気になるものなのです
「俺って恋のキューピッドだよなあ」金子の言うことはいつだって唐突だ。
その上、今はゆすりまがいの発言にもなり得た。
なぜかと言えば俺たちは、ファーストフード店の前にいる。そして俺と金子の他に、日下部さんもいる。
赤いTシャツの金子は、日下部さんに聞こえない声で囁く。
「せっかく出来たガールフレンドの手前、けちなところは見せたくないだろ?」
「ガールフレンドって言ったってな……」
俺はちらと日下部さんを見た。
一人だけ制服姿の彼女は、八月の炎天下で身を寄せ合う俺たちを怪訝そうに見つめていた。
俺だって好きで金子にくっつかれている訳じゃない。
そりゃあ、感謝はしている。日下部さんは笑顔が可愛いし、まだちょっとしか話もしていないけど、どうやらすごくいい子みたいだ。金子の口利きがなければこうして校外で会うこともなかった。さっき告白されたばかりで、もう一緒に歩いている俺がいた。現金だろうか。
金子が気を利かせてか、何か冷たいものでも一緒にどうかと言ってきた。俺は女の子と話すのに慣れていないし、奴がいてくれるのは正直ありがたかった。
だけどその金子が言う台詞がこれだ。
「別に高い物をねだってる訳じゃないって。シェイクでいいよ、チョコとバニラを一つずつ」
「二つもかよ」
呻く俺に、奴は尚も言う。
「日下部の目が気にならないって言うなら、別にいいけどな」
「……ちっ」
思わず舌打ち。金子め、どこまでも図々しい。しばらくたかられるかもしれない。確かに恩はあるけど。
「わかったよ」
渋々了承すれば、俺の肩をぽんと叩いた。そして振り向くや否や、日下部さんへと告げる。
「日下部、遠野が奢ってくれるってさ」
「えっ、そんな!」
水を向けられた日下部さんが慌て出す。
「遠野さんに奢ってもらうなんてこと出来ません。自分で出しますから、お構いなく」
「いいからいいから、遠慮すんなって」
なぜか金子が言った。お前は遠慮してくれ。
「遠野だって奢りたいと思うからそう言ってるんだろ。ここは花持たせてやれよ」
「でも……」
日下部さんは眼鏡越しに、俺と金子の顔を見比べた。戸惑いの色が強い表情も、これはこれでなかなか可愛い。こんな子になら、快く奢る気になる。
結局、俺の方から告げた。
「金子の言う通りだ。俺が奢るから」
そりゃあ、可愛い女の子の前では格好つけたいって思うじゃないか。男なら。
夏休み中とあってか、ファーストフード店の客入りもそれなりだった。
隅の方のテーブルを陣取って、俺たちはそれぞれ椅子を引く。俺の隣に金子が座ると、日下部さんは少しだけためらってから、俺の真向かいに座った。ちょっとうれしかった。
バニラとチョコレートのシェイクが一つずつ、それからコーラとウーロン茶が一つずつ。その他にポテトのLサイズが二つ、これは俺と金子の注文だ。会計は全部俺が持ったけど。
「日下部さん、本当にお茶だけでいいのか」
目のやり場に困りつつ、俺は彼女に尋ねた。テーブルを挟んで向かい側、日下部さんがぎくしゃくと笑うのが、視界の端に見えた。
「は、はい。私、お腹空いてないんです」
「ダイエット中なんだよな、日下部は」
そこで金子が口を挟んで、たちまち日下部さんが真っ赤になる。
「金子くん! 遠野さんの前でそんなこと言わないで!」
「何でだよ、本当の話だろ」
「ち、違うもん」
「誤魔化すなよなあ」
バニラシェイクにストローを突き刺しながら、金子はにやにや笑っている。俺に向かってわざわざ言い添えてきた。
「お前の為に痩せたいんだってよ。夏休み前からずっと甘い物は控えるわ、弁当はこんにゃく尽くしだわでそれはもう大変な――」
「金子くんってば!」
日下部さんが声を張り上げる。それで金子は首を竦め、俺はちらとだけ真向かいの制服姿を見た。
十分、細いと思うんだけどな……別に痩せなくてもいいのに、とはもちろん言えない。
「あ、あの、いただきます」
彼女は俺に対しては遠慮がちで礼儀正しい。ちゃんとお辞儀をしてからウーロン茶のカップを取った。ストローをくわえて少し飲む。その動作をついついじっと眺めてしまう。
そこへ、脇腹をつつかれる感覚。横を向けば、金子が訳知り顔で言ってくる。
「おい、遠野。日下部にポテトを分けてやれよな」
「へ? あ……ああ」
言われるまでこれっぽっちも思い至らなかった。情けない。
「いいです、そんな。遠野さんからこれ以上いただく訳には!」
一方、彼女はかぶりを振っている。
「遠慮しなくてもいいよ」
「そうだぞ日下部。遠慮したらかえって失礼だろ」
だから金子、お前はちょっと遠慮しろって。自分のものみたいな口ぶりで言うな。
ともあれ俺たちの言葉に、日下部さんは済まなそうな顔をした。
「本当にいいんです。だって私が食べたら、遠野さんの分が減っちゃいますよ」
「そんなの気にしないだろ、遠野なら」
俺の代わりに金子が答える。その通りだけどいちいち癪に障る。
日下部さんは悩むようなそぶりの後で、じゃあ、と語を継いだ。
「私、金子くんから貰うことにします。そうしたら遠野さんの分は減らないでしょうし」
「えー! ちょっと待て、俺から取るなよ!」
すかさず金子が抗議の声を上げた。だけど彼女はいたずらっぽく笑って、金子へと告げる。
「いいでしょ? 金子くんだって遠野さんから奢ってもらってるんだから」
「よくない、どんな理屈だよ」
「遠野さんからこれ以上いただくなんて出来ないの」
きっぱりと言い切った日下部さん。金子も遂に諦めたのか、不満そうにしながらポテトのケースを持ち上げる。
「しょうがないな、ほれ、やるから手ぇ出せ」
金子が片手を伸ばし、日下部さんの手首を掴む。日下部さんは照れもなく掴まれている。ごく自然に。
「あっ、駄目! 手に空けないで、熱いよ!」
「うるさい奴だなあ、じゃあそっちの紙取れよ、乗っけてやる」
言葉ではああだこうだ言いつつ、金子は紙ナプキンの上にポテトを空ける。思いのほかたくさん分けてあげていた。それを日下部さんもうれしそうに受け取る。
「ありがとう、金子くん。遠野さんもありがとうございます」
「俺と遠野に対する態度がまるで違うよな、お前」
「だって遠野さんが奢ってくれたんだもん。金子くんは出資してないでしょう」
「素直に言えよ、俺より遠野の方が大事だって」
「も、もうっ! 金子くんってば!」
俺の目の前で、二人はじゃれあいみたいな会話を続けている。見るからに仲が良さそうだ。女の子とも気安く話せる金子が、正直羨ましいと思う。
こっちはまだろくに口も利いていない。これからだって、どう接していけばいいのかわからない。女の子なんて未知の生き物みたいなものだ。俺も今の金子みたいに、日下部さんと気安く話せるようになれるだろうか。
金子といる時の日下部さんは、やっぱりにこにこしていた。弾けるようなとびきりの笑顔を浮かべていて、すごく楽しそうに見えた。俺はその笑顔を眺めているだけだ。口も挟めないまま、一人でポテトを食べている。
情けない、と思った。
気になっているくせに。日下部さんのことが気になるくせに、自分で声も掛けられない。金子と楽しそうにしているところに割り込めない。一体何の為に誘ったんだ。
食べ終わるのは、金子が一番早かった。
ポテトを分けたせいなのかもしれない。二本のシェイクも最後の方は蓋を開け、流し込むように飲んだ。その後で奴は立ち上がる。
「じゃ、俺はそろそろ帰るかな」
「――え?」
相変わらず何でも唐突だ。戸惑う俺に、金子は不器用なウインクを投げてくる。
「二人きりにしてやるよ。俺がいたらお邪魔だろ?」
「べ、別に」
俺もつい口ごもる。それで金子はにやにやし始め、日下部さんに対してもこう言った。
「頑張れよ、日下部。勢いでものにするんだぞ」
「ものにって……金子くん、言い方が悪いよ」
日下部さんももごもごと反論したけど、金子はどこ吹く風で去っていく。自分のゴミだけをゴミ箱に捨てると、後はもうこちらを振り向かなかった。赤いTシャツが店の外へと消えていく。
そして後には沈黙が残される。
割とお客さんの入っているファーストフード店。話し声がほうぼうから聞こえてくる。有線放送が軽いポップスを流している。静かなはずはなかった。
なのにこのテーブルだけは、不気味に静まり返っていた。
俺は俯いた。真向かいに日下部さんがいる、そのことが急にものすごいことのように思えてきた。さっきまで金子と楽しそうにおしゃべりをしていた日下部さんが、金子がいなくなるや否や黙り込んでしまった。俺も声が出なくなり、再び目のやり場にも困った。馬鹿みたいに困った。
コーラはもうなくなりかけている。強く吸うと、ずるずると嫌な音を立てた。冷めたポテトは塩辛い。日下部さんもポテトを食べている。あれは金子が分けてやった奴だ。俺の出る幕はなかった。
気まずかった。
「あの……」
何も言わない訳にもいかず、俺は小声で切り出した。真向かいで制服が身動ぎをする。顔は見えない。見れない。
「ご、ごめん。俺、その……」
店内は冷房が効いているのに、暑い。八月のせいかもしれない。
「知ってると思うけど、割と、口下手なんだ」
「え……あ、気にしてないです、全然」
日下部さんがかぶりを振ったのが、テーブルに映る影でわかった。やっぱり俺に対しては礼儀正しく遠慮がちだ。金子にはちっとも遠慮しないのに。
「俺、女の子と話すの、あんまり得意じゃないから」
うっかり正直に言ってしまって、後で慌てた。
「別に、話すのが嫌だって訳じゃないけど。その、慣れてなくて」
慣れたいのかどうかよくわからない。金子みたいになりたいとは思う。でも、たくさんの女の子と話したい訳でもない。誰でもいい訳じゃない。
日下部さんと気軽に話せるようになりたかった。金子みたいに、日下部さんを笑わせたかった。
なのに現状はこんなものだ。お通夜みたいに俯き加減でぼそぼそと、陰気にも程がある。そりゃあ彼女だって楽しくないだろうに。
「今まで、女の子の友達っていたことなかったから」
欲しいとも思っていなかった。作る努力をして来なかった。見栄ではないつもりでいたけど、やっぱり見栄だったのかもしれない。
努力をしていれば少しは違っただろうか。今、日下部さんを笑わせることも出来ていただろうか。たった一人の話したい、笑わせたい相手を楽しませることも出来ていただろうか。日下部さんは今の俺を、どう思っているんだろう。俺に告白したこと、後悔してないだろうか。
あれこれと思い巡らせればきりがない。
やがて俺は、意を決した。
「その……でも、これから慣れるようにするつもりだ」
言った。
「慣れる為にどうしたらいいのかもわからないけど、普通には話せるようになりたいし、それに日下部さんに、俺と一緒の時でも、金子といる時くらい楽しい思いをしてもらえたらいいなと思ってる」
そこまでは一息だった。それから、
「せ、せっかく友達になれたんだ。せめて一緒にいても気を遣わないようになりたい。あんまり俺にも遠慮とか、しなくていいから。金子並みに扱ってくれても」
更に、一気に告げた。
言いたいことは言った。俺は深く息をつき、それからようやく、日下部さんの方を見る。テーブル越しに見えるのはきょとんとした彼女の表情。目が合うと、ぎくしゃく逸らされた。彼女もどこか暑そうにしていた。
彼女は今、何を思っているんだろう。俺の言葉をどう受け取っただろう。日下部さんのことがとても、気になった。
恋に落ちるってこういうことなのか。
相手の一挙一動が気になって気になってしょうがなくなるものなのか。
しばらくの間、日下部さんは視線をうろうろさせていた。言葉を探しているようにも、何かためらっているようにも見えた。
だけどやがて、背筋を伸ばしてこちらを見た。レンズの向こうの瞳が真剣だった。
彼女の唇が動く。
「気を遣ってるつもりじゃ、ないんです」
日下部さんの言葉はぎこちなかった。金子と話している時よりも、やっぱり、ずっと。
「でも……私も緊張します。金子くんと遠野さんとは、どうしても違いますから。同じようになんて、無理です」
そして、言い切られた。無理です、と。
息を呑む俺の前で、日下部さんは尚も続ける。
「だって、私、遠野さんのことを笑わせてません」
――え? 俺のことを? 日下部さん、が?
気まずいはずの空気の中、思いもよらなかった言葉が告げられる。俺が目を瞬かせると、彼女はどこか申し訳なさそうにしてみせた。
「遠野さん、さっき言いましたよね。金子くんと一緒にいる時くらい、楽しい思いをしてもらえたらって」
「あ……ああ」
確かに言った。日下部さんは、金子といる時の方が楽しそうに見えたから。
「私も同じなんです。遠野さんには、楽しいって思っていて欲しいんです。金子くんといる時の遠野さんは、笑ったり怒ったり忙しそうにしてて、すごく楽しそうです。でも、私は金子くんみたいに、遠野さんを笑わせることが出来てなくって」
なのに彼女は言い募る。
「笑ってもらいたいなって思ってるんです。どうしたらいいのかちっともわからないんですけど、私……遠野さんが私といて嫌じゃないか、つまらなくないか、さっきから気になってしょうがないんです。そればかり気になって、何を言っていいのかもわからなくって」
目の前の硬い表情が、ほんの少し笑んだ。苦しそうな笑い方に見えた。
「金子くんにはそんな風に思ったことないんです。違う友達だってそうです。一緒にいたら笑っているのが当たり前で、笑っていてくれるから一緒にいたいって思えました」
合間の呼吸も苦しげに聞こえた。
「でも、遠野さんは違うんです。笑ってくれなくても一緒にいたいって思うんです。いつか私にも自然に笑わせられたらなって思いながら、今は笑ってもらえなくても、それでも傍にいたいんです」
彼女の心はひたむきだ。気後れしている自分自身が情けなくなるくらい。
「私にとって気になるのは、遠野さんだけなんです」
日下部さんはそう言った。
「気を遣ってる訳じゃないんです。でも、同じようになんて無理です。遠野さんには、金子くんと同じようには接せません。遠野さんは特別ですから、私、頑張りたいです。頑張って笑わせられるようになりたいんです」
特別。
そう言われて俺は戸惑う。日下部さんにとっての特別は、金子の方なのかと思っていた。でも違ったのか。彼女と金子は自然に笑い合える友達で、彼女にとっては俺の方こそ特別なのか。まだ自然には笑い合えない相手、始まったばかりで何もない関係のことを、特別だって言うんだろうか。
でも、俺にとってもそうだ。日下部さんは特別だ。金子と同じようには接せなくて、それでも一緒にいたいと思う相手。どうにかして普通に話せるようになりたい、金子みたいに笑わせられるようになりたいと思ってしまう存在だ。一挙一動がこんなにも気になる相手は、他にいない。
まだ始まったばかりだから、俺たちの間には何もない。友達になろうと言ったその口約束くらいしかない。これからいろんなことを築き上げていかなくちゃいけないんだろう。一緒にいて、ごく自然に笑い合えるようにならなきゃいけないんだろう。一緒にいるのが嫌じゃない、つまらなくないと思えるようになりたいから、その為にお互い、頑張らなくちゃいけないんだろう。
何もしないで、他の友達のようにはなれない。そもそものスタート地点が違う。そして、目指すべきゴールも違うのかもしれない。特別、なのかもしれない。
「うれしい、よ。あの、ありがとう」
ふと、俺の口からそんな言葉が零れ出た。
日下部さんがはっとする。レンズ越しの視線が揺れた。
「俺も……日下部さんとは一緒にいたい。笑ってほしいと思ってる。金子みたいにはなれないだろうけど」
たどたどしい物言いになった。情けない。だけど止めなかった。
「日下部さんの笑う顔、見たい。だから、その……頑張る」
「……遠野さん」
彼女が俺の名前を呼んで、一瞬、泣きそうな顔をした。
もしかするとそれは、気のせいだったのかもしれない。すぐに笑ってくれたからわからない。わからなくなった。
「私も、頑張ります!」
その顔にとびきりの照れ笑いが浮かんだからだ。
今日、二度目だった。
――落ちたんだ、と思った。
二度目の感覚は俺に、意外な効果を齎した。
気付けば笑っていた。つられるみたいに。うれしくなって、この上なくうれしくて堪らなくて、俺は確かに笑っていた。
「ああ、よかった!」
笑顔のままの日下部さんが言う。
「遠野さんにも笑ってもらえました! よかった!」
この上なくうれしそうに言う。
「私、これからずっと、遠野さんを笑わせられるようになりますから!」
それは難しいことじゃない。きっと、お互いに。
俺たちは初めて笑顔を交わし合い、声を立てて笑い合った。ひとしきり笑った後の恥ずかしさも、照れ笑いで乗り切った。それからは黙り込む時間も多かったけど、さっきほど気まずいとは思わなかった。それどころかさっきよりも強く、一緒にいたいと思っていた。
金子は確かにキューピッドだ。いつかちゃんとお礼をしよう、出来れば金のかからないことで――俺たちが揃って笑ってるだけでいいって、言ってくれたらいいんだけどな。