Tiny garden

知らないものなのです

『お前、のんびりしてるよなあ』
 電話の向こうで金子が言った。
 久々に掛けてくるなりその言いようで、こっちはいきなり何だと首を傾げたくなった。

 金子はいつだって何をするにも唐突で、ろくな説明もなしに俺を引っ張り込もうとしてくる。この間だってそうだった。
 今回は一体どんな用だろう。日下部さんの件で学校に呼び出されてから二週間、金子ともあの日以来会っていない。
 そろそろ夏休みも終わりに近づいていたけど、部屋の外は相変わらず蒸し暑かった。窓を開けていても温い風しか入ってこない。

「のんびりって、どういう意味だよ」
 俺が問い返すと、電話越しにやたらわざとらしい溜息が聞こえてくる。
『だって何にもしてないんだろ?』
「宿題ならやったよ、失礼な」
 一緒にするなよ、と俺は思う。
 そりゃあ七月中に片付けたなんて優等生的なことは言わないけど、残り僅かな夏休みを自由に過ごす為、この二週間は頑張っていた。他にすることがなかったというのも実情ではあるものの。
『馬鹿、宿題のことはこの際いいんだよ』
「よくないだろ。お前はやったのか、金子」
『いいから! その話はしたくないっつうか本当にどうでもいい!』
 金子が怒鳴ったせいで耳が痛くなる。どうでもいい訳があるか。思わず顔を顰めていれば、奴の言葉は尚も続いた。
『日下部のことだよ』
 彼女の名前を出されると、さすがに平静じゃいられなくなる。
「く、日下部さん?」
 応じる声が不恰好に裏返る。慌てて部屋の窓を閉めた。途端に空気がむっとしてくる。

 笑顔の可愛い彼女とも、ずっと顔を合わせていなかった。金子と同じように、もう二週間も。ファーストフード店を出て、じゃあまた、と別れたきりだ。単純に機会がなかったからだった。俺は彼女の連絡先も知らないし、住所だって知らない。クラスが違うからそもそも金子以外の接点すらない。顔を見たい、会いたい気持ちはもちろんあったけど、夏休みが終わって授業が始まればまた会える、それまでの我慢だと思っていた。
 それに、――告白の返事だってしなくちゃいけない。
 一度は答えているけど、今の気持ちとは違う答えを。俺は、今の気持ちを告げなくてはいけなかった。その件について考えるとたちまち心拍数が上がった。とてもじゃないけど落ち着いてはいられなくなった。会えたら、改めて返事をする。返事の中身はもう決まっている。ただ、会うまでのインターバルがあまりにも長過ぎる。上手く言えるだろうかとか、あれこれ余計なことまで考えてしまいそうになる。
 だから気を紛らわせる為にも宿題を済ませた。他に無心で打ち込めそうな事柄がなかった。ただ、肝心の答えが合っているかどうか自信はない。夏休みが明けるのが待ち遠しくもあり、緊張ものでもあった。

「彼女が、どうかしたのか」
 俺はどぎまぎしながら尋ねた。そして金子は、また溜息をつく。
『あいつから電話があってさ。お前の連絡先を知りたいんだと』
 連絡先。そういえば俺も、日下部さんの電話番号なりメールアドレスなりを知りたいと思っていたところだ。学校で会ったら聞こうと思っていた。それもどうやって聞けばいいのか、どう聞けば失礼のないように教えてもらえるだろうかと、あれこれ頭を悩ませていた。
 でも、そうか。
 金子に聞けばよかったんだ。
 どうして思いつかなかったんだろう、俺。二週間ものんびりしててよかったのか。日下部さんに会いたかったなら、そのくらいしておけばよかったのに。
『っつうか普通はな、その日のうちに交換しとくもんだろ』
 その金子は妙に不機嫌そうにしている。苛立っているのか、少々荒っぽい口調で語を継いだ。
『何でこの間、二人きりにしてやった時に聞いとかなかったんだよ。遠野はそういうところがとろいっつーか、のんびりっつーか、どうしようもないな』
「……うっかりしてた」
 一応、反省の言葉は述べてみた。
 だけど正直に言えば腹が立った。そんなこと言われても思いつかなかったんだからしょうがないじゃないか。俺はそもそも女の子と話すのが得意じゃない。携帯電話のアドレス帳に女の子の名前なんて皆無だ。金子とは違うんだ。会ったその日に電話番号交換なんて頭がないのも当然だと思う。二週間を無為に過ごした悔しさともあいまって、つい自分を正当化したくなった。
 だけど、
『日下部がな、お前と連絡を取りたいって言ってんだ。あいつが言うには、夏休みが終わるまで待ち切れなかったんだと』
 金子が続けた言葉に、直前の感情が萎んだ。
「え……」
『どうしてもお前の声が聞きたいって言ってた。あんまり辛くて、何も手につかないんだとよ。だから俺に電話してきて、よかったらお前に確認取ってくれって頼まれたんだ。あいつにお前の番号教えてやってもいいか? よければ後で掛けさせるけど』
 その口ぶりはまるで、俺が断るはずもないと言いたげだった。何もかも見透かしているような態度だった。だけどそういう金子にも、最早怒りは覚えなかった。一気に内心が塗り替えられて、胸の中がいっぱいになってしまう。
 日下部さんが、待ち切れなかったって聞いてしまったら。
「あ、いや、構わないけど」
 俺は情けない声音で言ってから、ぼそりと零した。
「悪いことしたな、彼女に。何て言うか、そこまでさせて」
 自分のことしか考えてなかった。彼女がどんな思いでこの二週間を過ごしていたか、想像すら出来なかった。それが、心苦しい。
『本当だよな!』
 金子は手厳しい。すかさず噛みついてくる。
『お前もさ、すぐ付き合えとは言わないけど、もうちょい日下部に優しくしてやれよな。あいつの健気さったらないぞ』
 健気なのは知っている。正直、俺にはもったいないくらいの子だ。彼女は。俺は項垂れたくなる。
『遠野に見せてやりたかったくらいだよ』
 奴が鼻を鳴らしたのが聞こえた。
『夏休み前の日下部の様子、録画でもしときゃよかった。もうすごかったんだからな、毎日毎日しつっこいくらいに遠野さん遠野さんってお前の話ばっかりで』
 初めて聞く話だった。照れるより先に喉が詰まった。
 俺の知らない日下部さんを、当然、金子は知っている。友達として、間近で見てきている。俺が告白されたたあの日以前の彼女のことも知っているはずだった。
『朝の登校時はわざと時間をずらして、お前と会えるようにしてたとかさ。それで会えた日はラッキーとか、馬鹿みたいにはしゃいでた。お前がA組の教室に来たら途端に真っ赤になってたし、そのくせ声の一つも掛けられないでいたしな。こっちが黙ってられなくなったっての』
 苛立ち交じりの口調の中に、どこかしらの優しさがうかがえた。金子は単に社交的なだけじゃない。俺とは違って、優しい奴だった。
 日下部さんは、俺のことをよく知っていた。俺がチャリ通だってことも、保健委員だってことも、金子と話す時は他の連中といるよりも素でいられたことも。友達でもない、口を利いたこともない相手なのに、なぜかよく知っていた。知っていてくれた。
『あいつの片想いもさ、昨日の今日ってレベルじゃない訳よ』
 金子がそこで、少し笑った。
『ぶっちゃけ物好きだなと思うしさ、お前自身だってそう思ってるだろうけど、あいつは生半可な覚悟でお前に挑んだんじゃないんだ。そこんとこはわかってやって欲しいんだよな』
 確かに物好きだと思う。彼女はこんな俺のどこがいいんだろう。――それは既に聞いていたけど、聞いた上でも思う。
 でも、そういう卑屈さじゃ、彼女の気持ちには応えられない。そのこともちゃんとわかっている。応えるなら、俺だって生半可な気持ちではいられない。
「日下部さん、いい子だよな」
 俺は本心からそう呟いた。珍しく、恥ずかしげもなく言えた。
『そうだろ?』
 まるで自分のことみたいに、金子が得意そうにする。
『いい子だし、可愛いんだよ。泣かせたら罰が当たるぞ』
「だよな……」
『ま、遠野も満更じゃないみたいだから口出ししたんだけどな。でなきゃ女子と友達になるなんて言わないもんな、お前の場合』
 そこまでお見通しなのか。今更、俺は照れた。締め切った部屋は蒸し暑く、頬がやたら火照ってくる。
『あとで、日下部に連絡させる。あいつのことだからすぐ掛けてくると思う。だからその時にでも、あいつをちょっとは安心させてやってくれ』
「ああ、そうする」
 俺も思った。彼女の告白に、一度は、彼女の望んだのと違う形で答えている。そいつを引っ繰り返す必要がある。そして彼女を、今度こそ俺の手で、心底から笑わせてみたい。俺だって本当は、夏休みの終わるのが待ち切れなかったくらいなんだ。
「金子にも迷惑掛けたな」
『いや、俺は別に? 恋のキューピッド金子様は心が広いからな』
 けたけた金子が笑う。何となく、ほっとした様子の笑い方だった。
『但しあれだ、男からは手数料取るからな。今度ラーメン奢れ。大盛りで』
「……わかったよ」
 前回よりも単価が上がっていた。しょうがないか。
 次からは、金子の手を煩わせなくてもいいように、俺が頑張らなくちゃいけない。

 金子の言った通り、日下部さんからの電話はすぐに掛かってきた。金子との通話を終えてから、十分と経たないうちに。
『あ、あああの、遠野さんですか……?』
 思いっきり緊張しているらしい彼女。震える声は電話越しに伝わってきて、俺の声まで震わせた。
「そう、だけど。日下部さん、電話ありがとう」
『いえ、こちらこそ! 電話番号教えてくれてありがとうございます!』
 日下部さんはうれしそうに言った後、はあと息をついた。
『遠野さんと電話が出来るなんて、夢みたいです』
 そんなの、まさに『こちらこそ』だ。
 夏休み前は想像すらしなかった。俺を好きになるような女の子がいたことも、その子から告白されるなんてことも。その子と話をするようになって、友達になって、電話をするようになったことも。
 恋とは落ちるもの、――その言葉の意味がわかるようになった、ことも。
「もっと早めに連絡すればよかった。ごめん」
 俺が詫びると、彼女は慌てたように反論してきた。
『そんな、遠野さんに謝ってもらうようなことじゃないです! こうして電話が出来ただけでも幸せです。最高の夏休みでした』
 金子から聞いた、夏休み前の日下部さんの話が、ふと脳裏を過ぎる。俺の話ばかりして、はしゃいでいる日下部さん。きっと可愛いんだろうなと思う。金子のことがちょっと羨ましくなる。
 でも金子からすれば、いや、全世界の誰よりも今の俺は、間違いなく羨まれる存在だろう。そんな可愛い子に、好きって言ってもらったんだから。
「俺も、日下部さんと話したかった」
 まだ声が震えていた。でも、これは言わなくちゃいけない。
「話したかったのに、どうやって連絡を取っていいかちっとも思いつけなかったんだ。金子に頼ればいいってことすら浮かばなくて……だから、日下部さんが聞いてきてくれて、とてもうれしかった」
『あ……わ、私もうれしいです。話したいと思ってもらえたなんて……』
 えへへ、と笑うのが聞こえる。女の子の笑い声っていいなと思う。日下部さんだからいいのかもしれない。きっとそうだ。
 つくづく惜しいことをしたと思う。この二週間、夏休みの宿題よりももっと肝心なことがあったって言うのに。
 宿題をやっておいてよかった、か。むしろ。
「――日下部さん」
 俺は深呼吸をして、どうにか声の震えを止めた。覚悟は出来てる。日下部さんに比べたら、まだ未熟な覚悟かもしれないけど、言う。言える。
 やや勢い込んで告げる。
「夏休み中にもう一度、会えないか」
 ものすごく気恥ずかしい言い回しになった。もっと何か言いようがあったようにも思う。金子ならもっと無難な誘い方が出来たんじゃないだろうか。
 会いたいと思った。純粋に顔を見たかったのももちろんあるし、それ以上に、会って話したいこともあった。夏休みが終わるまでは待っていられない。この気持ちが落ち着かないうちに、平静じゃないうちに告げたかった。日下部さんを安心させられて、心底から笑わせられる言葉を。
 俺の言い方のせいか、電話の向こうはしばらく沈黙していた。さあさあと川の流れみたいなノイズが微かに聞こえている。
 待つのは辛かった。心拍数は確実に上がっていた。背筋を汗が伝い落ちていく。日下部さんも二週間前、こんな思いで俺の返事を待っていたのかもしれない。そして今日までずっと、待つ辛さを引きずってきたのかもしれない。
 やがて、答えがあった。
『……会えます』
 深呼吸の気配の後で、日下部さんがそう言った。
『私、遠野さんに会いたいです。むしろ私の方からお願いします。是非会ってください!』
 のんびりしていた俺の馬鹿。
 こんなの、二週間前に頼んでおくべきことだったじゃないか。不慣れにしたって程度ってものがある。気持ちの方は、既に生半可じゃないくせに。
「じゃあ会おう、夏休みが終わる前に」
 俺は二週間分の時間を挽回すべく、早口になってまくし立てた。
「こっちはいつでもいい。日下部さんの都合はどうかな」
『いつでも構いません。私、宿題も終わってますし』
「俺も終わった。じゃあ天気のいい日にしよう」
『それがいいですね』
「あ、俺と二人だけになるけど、いい?」
『もちろんです!』
 力いっぱいの答えにほっとする。よかった。
 ほんの少しだけ、笑う余裕が出来た。
「ところで、場所の希望は?」
 女の子とデートの経験などあるはずもない俺。それでも、希望を聞いておいた方がいいことくらいはわかっている。何せ俺は、日下部さんのことをまだあまり知らない。彼女の好きな場所、行きたい場所があるなら、そこへ一緒に行く方がいい。
『えっと、私が決めちゃっていいんですか』
 日下部さんがおずおずと聞き返してくる。
「希望があるなら言って欲しい。俺はあまり、女の子の好きそうな場所を知らないし」
『じゃあ……もし、遠野さんが嫌じゃなければ、なんですけど』
 そう前置きして彼女は、
『サイクリングに行きたいです、私』
 と続けた。
 その答えを、俺はやや意外に思う。
「へえ、サイクリングか」
『いいでしょうか?』
「いいよ。日下部さん、サイクリングとか好きなんだな」
『そうなんです。私、身体を動かすのが好きで、お休みの日には、よく中央公園のサイクリングコースを一周するんです。並木道だから日陰も多くて、とっても涼しいんですよ』
 うきうきと語を継ぐ彼女。
 本当に俺は、彼女のことをまだ何も知らない。身体を動かすのが好きなタイプとは思わなかった。自転車で並木道を颯爽と駆け抜ける日下部さん――それはそれで、是非見てみたいと思うものの。
『それに遠野さんとなら、のんびり景色を楽しめそうですから』
 日下部さんが更に言う。
『遠野さんが自転車通学している姿を見てて、のんびりしてていいなあって思っていたんです。毎朝、こっそり見てましたから』
 はにかむ口調で打ち明けられて、喉が詰まった。
 心臓が喉までせり上がってきて、呼吸ごと堰き止められてしまったみたいだ。彼女が俺をどんな思いで見ていたのか、はっきりわかっているから。

 日下部さんのことを知りたいと思った。
 彼女の可愛らしさ全てを、俺が知っておきたいと思った。
 次に会う時には彼女を笑わせる。安心させて、笑顔にさせて、最高に可愛い彼女を手に入れたい。その為の覚悟も出来てる。あとはもう踏み出すだけだ。
 この夏が終わってしまう前に、必ず。
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