Tiny garden

変わるものなのです

「夏休みって短いよなあ」
 九月の空に向かって、金子はやぶからぼうに言い出した。
「な、遠野もそう思うよな?」
「俺?」
 水を向けられた俺は、悩まずに答える。
「長いくらいだったけどな」
「何でだよ」
 途端にしかめっつらになった金子。隣に立つ俺を睨んで、屋上のフェンスをがしゃがしゃ揺らした。
 こんなやり取りを前にもしたような気がするなと、ふと思う。

 暑い日だった。
 夏休みが終わってしまおうと、暦の上では秋だろうと、気温まで急に切り替わる訳では決してなかった。この屋上には全くと言っていいほど風が来ない。それどころか直射日光をもろに食らっている。九月の陽射しもやはり眩暈がするほどだった。
 見ろせば、干からびた校庭にも遠くの景色へ続く道にも、制服姿の生徒がぞろぞろ歩いていた。始業式の後に居残る物好きなんてそうそういない訳で、下校する人波の速さは、まるで夏休みを名残惜しんでいるみたいだった。
 そしてここにも、終わった夏休みに思いを馳せている奴が一人。
「もう一ヶ月はないと物足りないだろ!」
 気を吐く金子はよく日に焼けていた。見た目だけなら十分に夏を楽しんだいるようだった。それでもまだ足りないと言うんだろうか。
「まだプールにも遊園地にも行ってないんだぞ。もうこの夏の俺は忙しくて忙しくてしょうがなかったからな!」
「なら、何してたんだよ金子」
「そりゃあ海に行ったり山に行ったり徹夜でゲームやり倒したりで大忙しだ!」
 十分遊んでるじゃないか。
 俺が思わず溜息をつけば、ふんと鼻を鳴らした金子が、
「それに、誰かさんたちのキューピッドとしてもよく働いたからな。海も山も行く暇なんてなかったっつーの」
「ああ、うん」
 いろいろあった後だけに、その話をするのは若干照れる。金子にも見抜かれたのか、しかめっつらが不意ににやりとした。フェンスに寄り掛かりながら指摘された。
「日下部から大筋は聞いたぞ。上手く行ったんだってな」
 俺は曖昧に頷く。夏休みの終わりに日下部さんとサイクリングデートをした、あの時のことをまだ金子には話していなかった。とてもじゃないけど恥ずかしくて言えやしない。でも、こうしてストレートに切り出された以上、質問にはある程度答えなくちゃいけないだろう。
 屋上に連れ込んだのだって、きっとそういう目的だからだ――始業式の後、日下部さんに会いたくてA組の教室へ向かった俺は、彼女に出会うよりも先に金子に発見され、とっ捕まった。奴が言うには、日下部さんは職員室へ行ったらしく、用が済んだら屋上で落ち合う約束をしているとのことだ。
 ちらと振り返る。屋上と校舎を繋ぐ非常階段。その重たいドアはまだ開けられる気配もない。
「あいつならしばらく来ないって。購買でコピー機使ってるから」
 俺の視線の意味を察してか、金子が笑い声で言う。奴へと視線を戻せば冷やかすような笑顔が目に入る。
「早く会いたいか?」
「ちょっと待つくらい、どうってことないよ」
 図星を指されて俺は俯く。
「またまた。夏休みが開けてうれしいんだろ? 日下部に会えるから」
「……そりゃあ、そうだけど」
 足元には俺と金子の鞄が並んでいる。今日はもう帰るだけだから、せっかくなら日下部さんと一緒に、と思っていた。
 しかし、コピー機って何の為に? 疑問を感じる俺に、金子は囁きかけてくる。
「男同士の会話はあいつのいないうちにしような」
「何だよ、男同士の話って」
「いろいろとあるだろ、ほら。まず聞いときたいんだけどな」
 ぽん、と肩を叩いて、
「あいつとどこまでいった?」
 金子に問われた。
 ものすごくお約束の質問だった。
 肩に乗せられた手すら暑苦しい炎天下。俺は額の汗を拭ってから、お約束の答えを口にする。
「中央公園のサイクリングロードまで行った」
「……男にその手のボケかまされるのはすげーむかつく」
 呻く金子。
 正直に言うなら、特に何もなかった。告白されて、デートして、告白し返して、付き合うことになった。夏休みの間に起こったことはそれだけだ。他には何もない。
 ――何もないって言うのは、あくまで金子の聞きたがるような範疇の事柄について、だけど。俺からすればいろいろあった。あり過ぎた。日下部さんとメールの交換もするようになったし、電話もするようになった。始業式の後でわざわざ彼女を探しに、彼女のクラスまで足を運ぼうと思った。夏休み前から比べると、目まぐるしく何もかもが変わったようだ。
 彼女に『落ちた』その瞬間の気持ちが、今もずっと続いてることだって、何もないなんて到底言えない大きな変化だ。
 その辺りは、金子には秘密にしておく。口にするのも気恥ずかしいし、笑われそうだし、だけど俺にとってはそういう些細な変化でも、今は大切にしておきたいことだから。金子に報告するのは、もう少し日下部さんとの時間に慣れてからにしよう。
「わざと言ったんだよ」
 とりあえず、言葉ではそう答えた。金子の顔つきが途端に恨みがましいものへと変わる。
「センスねえなそのボケ具合。……で? 本当のところはどうなんだ」
「秘密にしとく」
 俺は金子へ笑い返した。多分、てんで情けない照れ笑いにしかなってなかっただろうけど、こういう局面で笑えるようになったのは自分でもすごいなと思う。
 金子も同じように思ったのか、お、という顔をした。それからまた、にやっとされた。
「遠野、お前変わったよなあ」
「そうか?」
「何つーか、男の自信が内側から滲み出ちゃってる感じ。俺まで置いてけぼり食らったみたいだ」
 自信なんて、そんなものが身についてる実感もない。強いて言えば日下部さんがいてくれる、安心感は少しあるけど。俺を好きになってくれる子がいるんだってわかって、確かにほっとした。うれしかった。
「あんまり心配することもなかったみたいだな」
 視線を遠くへ投げる金子。熱のせいでゆらゆらしている街並みは、やはり八月と変わらないように見える。それでも視線を下ろせば、校庭には生徒の姿がまだぱらぱらある。夏休みの終わりを噛み締める。
「日下部もはしゃいではしゃいですごかったぞ。一時期の思い悩みっぷりは何だったのかってくらいのあのテンション、教室で聞いててこっちの耳が痛くなったっつうの」
 これまでは想像もつかなかったけど、今ならそういう日下部さんもわかる。きっとものすごくはしゃいでくれただろうなと想像出来る。
「ここに来るまで苦労したからな。何が大変って、あいつに白状させんのが大変だったんだ」
 金子も思い浮かべるように語っていた。
「あいつがお前のこと好きだってのはわかったんだけどな、もう態度でばればれの見え見えだったし。お前がうちの教室来る度に真っ赤な顔してたり、登校中にお前に出くわすと、なぜか高確率で日下部とも出くわしたりしてたし、まあこの金子様が気付くのに時間は掛かんなかった」
 肩を竦めて、尚も続ける。
「だけどそっからが長かったんだよな。俺と遠野が仲いいって知ってんだから、俺に何とかしろって頼めばいいのに、あいつそれが言えなかったみたいでさ。無理矢理聞き出そうかと何度思ったことか」
 日下部さんも言ってたな。金子は日下部さんの気持ちを感づいた上で、あえて聞かずにいてくれたんだって。彼女が自分から言い出すのを待っていたって。
「全く、俺から聞き出さなくてよかったよ。やると決めた後のあいつの行動力ったら半端なかったからな。俺のしてやったことと言ったら、惚気話に付き合ったのと、夏休み中、お前をここに呼び出したくらいか」
 金子が笑う。やけに気分よさそうに、すっきり笑って空を見上げる。九月の空も青い。夏みたいに青い。
「誰かさんがのんびりしたせいで、告白した後が長かったけどな。それもこれも結果オーライだ」
 俺はその横顔を、ほんの少し怪訝な思いで見ている。
 本当に奴はいいキューピッドだった。俺と日下部さんの為に、随分とあれこれ取り計らってくれた。お膳立てにしても、普段の金子の口の悪さから考えれば、親切過ぎるほどだった。
 ふと気になって、尋ねた。
「金子はどうしてここまで、俺たちの為にしてくれたんだ?」
 視線が動く。フェンスに寄り掛かる金子がちょっと笑う。さっきの俺よりもずっと照れたような笑い方だった。
「別に大したことじゃねーし。興味本位半分、お節介半分ってなもんだ。日下部がお前の好みに合ったら恩を売れるしなとか、そのくらいの魂胆だって」
 そうだろうか。その程度の気持ちでこんなに協力なんて出来るだろうか。反論しかけた俺に、金子は照れ笑いのまま続けてくる。
「強いて言うなら、お前にも見せてやらないともったいないと思ったんだよ」
「もったいないって、何が?」
「恋をして変わる女の子がどのくらいきれいか、ってことをだ」
 俺がぎょっとするくらいに気障な台詞を、金子は臆面もなく口にした。それで俺が面食らっていれば、こっちを見て、ふうと溜息をつく。
「しかしあれだな。恋をしても男の方がきれいになんのかどうかは未知数だな」
「はあ?」
「頑張ろうな遠野。気の持ちようだろ、きっと」
 そもそも俺がきれいになってどうするんだ。前にも言われた記憶があるけど、やっぱり微妙だ。気持ち悪い。
 そりゃあ恋する女の子の可愛さは、もう既に、十分に思い知らされてるけど。同じようになれるかどうかは――。

 屋上のドアが、重い音を立てて開いたのは直後のこと。
 飛び出してきた日下部さんは、まず陽射しにきゅっと目を細め、それから俺たちの方へ駆け寄ってくる。先に俺の方を見てくれたのが、金子には悪いけどちょっとうれしい。
「お、日下部。遅かったな」
 金子がフェンスから離れると、かしゃんと微かな音が響いた。日下部さんは軽く笑って、それから持ってきた通学鞄を開ける。
「約束の物持ってきたよ、金子くん」
「サンキュー、超助かる! ――遠野、お前の彼女は本当に気が利くいい子だよなあ」
 日下部さんが金子に差し出したのは、白い紙の束だった。コピー用紙と思しき紙にはびっしりと細かい字が書き込んである。
「何だ、それ」
 気になって尋ねると、金子は意味深長に笑んだ。
「人目につかないところで渡すもんっつったら、ヤバげな品と相場が決まってるだろ」
 視線を日下部さんに移せば、苦笑いと目が合う。小声で教えてくれた。
「夏休みの宿題の答えです」
 唖然とした。
「金子くん、今回だけだからね。次はちゃんと自分でやるんだよ?」
「わかってるって!」
 日下部さんの言葉に、返事だけはいい金子。自分の鞄に紙束をしまい込んで、満足げな顔をしている。呆れた。
「だから言っただろ、夏休み中に。お前は宿題やったのかって!」
 俺が噛み付いてもどこ吹く風で、
「だから忙しかったんだっての! 俺は恋のキューピッド金子様だぞ!」
 胸を張って答えるから困ったもんだ。俺は溜息をつき、日下部さんがくすっと笑う。
「金子くんにはお世話になったから、しょうがないよね。でも本当に、今回だけだよ」
 しょうがなくない。日下部さんはいい子だけど、金子には世話になったけど、それとこれとは話が別じゃないか。夏休みがもう一ヶ月欲しいなんて、遊び呆けておいてよく言ったもんだ。
 俺なんて、夏休みが早く終わればいいと、あの日からずっと思ってたのに。
「日下部は優しいよな。ちゃんと俺に恩を感じて、こういうことしてくれるんだから」
 金子がちらと俺を見る。何を要求されてるかわかって、また溜息が出た。
「わかってるよ、ラーメンだろ? 何なら今から食べに行くか?」
「ああ、いや、今日は止めとくわ。お前らの邪魔しちゃ悪いし」
 鞄の蓋を閉じた金子が、次いでスラックスのポケットに手を突っ込んだ。何かを取り出し、それを日下部さんの手に握らせる。
「ところで、俺は女子からは手数料貰わない主義なんだよな」
「え?」
「だからこいつは、宿題のお礼ってとこ」
「金子くん、なあに、これ」
 日下部さんが手を開こうとした瞬間、
「ヤバげな品に決まってんだろ!」
 大声で答えた金子が、屋上の床を蹴った。鞄を脇に抱え、非常階段のドアに飛びつく。軋むドアを開け放つと、そのまま素早く中へ飛び込む。
 重たいドアの閉まる音が響いた時、奴の気配はどこにもなくなっていた。
 逃げたみたいだと、ふと思った。しばらく呆気に取られていた。
 それから我に返った俺は、日下部さんに目をやって、彼女が何を握られたのかを尋ねようとした。だけど彼女が自分の手の中を見て硬直していたから、嫌な予感がして口を閉ざした。代わりに歩み寄り、その手元を覗き込む。
 金子が置いていったのは小さな紙切れだ。ポケットに入れていたせいで皺くちゃになっていたけど、印字されている文章は読めた。安っぽい印刷に見えた。
『この券をフロントでご提示いただきますと、ご休憩は五百円引き、ご宿泊は千円引きになります』
 割引券だった。
「――金子め」
 俺は呻いた。なぜこんなものを日下部さんに渡していくんだ。後に残ったこの気まずい空気をどうしてくれる!
 そして、横目で日下部さんの表情をうかがう。耳まで真っ赤にしている。それはそうだろう。俺が何か言わなければと思った瞬間、彼女が手の中の割引券をぎゅっと握り締めた。
 直後、動いた。

 俺の横をすり抜けて、背後にあったフェンスにしがみついた彼女。がしゃんと音がした。その音が止む前に、すう、と息を吸い込むのが聞こえた。それから。
「――金子くんの馬鹿ぁーっ!!」
 前にも聞いた、びっくりするような日下部さんの叫び声。どこからそんな声が出せるんだろうというほど細い肩越しに、張り巡らされたフェンスの向こうに、陽炎揺らめく校門が見えていた。
 金子は校舎を飛び出して、ちょうどそこに辿り着いたところだった。白いシャツにスラックスの金子は、こちらに向かって手を振ってくる。振りながら叫び返してくる。
「てめー! キューピッド様に対して何て言い種だー!」
「もうっ、こんなことまで頼んでないよお! こういうのはまだ早いんだからー!」
 日下部さんも叫ぶ。フェンスを押し倒さんばかりの勢いで声を張り上げる。
「大体なー! へたれの遠野が相手なら、お前がリードしてくしかないんだぞー! 日下部ファイト! 上手いこと連れ込めーっ!」
 怒鳴るように返してから、金子は踵を返した。白いシャツの背中が校門を潜る。だっと逃げ出していく。
 日下部さんがまた息を吸い込んで、
「そんなことないもんっ! 遠野さんはそんな人じゃないんだからーっ!!」
 今までで一番大きな声を上げ、九月の青空を震わせた。
 残響が全て消えないうちに、ようやく彼女はフェンスから離れ、こちらを見た。浮かんでいるのはとても、真剣な表情。耳まで真っ赤にして、肩を少し上下させた日下部さんが、俺を真っ直ぐに見る。
 何か思う前に、聞かれた。
「そんなこと、ないですよね?」
 幸せそうな笑みは、後から浮かんで彼女の表情を変えた。
 彼女以外全てのものが攫われてしまう感覚が、何度目か、押し寄せてくる。

 俺は、答えに窮していた。
 と言うのも『そんなこと』の内容についてとっさに思い浮かばなかったからで、思い浮かんだ直後は更に、無性に照れた。でも、彼女の望む答えを口にしたいと思った。日下部さんを、一番可愛い顔で笑わせていようと思った。
 だから、
「そんなことない」
 頷いた。
 それで日下部さんはもっと笑った。幸せいっぱいの顔をして笑った。短めの髪が仕種にあわせてさらさらと揺れる。きれいで、とても可愛いと思った。
 向かい合わせの位置に立ち、俺も笑うことにした。自分がきれいな笑顔をしているかどうかはわからない。でも、恋をしているのは確かだ。
「帰ろうか」
 告げてから、シャツの裾で手を拭き、差し出す。前ほどぎくしゃくもしていなかったし、震えもしなかった。
 日下部さんは俺の手を取ろうとして、ふと止めて、まだ握り締めていた割引券をスカートのポケットにしまった。お互い真っ赤にはなったけど、やっぱりお互い笑いながら、手はしっかり繋いだ。
「行こう」
「はい!」
 はっきりした声で促し合って、屋上を出る。慣れない目で非常階段を駆け下りていく。横目で見ても、彼女が笑っているのがわかった。俺もうれしさに笑いたくなった。

 ほんの少しの間に随分変わるものだと、自覚もしていた。
 俺たちはもっと変われるだろうか。今の照れや気恥ずかしささえ笑いたくなるくらい、変わることになるだろうか。変わりたい。これからはキューピッドに心配も世話も掛けることなく、このままずっと一緒にいたい。
 彼女の可愛さを自慢出来るようになるのももうすぐかもしれない。その時までに、彼女が自慢したくなるような俺に、なっていたいなと思う。そんな決意も金子が聞いたら、気の持ちようだろと、いともあっさり言うだろうけど。
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