネクタイっていうのは、つまりコウソクの象徴なんだ」
 彼の口から、不意にそんな文句が零れた。
「こうそく?」
 おうむ返しに尋ねる私。
「俺たちは縛られている。窮屈な制服に、狭い教室に、息苦しい学校の中に」
 鷲津がそう言ったので、先の言葉は『拘束』なのだとわかった。
 ――拘束、こうそく。そのフレーズを口の中で転がしてみる。ネクタイは拘束の象徴。ふうん。そんなものだろうか。
「窮屈なんだ。制服も、教室も、何もかも」
 眼差しと同様に鋭い声が放たれた。鷲津らしい余裕のなさと、面白みのなさを併せ持つ口調だった。着崩されないきりりとした物言い。
「久我原さん。君は、そうは思わない?」
「私?」
 水を向けられて、私はすぐに答えられない。ここが窮屈だなんて思いもしなかった。答える言葉もなく、彼の傍らから、風の吹き抜けていく教室を眺めていた。
 いつも同じ、机と椅子が居並ぶ教室の光景。さっきまでここに詰め込まれていたのは、鷲津と同じようにシャツのボタンを上まで留め、ネクタイを締めたクラスメイトたち。閉ざされた窓が解き放たれると、室内は冷たく、清浄な空気で満たされた。
 鷲津は、晴れ晴れとした表情で外を眺めている。
「俺たちはここで拘束されているんだ。同じように揃えた制服を着て、狭い教室に閉じ込められて。それを窮屈だと思って当然じゃないか」
 彼は言い、解いたネクタイを乗せた、自らの手に視線を落とす。
「早く自由になりたい。こんなところ、早く出て行きたい」
 鷲津の口ぶりは冷たく乾いていて、それでいながら清浄だった。まるでこの季節の風と同じだ。
 窓の外には灰色の景色が広がっている。晩冬の空の雲間を割って、微かに陽が差し込んでくる。果てしなく遠い空までの距離。果てしなく広い、外の景色。
「春が来れば、ようやく自由になれる。卒業式が待ち遠しいよ」
 視線を上げた彼が笑う。白い首筋に目を奪われ、上下する隆起に惹き付けられる。
 そう、私たちに残された時間は少なかった。鷲津がネクタイに、制服に、教室に拘束されているのもあと僅かのこと。私たちはもうじき卒業し、この高校から羽ばたいていく。解き放たれた鷲津はどこへ行くのだろう。鋭い眼差しの向く方へ、遠く遠くへ行ってしまうのだろうか。私の目に留めることも出来ないくらい、遠くへ。
 鷲津は窮屈だと言った。ネクタイが、制服が、この場所が。では彼にとって窮屈でない場所はどこだろう。そこでは鷲津は今のように晴れ晴れと生きていられるのかもしれない。鷲津がそこへ行ってしまったら、私はもう、鷲津に惹き付けられることもない。彼に、震えてしまうほど心を動かされたのに、そんなのは、そんなのは寂しい。
 何と呼ぶのだろう、この感覚。初めて目にした彼の隙に、いつもと違う表情に、堪らなく惹き付けられて胸が震えるこの感覚。失いたくない。大切にしたい。しまい込んで、どこかへ閉じ込めておきたい。
「――久我原さんは、違うんだろうな」
 ふと、鷲津が呟いた。私を見て、少し笑う。
「すごく、真面目そうだもんな。窮屈だなんて考えたこともなさそうだ。そうだろ?」
 真面目そう、という言い方に僅かな棘を感じ取る。実際、私はここで窮屈さを覚えたことなんてあまりなかった。でも鷲津の気持ちに同調出来ないことにいくらかの切なさは覚えた。同じ気持ちでいられたらいいのに、あいにくとそうはなれなかった。
「早く卒業したい、なんて思うこともないだろ?」
 その言葉には頷いた。卒業なんてしたくない。今は特に、思う。
「いいよな。拘束されてることにも気付かないでいられる人は。君みたいな人は自分の身の不幸にも気付かずににこにこしてるのがお似合いだよ」
 鷲津は余裕のない、張り詰めた笑い方をした。シャツの襟から覗く首筋が、白く、美味しそうに見えた。赤いネクタイは彼の手に握られている。
「とにかく俺は、一刻も早く、ここを出たくて堪らない。こんな窮屈な場所、まともな人間のいていいところじゃない」
 蔑むようにも、ただただ清浄にも見える鷲津の笑み。それは私を突き放そうとしていた。心中を明かしても尚、溶け込むことのない彼は、私を通り越してずっと遠くを見ている。
 拘束。その言葉が私の頭で、胸で、たちまち満たされていく。

 やがて、私はかぶりを振った。
「私、それほど真面目じゃないよ」
 こちらからも明かしてみる。今の、私の胸の内。
「そう? いかにも真面目そうな、おとなしい優等生に見えてたけど」
 鷲津が言うから、首を竦めた。真面目じゃない。ちっとも真剣じゃない。少なくとも、鷲津が明かす心中を聞いていながら、その首筋の白さに喉を鳴らしているくらい真面目じゃない。
「それにね」
 一歩、近づく。
 鷲津は動かない。僅か一メートル先で、今は訝しげに私を見ている。
「拘束って言葉も、多分、嫌いじゃないの」
 拘束、こうそく。口の中で転がすとほのかに甘い味がした。
「ううん、むしろ私、結構好きかも。拘束するのも、されるのも」
 だから拘束したい。拘束、されたい。
 窮屈な思いに苦しむ彼が解き放たれた瞬間、その時の表情にこんなにも惹き付けられていながら、私は彼を拘束したがっている。彼に拘束されたがっている。
 ネクタイは拘束の象徴だ。それがあれば、私にも彼を繋ぎ止めることが叶うだろうか――彼の掌中にあるネクタイに目を向けて、私は術を模索する。残りの時間は僅かばかり。時が来れば私たちは拘束を解かれ、教室を、学校を飛び出していくこととなる。鷲津は遠くへと飛び立ち、自由に振る舞おうとするだろう。眼差しはより遠くを見つめ、こちらを顧みることは最早なくなるだろう。広い世界へ飛び出していくその前に、拘束したい。されてしまいたい。
「は? 何言ってんだ、久我原さん……」
 戸惑う鷲津の手から、するりとネクタイを掠め取る。そのまま彼の首に掛けて、ぐるり、一周させてみた。赤いネクタイは彼の首から伸びて、私の手の中にある。
 距離を詰めると、鷲津の白い首筋が近づいた。ごくりと喉が鳴るのも聞こえた。私は吸血鬼の気分を蘇らせて、そこに触れるだけのキスをする。
「今日から鷲津のこと、拘束したい」
 私はその甘い言葉を、そっと彼に捧げた。

 次の瞬間、私の手からはネクタイが逃げた。
 鷲津が尻餅をついたからだ。
「ほら、真面目じゃなかったでしょう」
 駄目押しでそう尋ねると、真っ赤な顔をした鷲津がぱくぱくと口を動かす。そこからはもう、棘のある言葉も冷たい声も、何も聞こえてこない。
 鷲津と、首からぶら下がったネクタイとを見下ろしながら、私は不真面目な心で思う。――こういうのも、一目惚れって呼んでいいんだろうか。もし構わないなら、私はその恋心によって、鷲津を拘束したいと望む。
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