Tiny garden

Find out.

 ――あ、今朝もいる。
 乗る駅が同じだからか、ほぼ毎日のように見かける。そのせいで顔をすっかり覚えてしまった。
 女の子の二人連れ、新卒社会人なのは見ただけでわかる。まだ真新しいリクルートスーツと清潔感第一のヘアスタイル、控えめなメイクを施した少し硬い表情。満員電車にも慣れていないのか、吊革に掴まる手つきは二人揃ってぎこちない。もしかすると上京したてなのかもしれない。
 二人はとても仲がいいようで、混み合う朝の電車内で言葉を交わしている。
「ようやく四月も終わるね」
「終わるねえ。桜ちゃんはもう慣れた?」
「全然だよ……涼葉ちゃんは?」
「私も全然。同期の顔と名前一致しないよ」
 特に大きな声というわけでもないのに、これも覚えてしまったからだろう。二人の会話を耳が自然と拾うようになっていた。盗み聞きをしているようで気が引けるが、同時にこの二人に対して応援したい気持ちを感じ始めていた。

 教職に就いて四年、社会に出る教え子たちを見送ったこともある。
 四月のうちはまだ子供にしか見えない彼らが、一年の間に目覚ましく成長して大人の顔になる。それを見守るのが楽しく、幸せな仕事である反面、卒業してからの足取りを知る機会が少ないことに寂しさも感じていた。
 卒業していったあの子たちは、今頃どうしているだろう。
 新生活にはもう慣れて、楽しく過ごせているだろうか。
 卒業後に母校を訪ねてきては元気な顔を見せてくれる子たちもいる。だがそれもほんの一握りで、教え子たちのその後を知る機会はなかなかない。地元を離れる子も少なくなく、日々の合間にふとそれぞれの顔を思い出してしまうこともある。
 もちろん未来ある彼らからすれば、高校生活は過去に過ぎず、振り返る暇もないというのが現状だろう。
 まさに便りのないのはよい便り。新生活が素晴らしいものだという何よりの証左なのかもしれない。

 そんな折に出会ったのが彼女たちだ。
 その姿に教え子たちの面影を重ね、気にかけてしまうのも仕方のないことだと思えた。

 新宿行き快速急行が代々木上原に差しかかると、二人は少しそわそわし始める。
 彼女たちは違う職場に勤めているらしく、一人は代々木上原まで、もう一人は新宿まで通っているようだ。話したこともないのに知っていた。
 電車が代々木上原の駅で停まると、一人が軽く手を挙げる。
「じゃあまた明日ね、桜ちゃん」
「うん、頑張ってね涼葉ちゃん」
 もう一人を車内に残したまま降りていき、彼女はそのままホームの人混みに呑み込まれていった。
 そして切り離されるようにドアが閉まる。
 残された女の子は吊革を掴んだまま、寂しそうに俯いた。
 いつもそうだった。友達といる時は明るく話をしているものの、こうして代々木上原で一人きりになると、まるで萎れたように暗い表情になる。新宿までの一駅の時間すら孤独ならば耐えがたい、というように。
 見ている方は気になってしょうがなかった。全く無関係の、同じ電車に乗り合わせる程度の縁ではあるが、やはり他人事とは思えない。
 あの教え子たちも、どこかでこんな顔をしていないだろうか。
 彼女の――『桜さん』の寂しげな姿を見る度に思っていた。

 五月に入り、彼女に声を掛けたのも同じ理由からだ。
 厳密に言えば、満員電車で押しつぶされそうになっていた彼女を助けようとしただけで、話しかけたというほどでもない。ただいつものように友達と別れた彼女がすし詰めの車内で押され、転びかけたのを見た時、黙って見ていることはできなかった。
 教え子たちの誰かがこんな目に遭った時、救いの手を差し伸べてくれる人がいたらいい。
 そう思った。

「わっ……」
 押されて足をもつれさせた彼女の肘を掴み、こちら側に引き寄せる。
 幸い、立っていたドア前には一人くらいなら滑り込めるだけの余裕があった。彼女を人波から引き抜くように連れ出して、バランスが取れたのを見計らったところで手を離す。
「ちゃんと立ってないと危ないよ」
 そう告げると、彼女は慌てたように頭を下げてきた。
「す、すみません」
 それから勢いよく面を上げる。
 思えばこの時、初めて彼女の顔を正面から捉えた。いつもはせいぜい横目に伺う程度で、言ってしまえば二人連れのどちらが『桜さん』かさえ確かめてはいなかった。
 意外なことに、見た目はそれほど幼くなかった。確実に成人しているであろう顔立ちにはうっすらとメイクが施され、ブラウンがかった長い睫毛が優しそうな瞳を縁取っていた。表情はやや不安げだがそれは見知らぬ男にいきなり肘を掴まれたからで、それでも臆することなく、状況を把握しようとこちらを真っすぐ見上げている。
「謝らなくていいけど。俺もごめん、急に引っ張って」
 ひとまずこちらも突然の無礼を詫びた。
 それから混み合う車内を見回し、彼女が入れるスペースがここしかないことを確かめる。
「もうすぐ着くし、ここにいなさい。安全だから」
「はい」
 彼女は素直に応じてくれた。
 だがすぐ傍に知らない人間がいて、目のやり場に困っているのだろう。しばらく視線を泳がせた後、目を伏せてしまった。それでもこの場を動かず、じっとしていた。
 こちらもすぐ目の前に立たせた以上、じろじろと見ているわけにもいかない。乗り慣れた路線の車内案内表示を眺めて過ごした。
 新宿までの七分弱の時間が、この時ほど長く感じたこともなかった。

 終点の新宿駅に電車が停まり、開いたドアからどっと人が溢れだす。
 押し流されないようにしながら電車を降りると、ちょうど彼女もホームへ降り立ったところだった。
 こちらを見た彼女と目が合い、挨拶をしておこうかと思った時だ。
「あのっ、ありがとうございました!」
 彼女の方が、声を張り上げた。
 いかにもフレッシャーらしい元気のいいお礼に、ホームを歩き出す人々がぱらぱらと振り返る。
 しかし彼女はあまり気にしていないようで、はにかんでこちらを見ている。友達と別れた後の暗さはどこにも見当たらず、明るく優しい表情だった。彼女本来の性格がそのままうかがえるような。
 その顔を目の当たりにした時、いいことをしたなと、心からそう思えた。
 それでこちらも笑い返した。
「気をつけて。お仕事、頑張ってね」
 彼女に向けてというよりは、大勢に向けての言葉だ。
 社会に出た教え子たちみんなに、寂しい思いや心細さを感じて欲しくなかった。
 それから踵を返すと、背後で彼女の返事が聞こえた。
「――あ、は、はいっ」
 緊張したようなその声はやはり新入社員らしくて、見えないようにこっそり笑ってしまった。
 初めて話した『桜さん』は、素直ないい子のようだった。

 同じ路線で通勤している以上、彼女とはまた接する機会もあるだろうとは思っていた。
 だがすぐ翌朝、声を掛けられるとは思わなかった。

 最寄駅のホームでいつもの電車を待っていると、人混みの向こうに彼女の姿を見つけた。
 いつもならこの駅で友達と落ち合っているはずだが、今日は一人のようだった。目が合うと彼女も気付いたようで、慌ただしくこちらへ近づいてきた。人波をすり抜けるように駆け足でやってきて、目の前まで辿り着いたところで頭を下げられた。
「昨日は、ありがとうございました!」
 そういうふうに見えてはいたが、真面目で律義な子のようだ。
 感心しつつ、こちらも応じる。
「どういたしまして。大したことはしてないけど」
「そんなことないです! 助けていただいて、本当に嬉しかったです」
 そう言って、彼女はもう一度ていねいに頭を下げた。
 手助けができたことはうれしいものの、このままでは永遠にお礼を言われてしまいそうだ。急いで押しとどめた。
「いいよ、お礼言われるようなことじゃないし」
「そんなことないですったら」
「律儀な子だね、君」
 これは教え子たちにも見習ってほしい美点だ。
 感心していれば、彼女はお辞儀をやめて顔を上げた。
 その顔をよく見るのはこれで二度目だった。日を改めてもやはり、思ったより幼くない――いや、歳相応に大人びているというべきだろう。優しそうな顔立ちにうっすらと施された化粧、特にコーラルピンクの口紅がよく似合っていた。
「あの……」
 彼女はその唇を動かし、何か続けようとしたようだ。
 だが言葉が詰まってしまったのか、しばらく何も言わなかった。

 にわかに疑問が頭をもたげた。
 彼女はいくつくらいなんだろう。
 彼女たちに教え子たちを重ねてはきたが、こうして見るとそれほど幼くはない。それどころかむしろ、自分の方が歳が近いようにさえ見えた。
 大卒新人だとすれば、二十二、三といったところか。それなら三つ四つしか違わないのに、少し失礼な印象を持ってしまったかな。
 考えを改め、こちらから話を切りだした。

「今日は、一人? お友達と一緒じゃないんだ?」
 水を向けると、彼女はかなり驚いたようだ。優しそうな瞳を丸くしていた。
「ごめん。この駅でよく見かけてたから」
 怪しい人間だと思われては困るので、弁解のつもりで続ける。
「乗る駅も同じ、降りる駅も同じだからね。何となく顔覚えてたよ」
「そ、そうだったんですか」
 彼女は納得したのかどうか、まだ硬い口調で答えた。
「今日は一人です、友達は早出で」
 その言葉に、こちらが不安に駆られた。
 代々木上原で友達が降りてから、新宿に着くまでの七分間でさえあんなに寂しそうにしている彼女だ。ここから新宿までの距離をひとりぼっちで過ごすのは、更に耐えがたいのではないだろうか。
 ずっと盗み聞き、盗み見していたようなものだから、こちらが心配するのもおかしな話かもしれない。
 ただ顔を覚えていることを怪しまれたくないのもあり、結局は正直に告げた。
「いつも、お友達が降りた後で心細そうにしてたね」
「え!?」
 彼女は一層びっくりした様子で、声を裏返らせている。
 それもやむを得ないことだろう。最寄駅と通勤路線が同じというだけの人間にそんな指摘をされて、驚かない方がおかしい。
「お友達と一緒の時は楽しそうにしてるのに、一人の時は何だか不安そうだった。それでかな、顔を覚えてたのは」
 だからなるべく淡々と、あまり同情めいた色は出さずに打ち明けた。
 すると彼女は恥ずかしそうに肩をすぼめた。
「すみません、まだ上京したてで慣れてなくて……不安だらけだったんです」
「ああ、そういうものなんだろうな」
 そうだと思った。二人揃って、ここが地元という雰囲気には見えなかった。

 ますます応援したくなる。学校を離れ社会に出るというだけでも大変なのに、知らない土地に出てきて仲のいい友達とも離れ、彼女はたったひとりで頑張っているのだろう。寂しさに駆られることはあっても毎朝きちんと新宿まで通う、彼女のひたむきさに感心させられる。
 それを当たり前だと言ってしまうのはたやすいことだろう。
 だがその『当たり前』がひどく難しい時もあるのだ。

「でも話してみたら意外と元気な子で、ほっとしたよ」
 励ますつもりで言った。
 もちろん嘘はない。こうして話せて、彼女が心細さだけを抱えているわけではないことに安堵していた。
「あ、こんなこと言っといて何だけど、ストーカーとかじゃないからね」
 そうも言い添えると、むしろ彼女の方がうろたえていたようだ。
「そ、そんなふうには思ってないです」
 どうかな。実際は大差ないのかもしれない。
 縁もゆかりもない相手を、ただ教え子たちに重なるという理由だけで気にかけてきたことは事実だ。
 そんな動機付けでここまで相手に近づくのは不躾すぎるかもしれない。そうは思いつつも、昨日のあの時、彼女を放っておくことはできなかった。もう一度同じ状況になったとしても、必ず手を差し伸べただろうと確信できる。
「たまたまなんだ、顔覚えてたの。君の寂しそうな顔見かけたから」
 自分で言って弁解を重ねているだけにも思えたが、彼女はそこで微笑んだ。 
「ありがとうございます。今後はなるべく顔に出さないようにします!」
 元気のいい返事に、うれしそうな顔がついてきた。
 意気込みはいいが早速顔に出ている。どうも彼女はわかりやすいタイプのようだ。それがおかしくて、つい笑ってしまった。
「それでもいいけど、君は顔に出る子だよ。抱え込まない方がいい」
 アドバイスを贈った直後、新宿行きの快速急行が駅に滑り込んでくるのが見えた。
 挨拶代わりに軽く手を挙げると、彼女は黙ったままゆっくりとまばたきをする。ブラウンがかった長い睫毛が影のように目元で揺れて、その時、改めて思った。

 教え子たちと重ねるなんて、彼女に失礼だ。
 彼女はそれほど幼くはない。教え子たちよりもずっと年上で、子供ではないのだとわかっている。
 むしろ近いというなら、彼女に近いのは――俺の方だ。

 大学を出て、教職に就いてから四年。
 彼女の心境を遠い昔話だと思うのはまだ早い。
 ずっと忘れていたのかもしれない。あの頃の気持ち、自分が社会に出たばかりの話。子供たちと接する仕事をしているうちに、自分はずいぶんと大人になった気でいたが、俺だってまだほんの若造だった。
 彼女は俺に近いところにいる。
 重ねて見るべきなのは、俺の方だった。

 気付くと急に、当初の動機付けにさえ自信がなくなった。
 もしかすると彼女を案じていたのは、昨日、どうしても助けたくなった理由は――。

 曖昧な予感は一月もたたないうちに確信に変わった。
 俺は桜さんを見かける度に混雑から守るようになり、それから二人で話す機会ができた。朝の通勤時間を合わせるようになり、休日を一緒に過ごすようにもなった。
 もうじき夏休みが来る。お互い仕事が休みに入ったら、どこかへ出かけようと計画を立てている。
「実は私、箱根って行ったことないんです」
 桜さんは明るく、優しい笑顔でそう言った。
「下り電車っていつも帰りにしか乗ったことないので、行きに乗るのも面白いかなって。どうですか?」
「俺も夏の箱根は初めてだな。行ってみようか」
 箱根と言えば昔から避暑地で有名なところだ。観光客気分でのんびり散策するにはもってこいだろう。ロープウェイに芦ノ湖に、何なら温泉だってある。
 彼女と、そういうところに出かけていくような間柄になっていた、そのことに自分でも驚いている。気が付けば彼女は俺にとって、片時も目が離せないほど大きな存在へと変わっていた。もともとはただ最寄駅が同じだけという関わりしかなかったのに。
 だが、この気持ちの始まりがいつだったかと考えた時――もしかすると、俺が自覚しているよりもずっと前のことなのかもしれない。
「……にこにこして、どうかしたんですか?」
 俺の顔を見た桜さんが、怪訝そうにまばたきをする。
 ブラウンがかった長い睫毛が彼女の目元に、今日も大人びた影を落としていた。
 以前のように一瞬見惚れた後、俺は正直に答えた。
「ただの思い出し笑いだよ」
「すごく楽しそうに見えます」
「だろうね。桜さんと出会った頃のことを思い出してた」
 途端に彼女は恥ずかしそうに肩をすぼめた。あの頃、まだ余裕のなかった春先の記憶は、彼女にとってまだ居心地の悪いものなのかもしれない。
 それでもすぐに気を取り直したようだ。彼女らしい律義さでこう言った。
「あの時、桐梧さんに助けてもらったこと。私、一生忘れません」

 俺の気持ちも彼女と一緒だ。
 あの時、彼女を助けたいと思った、あの思いを忘れることは生涯ない。
 振り返ってみれば不思議な縁だ。最寄駅が同じでなければ、彼女の存在に気付いていなければ、彼女を助けたいと思っていなければ――今、こうして共に過ごすこともなかった。
 君を見つけられて、本当によかった。
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