Tiny garden

落ちるものなのです

「彼女が欲しいよなあ」
 八月の空に向かって、金子はやぶからぼうに言い出した。
「な、遠野もそう思うよな?」
「俺?」
 水を向けられた俺は、悩まずに答える。
「そうでもない」
「何でだよ」
 途端にしかめっつらになった金子が、屋上のフェンスをがしゃがしゃ揺らした。

 真夏らしい、不快な暑さの日だった。
 こっそり忍び込んだ屋上には全くと言っていいほど風が来ない。それどころか直射日光をもろに食らっている。眩暈がする。
 見下ろせば校庭まで干からびてからからだ。校門の向こう、遠くの景色は揺らめいていて、まるで火の中にいるみたいだった。暑い。

 犬のように舌を出す俺とは違って、金子は一人気を吐いていた。
「夏といえば恋の季節だろ。海に行くにも山へ行くにも、女の子がいないでどうすんだよ!」
「別に夏だからって彼女が欲しくなる訳じゃないだろ」
 欲しい奴は一年中欲しがってる。あいにくその範疇に、今の俺は含まれていない。女の子と話すのは得意じゃなかった。もちろん彼女どころか、女の子の友達さえいない。
 金子は俺より多少社交的だ。クラスに仲のいい女子もいるらしい。だけど彼女はいないらしいし、今まで彼女を欲しがってるそぶりもなかった。俺と同じく、さして興味がないのかと思っていた。
「なるんだよ。夏休み真っ最中だってのに彼女の一人もいないなんて悲惨だ」
 フェンスにしがみついて、金子が力説する。暑苦しい。
 風もないのに揺れるフェンスが鬱陶しく、俺はそこから身を離す。すると、指を差して言われた。
「遠野も恋ぐらいしろよ! 恋に落ちてそしてきれいになれ!」
「きれいにって……男もなるのか?」
「そんなの気の持ちようだ! 恋とはすなわち落ちるものだからな!」
 周りの気温を更に上げようとでもしているのか。金子はさっきから叫んでばかりいる。
 着ているTシャツも暑苦しい赤だ。そのうちのぼせてぶっ倒れるんじゃないか。

 大体、夏休みだっていうのに学校へ呼び出すなんて、何の用事なんだろう。
 ――金子とは元クラスメイトで、放課後よくつるむ仲だった。よく休日にも遊んだりしていたけど、さすがに学校まで来いと言われたことはない。しかも校門前で落ち合うや否や、有無を言わさず屋上に引きずり込まれた。
 夏休みのこの時期にお互い帰宅部同士、その上私服で校内侵入。もし教師に見つかったらどやされるに違いないのに。

「きれいになるとか、恋に落ちるとか、俺が言うと気持ち悪いだろ」
 額の汗を拭い、俺もしかめっつらを作り返した。
 俺は決して見目麗しい方じゃない。はっきり言ってしまえば並だ。松竹梅で言ったら梅だ。そんな平々凡々な男子高校生が、恋をしてきれいになるって言われても、普通に気色悪い。そして見た目が並、社交性にも欠ける俺に、これまで彼女が出来るなどという事態は一度として起こっていない。あり得ない。
「まあ、そう言うなって」
 だけど金子はにやっとして、
「恋する男は気持ち悪いかもしれないけど、恋する女の子は可愛いんだぞ」
「へえ……」
 そんなこと、考えたこともなかった。目の当たりにする機会もなかった。
「気のないそぶりだな。ま、この話を聞けばお前の気も変わるだろうけど」
 言うなり奴は、俺の肩を叩いてみせた。何やら思わせぶりに。
「物好きに、お前みたいなぼんやりした奴がいいって子もいるんだ」
 言われて俺も、思わず同意した。
「本当に物好きだな」
 確かに思う。
 ぼんやりしてるのは自覚済みだ。女の子とはろくに話せもしないし、話せなくてもまあいいか、と諦め半分で思っていた。そんな俺を好きになる子がいたなら、きっと相当の物好きに違いない。間違いなく口も利いたことない相手だろうし、それで好きになれる方がすごい。
「お前さ、うちのクラスの日下部って知ってるか」
「A組の日下部?」
 出された名前に心当たりはなかった。交友関係のごく狭い俺が、金子のクラスメイトまで覚えられてるはずもない。
「いや、わからないな。男子か?」
「この話の流れで、女子だってわかるだろうよ」
 奴はどこか気まずそうに言って、更に話を続ける。
「それでその、うちのクラスの日下部がさ、悪趣味なことにお前が気になるらしいんだわ。で、お前さえよければ紹介してやろうかと思ってんだけど」
 ちっとも気乗りしなかった。紹介なんてされても何をどうしていいのやらだ。
 まして向こうが俺のこと気になってるって言うなら、余計に気を遣いそうじゃないか。きっと空回りして、おかしなこと口走って、あっさり愛想尽かされるに決まってる。
 もしかして、今日呼び出した用件ってそれなのか。わざわざ学校まで来て、そんな話がしたかったのか。だとしたら随分とお節介な奴だ。

「興味ないから、遠慮しておく」
 俺が首を竦めれば、また金子が気まずそうにする。
「興味ないって言うなよ馬鹿。可愛い彼女が出来る千載一遇のチャンスだぞ」
「けど俺、その日下部って子がどんな子か知らないし」
「悪い奴じゃない。ちょっと地味だけどな、成績はいいし、何より笑った顔が可愛いんだって!」
 金子の言い分は都合が良過ぎて、逆に怪しみたくなった。今のところ、金子が一番空回りしている。
「可愛い子なのか?」
 呆れつつ尋ねたら、金子は心底うれしそうに笑った。
「まあな。笑わせるとすげーの、にこにこしてさ。めっちゃ可愛いぞ」
 それは金子に、少なくとも俺以上の社交性があるからじゃないのか。俺は女の子を笑わせるスキルなんて持ってない。というかそこまで可愛くて仲のいい子なら、奴が付き合っておけばいい話だ。彼女が欲しいんじゃなかったのか。
 俺が複雑に思っていると、
「じゃあ決まりってことでいいか?」
 金子が話をまとめ始めた。当然びっくりする。
「え? いや、別に紹介してくれとは」
「いいから会ってみろって。話してみれば印象変わるかもだろ」
「変わるも何も、知らない相手だって言ってるのに」
 いつにない強引さに戸惑う。金子は是が非でも俺に日下部さんとやらを紹介したいらしい。だけど全く知らない子だし、そもそも彼女が欲しいとは思ってない俺に、紹介するって言っても……。
「じゃあこれから知ってけばいい」
 他人事だからなのか、金子はあっけらかんとしていた。尚も促してくる。
「いいだろ? な? なーって!」
「い、いいってば。こっちは忙しいんだ」
「そんなに時間取ることじゃないよ。一日がかりで会う訳じゃあるまいし」
「だけど……」
「何だよ、しり込みすんなよ。女の子と会うのがそんなに怖いのか?」
 挑発的なからかいにはさすがにかちんと来た。――別に、怖い訳じゃない。馬鹿にするな。
「ああもう、わかったよ」
 しつこさに溜息が出た。諦めもついた。こうでも言わなきゃ金子は納得しなさそうだ。
「しょうがないな、一回くらいなら会ってみてもいい」
 勢いに押され、結局俺は頷く。
 すると金子はにんまり笑って、
「よっしゃ。決まりだな!」
 と言うが早いか、視線を後ろへ巡らせる。
 屋上と校舎を繋ぐ非常階段。その重たいドアの向こうへ、いきなり声を張り上げた。
「くさかべー! 遠野が『会ってもいい』だってー!」

 金子の声は辺りに響き渡り、愕然とする俺の目の前で、非常階段に通じるドアがゆっくりと開いた。
 そっと顔を覗かせたのは、ショートカットに眼鏡の女の子。彼女はぎこちない動作で歩み出ると、後ろ手を組んで立つ。直立不動の姿勢の後ろで、ドアは音を立てて閉まった。
 ああ、あの顔、見たことがある。金子のクラスに行った時、教室で金子と話しているのを何度か見かけた。直接口を利いたことはなかったけど、そういえばいたなって感じの子。確かに地味で、真面目そうな子だった。日下部さんっていうのか。
 場違いなことを考えつつも、俺は金子を睨まずにはいられなかった。
「……お前、最初っからこのつもりで」
「まあな。呼び出した用件ってのがつまるところ、これだ」
 そう言うと金子は、軽く俺の肩を叩いた。
「上手くやれよ、遠野」
 完璧に他人事めいた言葉を残して、フェンスから離れる。非常階段のドアを開ける直前、日下部さんの肩も叩いていった。親指を立ててみせたのが何とも、憎々しい。
 そうして屋上には、不快な暑さと俺と日下部さんとが残された。

 気まずかった。
 というのも、単に初対面の相手だからというだけじゃなくて、彼女がずっとこの辺りにいたというなら――重たいドア越しに、もしかして俺たちの会話を聞いていたというなら、俺は既に失礼なことばかり口にしている。彼女を知らなかったばかりか、興味ないだの紹介しなくていいだのと素っ気ない言葉を並べていた。金子も金子だ、こういうことなら先に言ってくれればいいのに、回りくどい手を使うからややこしくなる。
 俺はフェンスを背にしたまま、日下部さんの動向を見守っていた。彼女は恐る恐るといった様子でこちらに近寄ってくる。素っ気ないショートの髪にセーラー服姿。夏休みなのに制服を着ているのは、学校にいるからなんだろうか。
 顔立ちはとりたてて可愛い訳でも、可愛くない訳でもない。きっと笑えば違うんだろうけど、今は強張った顔で俺の目の前にいる。眼鏡の奥の瞳もそわそわしている。三メートル手前で立ち止まって、ぶるぶる唇を震わせた。
「あ、あああの、私……」
 いきなりどもられた。反応に困った。
 俺が面食らったのがわかったのか、日下部さんは俯き加減になる。顔が真っ赤だ。
「えっと、あの、その、は、初めまして……」
 とりあえず挨拶までは辿り着いた。俺までほっとした。
「ああ、ええと、初めまして」
 何と返せばいいのかわからなくて、無難に告げた。彼女はお辞儀か頷きかわからない程度に頭を動かす。ぼそぼそと声が続いた。
「わ、私、日下部っていいます。A組です」
「あ、俺は遠野です。D組です」
 自己紹介してもらったのでこっちも応じた。同い年なら敬語を使う必要もないよなと思いつつ、生じた間には言葉を続けられなかった。これだから女の子と話すのは苦手だ。
「はい、あの、存じてます」
 日下部さんはちらと視線を上げて、俺の顔を見た。
「それでその、私――」
 目が合うとたちまちうろたえた表情に変わる。何だかもう、何もかもが気まずい。彼女は途端に俯いて、制服の胸元をぎゅっと握り締めながら彼女は、言った。
「私、す、好きです」
 すう、と呼吸をする音がして、
「遠野さんが好きです。あ、えっと、前から遠野さんのこと見てました。じ、自転車通学なさっているところとか、保健委員をなさっているところとか、そういうのを見てました。それでっ」
 俺はぽかんとして、必死の形相の日下部さんを眺めていた。金子は可愛い子だと言ったけど、可愛いと言うよりも一生懸命で、俺なんかの為にと申し訳なくなる。
「自転車をのんびり漕いでる姿が素敵で、毎日見とれてました。あ、私、通学路が途中から一緒なんです。私はその、歩きで通っているんですけど。あと、朝の全校集会で、倒れた子を運んでいく姿もとっても格好よかったです。私も一度でいいから貧血起こしたいなって思っちゃうくらいでした」
 本当に、物好きらしい。
 自分で思うのも何だけど、しみじみ感じた。日下部さんは物好きなんだ。それで何の間違いか、俺を好きになってしまったらしい。
 恋はすなわち落ちるもの。その意味が少しわかった気がする。弾みでうっかり落っこちたんだろうな、きっと。
「それと、金子くんと話してる時も、何度か見かけていて」
 日下部さんは続けた。彼女の言葉はだんだん勢いづいてきた。声すら出せない俺とは対照的に、落ちていくスピードで続けた。
「金子くんと一緒にいる遠野さんの顔も好きでした。笑ったり怒ったり、素の表情でいる遠野さんのことも。すごくすごく好きです。だから私、金子くんにお願いして、今日はこうして呼び出してもらったんです。いきなりのことで、申し訳ないとは思うんですけど、でも――私と、お付き合いしてください」
 一息にまくし立てられた言葉は鋭かった。彼女が真剣だということは十分に伝わってきた。言葉とは裏腹に震える肩も、眼鏡の奥で泣きそうな目をしていることもわかっていた。だからこそ、この上なく気まずく思った。

 もちろんこんな経験、初めてだ。女の子に告白されるなんて。しかも相手の子は初めて口を利いた子。初対面だというだけで反応に困るのに、その上告白なんて、どうしろって言うんだろう。
 こういう時はどうするべきなんだ。好きじゃない相手でも付き合うべきものなのか? それはすごく失礼な気もするけど、だからといってこんな一生懸命な子につれなくするのも後ろめたい。他人事だったなら、よく言った、頑張ったと内心で誉めてやりたいくらいだ。だけどそれだけの理由で女の子と付き合えるかと言ったら――無理。
 気の持ちようだと金子は言った。だけどその気をどう持つのかさえ、女の子に慣れていない俺にはわからない。恋にはいつ、落ちるんだろう。俺もいつか、落ちることになるんだろうか。日下部さんに? それとも、他の子に? 落ちたとして、彼女みたいに鋭い言葉を、懸命になって言えるんだろうか。

 迷った。散々、迷った。
 ずっと息を詰めていた日下部さんが、苦しそうに何度か呼吸をするくらいの間、迷っていた。屋上は陽射しが強くて、待たせる場所としては最悪だった。おまけに風もなくて、俺もだらだら汗を掻いていた。
「――日下部さん」
 汗を掻きながら名前を呼ぶと、彼女ははっと表情を硬くする。
「は、はいっ」
「その……お、俺は」
 喉が詰まった。格好悪い、日下部さんとは大違いだ。だけど真剣に答えられない方がもっと格好悪いに違いない。
 だから言った。
「付き合うとか、そういうのは、あの……すぐには、考えられないから」
「……そ、そうですよね……」
 みるみるうちに日下部さんがしょげた。参った。慌てて付け加える。
「そうじゃなくて、ええと――友達になるっていうのは、駄目、かな」
 友達。女の子の友達も、もちろん今までいたことがなかった。友達としてでさえ、女の子とまともに話せる自信はない。でも、日下部さんも俺と似たようなものだし、ぎくしゃくしつつも話せるようにはなるかな、と思った。話せるようになりたい、と初めて思った。
 気の持ちようだと金子は言った。恋は、落ちるものだとも。俺が落ちるかどうかはちっともわからないけど、その相手が日下部さんだとも限らないけど、せめて金子レベルにまで、女の子と話せるようになりたかった。
 まともに話せないなんて格好悪い。初めて、気付いた。話せなくてもいいなんて、そんなのは単なる逃げでしかなかった。
「お友達?」
 日下部さんが、レンズ越しに目をぱちぱちさせた。
「お友達に、していただけるんですか?」
 逆に聞かれた。
「え、ええと、俺でよければ……なって、くれますか?」
 丁寧語がうつった。俺が更に聞き返し、日下部さんが、大きく目を瞠る。
「は、はい! あのっ、喜んで!」
「あ……そ、そう、か。よかった……」
 俺は胸を撫で下ろす。ほっとしたかといえばそうでもなく、むしろ気まずい感じがした。日下部さんは大きな瞳で俺を見ている。何も言わずに。こっちの、次の言葉を待っているのかもしれない。――でも、これ以上、何を言ったらいいのか。何か言うべきなのか。一体何を。
 喉がからからだった。真夏の陽射しに眩暈がした。女の子とまともに話すのは難しい。ものすごく難しい。
「あの……」
 それでも何か言わなきゃと思って、口を開きかけた。次に何を言うかは決めてなかった。言いかけて途切れてしまった俺の言葉は、そのまま拾われなかった。

 不意に。
 日下部さんが動いた。
 彼女は俺の横をすり抜けて、背後にあったフェンスにしがみついたようだ。がしゃんと音がした。その音が止む前に、すう、と息を吸い込むのが聞こえた。それから。
「――金子くーんっ!!」
 びっくりするくらい大きな声を、彼女が、張り上げた。
 俺はぎょっとして、振り向く。どこからそんな声が出せるんだろうというほど細い肩越し、屋上にぐるりと張り巡らされたフェンスの向こうに、陽炎揺らめく校門が見えていた。そこにあの暑苦しい、赤いTシャツを着た姿があった。金子だ。
 金子が気付いたらしく、こちらに向かって手を上げる。
「やったよおー! 私、遠野さんに、お友達にしてもらえたあーっ!!」
 日下部さんがまた叫んで、ぶんぶん手を振った。
 金子もすかさず振り返して、その上、
「偉いぞ日下部、よくやったあー! 次はそのまま押し倒せー!!」
 などと叫んでくる。
 呆気に取られる俺の目の前、日下部さんは笑いながら、もう一度叫んだ。
「そんなの、まだ無理! 絶対無理ーっ!!」
 二人分の声が夏の空にわんわんとこだまする。
 残響が全て消えないうちに、ようやく彼女はフェンスから離れ、こちらを見た。とても幸せそうな、とびきりの照れ笑いが浮かんでいた。
「あ……ご、ごめんなさい。ついはしゃいじゃって」
 初めて、彼女の笑顔を見た。その時に。

 落ちた。
 と、思った。

 ああそうか、落ちるってこういうことか。よくわかった。夏の空の青さも、陽射しの強さも、風のない不快な空気も、遠くで聞こえる金子の笑い声も、何もかもがあっという間に別の感覚にさらわれていった。そうして眩しいものを見た後みたいに、彼女の笑顔がずっと、瞼と胸裏に焼きついていた。ショートの髪も眼鏡もよく似合う笑顔。落ちた。あっという間に落ちたんだと、自分でわかった。
 気の持ちようだと金子は言った。だけどどんな気を持ってようが落ちる時は落ちるものだ。俺だって数秒前にはこんな感覚、やってくるとも知らなかった。
 そして無性に悔しくなった。――日下部さんをあんな風に笑わせたのは誰だろう。俺か、金子か。間接的には俺なのかもしれないけど、直接的には金子だ。俺の知らないところで金子はいつも、こんな風に日下部さんを笑わせているに違いない。だから、彼女が可愛いことを知っていたんだ。俺は今のこの瞬間までちっとも知らなかったのに。金子はきっと、日下部さんの可愛さをたくさん、たくさん知っているに違いない。
 悔しかった。
 次は俺が、彼女を笑わせたい。今みたいにとびきり幸せそうな顔をさせてみたい。懸命に、鋭い言葉を口に出来るようになって、彼女を幸せに笑わせたい。

「遠野さん、私たちも、学校を出ませんか」
 何も知らない日下部さんが、笑みを消しておずおずと聞いてきた。
「あの、呼び出しておいてなんですけど……遠野さん、制服じゃないから、先生に見つかったら」
 どやされるに決まってる。金子も日下部さんも大声上げて叫び過ぎだ。この分じゃ、いつ先生方が屋上まで怒鳴り込んでくるかわからない。そりゃあ金子はもう校門にいるから、後は逃げるだけだろうけどな。
 こっちはこれから、非常階段を抜けてかなきゃならないんだ。しかも私服で。しかも、女の子連れで。ってことは相当大急ぎで逃げなきゃならない。
「じゃ、行くか」
 俺は言って、ほんの少し迷ってから、汗ばんだ手をTシャツの裾で拭いた。まだ友達の彼女に、ぎくしゃく手を差し出してみる。それだけで妙に手が震えた。
 日下部さんがきょとんとして、それからみるみるうちに赤くなった。
「え? えと、あの、その」
「……走るから。手、引いてく」
 もっと上手いこと言えたらよかったんだけどな。今の俺はこんなものだ。格好悪い。だけどいつかは懸命になって、鋭い言葉を口に出来たら。
「じゃあ、よ、よろしくお願いしますっ」
 俺の手の中に、彼女の小さな手がするりと収まる。初めて触れた女の子の手は、驚くほど柔らかだった。顔を見合わせ、お互い真っ赤になった。だけどぼそぼそ促し合い、ひとまず屋上を飛び出した。
 慣れない目には暗く見える非常階段を、手を繋いだまま駆け下りていく。俺たちのスピードは、落ちていくのと同じくらい、速かったかもしれない。
 その時、日下部さんが笑っていたかどうかはわからない。横目で見ても、また落ちてしまうだろうから。目が慣れてないから。階段を下りてる最中じゃ危ないから――学校を脱出して、陽射しの下まで飛び出してから確かめようと思う。
 見てろよ金子。次は俺が、彼女の可愛さを自慢してやるから。自慢したところで金子なら、まあな、なんて心底うれしそうに言うだろうけど。
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