Tiny garden

チョコレートの行方

 初めてチョコレートを手作りした年、あげた相手はやっぱり静司くんだった。
 家のアルバムにはその時の写真がばっちり残っていて、小学校二、三年と思しき私がチョコを捏ねて捏ねて捏ねまくって泥団子のような丸い塊を作った様子が写されている。べとべとの手と鼻の頭にまでチョコをつけて得意満面の私の隣で、どこか憂鬱そうに私を見ている小さな静司くんが可愛い。
 もう十年も前の話だからか、私はその時のことをほとんど覚えていなかった。静司くんは私の初めての手作りチョコを見て、何と言ったんだろう。実際食べたんだろうか。今の私なら『食べられなくてもしょうがないし食べなくていいよ』って絶対言うけど、当時のわがまま放題だった私なら、食べてもらえなかったらきっと泣いていたはずだった。そういうことまで、何にも覚えてない。
 ただ次の年からは手作りをやめて、市販のチョコをあげるようにしたことだけ覚えてる。
 あの頃の静司くんは大切で仲のいい幼なじみだった。まだどういう気持ちかなんて固まってなくて、でも静司くんの後をちょこちょこ追い駆けては構ってもらいたがっていた。

 それから十年が過ぎて、私達はバレンタインデーを迎えた。
 今年のチョコも手作りだ。あの頃よりはもちろんずっとましなやつ。できたら持っていくよと電話をかけたら、静司くんはこう言った。
『じゃあついでに、うちで晩飯食べてけよ』
「そうする! 静司くん家の今日の晩ご飯、何?」
『カレー。バレンタインだからな』
「……なんで、バレンタインだとカレー?」
 静司くんがさも当然のように言ったけど、私の中ではバレンタインデーとカレーが全く結びつかなかった。確かにチョコとカレーのルーって似てるけど、『バレンタインだから』って言いきるほどの説得力はない気がする。
『隠し味にチョコ入れるだろ』
 と、静司くんはやっぱり普通に答えた。
『ちなみに俺の手作り。辛いって文句言うなよ』
「大丈夫だよ、もう子供じゃないもん」
 言い返して電話を切ってから、とりあえず出かける準備を始めた。

 静司くんの家を訪ねたのは夕方五時だった。
 家に入るともう既にカレーのいい匂いでいっぱいだった。玄関に出てきた静司くんに、私は挨拶より早く頼み込む。
「ごめん、静司くん! 冷蔵庫貸して!」
「タダじゃないぞ」
 間髪入れずに返した静司くんに、私はまだ作りかけのチョコレートが入ったお弁当箱を差し出す。
「これ冷やしたいんだ。待ってたけど全然固まんなくて」
「何だこれ」
「大体わかってるくせに。チョコだよ」
 バレンタインデーにチョコを作らないで一体何を作るのか。
 とは言え、当の渡す相手の家に作りかけのチョコを持ってくる私も私かもしれない。作ったのは生チョコだ。しかもホワイトと普通のやつの二層になってるゴージャス版。でも生クリームの量が多かったのか、午前中に作ったのにまだ全然固まってない。本当は小さく切り分けてラッピングまでするつもりでリボンとかも買っておいたんだけど――まあ、それらは来年使えばいっか。
「固まんなかったら最悪スプーンで掬って食べてね」
「……何作ったんだ、希」
 静司くんは不安そうに眉を顰めた。
「生チョコだよ。言っとくけど味はばっちりだから」
「固まる前から味見済ましてんのか」
「そりゃ大事なことだからね」
 私が頷くと、静司くんは笑いながらお弁当箱を台所へ持っていき、冷蔵庫にしまってくれた。
 静司くんの家では、ご飯は台所で食べる。四角いテーブルには椅子が二つしかなくて、いつもはおばさんが座る席に座らせてもらった。おばさんは仕事に行っていて、いつも六時過ぎじゃないと帰ってこない。静司くんが一通りのご飯を作れたりするのはそのせいだ。
「ほら、ニンジンも入れといた」
 私がテーブルに着くと、静司くんは早速カレーを盛りつけたお皿を持ってきた。まさか私がまだニンジンを食べられないなんて思ってるわけじゃなさそうだけど、私は澄まして聞き返す。
「チョコも入ってる?」
「入ってるけど溶けてるぞ、隠し味だからな」
 確かに、カレーにチョコが具としてごろごろ入ってたら困るかもしれない。静司くんは私にスプーンを手渡すと、私と差し向かいに座った。
「じゃあ食べよう。いただきます」
「いただきまーす」
 二人で手を合わせて、カレーを食べ始める。
 テレビもついてないから至って静かな、二人きりの食卓。新婚さんってこんな感じかなあ、なんて。
 静司くんの作ったカレーはちょっと辛かったけど、美味しかった。チョコが入ってるかどうかはわからなかった。ニンジンもジャガイモも割と大きめでごろごろしていて、お肉も大きめの柔らかい牛すじだ。
「やっぱ静司くんはお料理上手だよね」
 私が誉めると、静司くんはにやりとした。
「ちゃんと作ってるからな。で、希はどうなんだ?」
「味はばっちりだってさっき言ったよ」
「希は昔から大雑把だったけど、まさか弁当箱に入れてくるとは思わなかったよ」
「違うの! 他にしっくり来る入れ物なかったんだもん」
 レシピには『バットに入れる』って書いてあったけど、そんなものうちにはなかった。だからお弁当箱にクッキングペーパーを敷いて、その中にチョコを流し入れた。どうせ切って持っていくんだし関係ないよねって思ってたら、まさかの固まらない事件発生。
「でも昔よりは美味しくできてるよ、期待しててね」
 カレーを食べながら私は言った。
 すると静司くんもスプーンを動かしつつ、
「昔だって結構美味かったけどな」
「……そうだっけ?」
 静司くんの言う『昔』って、アルバムに残ってるあの時の話かな。でもまさかあれが美味しかったはずないし、あれ以降に手作りしたことあったっけ。次の年からはお母さんに『ちゃんと買ったやつをあげなさい』って言われてた気がする。
 だからきっと、美味しくなかったんだろうなあって思ってたんだけど。
「小二の時だったか、希が手作りしてくれた時の」
 そこで静司くんは一旦スプーンを置いて、両手で泥団子サイズの丸を作った。
「こんなチョコ作って俺にくれただろ」
「そうだったね。その時写真、うちにあったよ」
「うちにもある。希のおじさんが焼き増ししたからな」
「じゃあ静司くん、あれ食べたの?」
 私が聞くと、すぐに頷きが返ってきた。
「当たり前だろ、美味かったしな」
「お、美味しかったの……? とてもそんなふうには見えなかったよ」
「美味いって言っただろ、あの時も」
 そう言いながらも、静司くんはおかしそうに笑い声を立てた。
「まあ中身はすごかったけどな」
「中身!? 私、何か入れたの?」
「入れなきゃあのサイズになんないだろ」
 思い出話をする時の静司くんは優しい顔をする。写真に残っている小さな頃とは全然違う、大人のお兄さんの顔だった。
 私はこういうふうに、昔のことをいっぱい覚えててくれる静司くんが好きだ。些細な思い出だって大切にしてくれる。もちろん古い思い出ばかりじゃなく、今の私のことだって。
「あの頃、俺がチョコエッグにハマっててさ。ほら、チョコの卵におもちゃ入ってるやつ」
 そういえばそんなのもあったな。中に入ってるおもちゃは、この家の二階の、静司くんのお部屋にいっぱい飾ってあった――今はないのも知ってるけど。
「そしたら希、それ作るって聞かなくて。おばさんが止めても全然駄目でさ」
「んー……その辺、ちょっと覚えてるかも……」
 駄々捏ねた覚えはあるような、ないような。まあ、わがままな子供だったからね。
「だから希の初めての手作りチョコはおもちゃ入りだったんだよな。味は問題なかったけど、本物みたいに中が空洞になってなくて、中身のシールが酷いことになってた」
 我ながら無茶苦茶なチョコあげてたんだな。私は今更申し訳ない気分になった。
「ごめんね、静司くん。食べるの大変だったでしょ」
「まあな」
 静司くんは一切否定しなかったけど、すぐに言い添える。
「でも嬉しかったよ。俺にとっても人生初めての手作りチョコだったわけだし」
 本当に嬉しそうなのは、浮かんだ笑みの柔らかさでわかった。私を見る目も穏やかで温かい。
「そうだったんだ」
「うちの母さんはそういうのやんないからな、代わりがこのカレーってとこ」
 なるほど。だから静司くん家のカレーにはチョコが入ってるんだ。
 でも、そうなると、
「今日、私と静司くんはお互いにチョコ贈り合ってることになるね」
「そうなるな」
「いいね、こういうの。バレンタインを超満喫してる感じで」
 何て言うのかな、熱烈って感じ。
 お互いにチョコ贈り合うカップルってのもなかなかいないんじゃないかな。
「ああ。今年のバレンタインもいい日になったよ」
 静司くんは深く頷いた。
「希がチョコくれた年はいつでも、いいバレンタインだ」
「本当? チョコエッグもどきでも?」
「嬉しかったよ。あの時、なんてお礼言おうかって真剣に悩むくらい」
 もしかしてそれで、憂鬱そうな顔で写ってたのかな。私のチョコに引いてたんじゃなかったんだ。ちょっと安心。
 お喋りをしながら食事を続けるうち、いつの間にかお互いに、カレーのお皿が空になろうとしていた。
 静司くんはスプーンを置き、
「今年は二人きりで迎えられてよかった。もっといいバレンタインだよ」
 そう言うと手を合わせて、ごちそうさま、と言った。
「静司くん、お替わりしないの?」
 私はするつもりでいたからちょっと焦る。静司くんとは今更何を遠慮しあう間柄でもなかったけど、静司くんが食べないならお替わりはしにくい。
「俺はいい。デザートが待ってるからな」
 振り返った静司くんが、背後にある冷蔵庫に目をやった。何だかんだ言って期待してくれてるらしい。
 あのチョコ、もう固まってる頃合いかな。確めなきゃいけないから、私もやっぱ一杯でやめとこう。

 食事の後、静司くんは冷蔵庫を開けて、私が持ってきたお弁当箱を取り出した。
 だけど中のチョコはまだ柔らかい。切り分けようと包丁を入れたらくっついてきて、断念せざるを得なかった。
「早く静司くんに食べてもらいたいのに……」
 じれったい思いでじたばたする私を、静司くんは宥めるようにぎゅっと抱き締めてきた。
「落ち着け。時間はまだあるだろ」
 昔のバレンタインにはこんなこと、絶対しなかった。あの頃はまだ、静司くんは本当にただの『幼なじみ』だった。チョコを作ったのも好きだったのも一緒に遊んで欲しかったのも、全部今とは違う理由だった。
 今はこうやって静司くんとくっついてるのが当たり前で、温かくて、嬉しくて、どきどきする。ましてや今なんて二人きりだ。どきどきしないはずがない。
「でも、そろそろおばさん帰ってくるんじゃない?」
 抱き締められたまま私が尋ねると、見下ろす静司くんは思惑を隠すみたいに真顔になる。
「今日遅くなるって。飲み会なんだよ、母さん」
「ふうん……」
「だから喜べ。チョコ固まるまでいられるぞ」
 もしかして、それで晩ご飯に誘ってくれたのかな。
 何かを察した私に静司くんも気づいたんだろう。
「今、変なこと考えただろ」
 すかさず指摘されたから、こっちも返す刀で聞いてやる。
「静司くんはどうなの?」
「考えた」
 めちゃくちゃ素直な答えに思わず笑ってしまった。だと思ってた。

 結局、私はチョコレートが固まるまで静司くんの家にいた。
 そして私が借りた包丁でチョコを小さく切り分けると、静司くんは大喜びでそれを食べてくれた。
「希も腕を上げたな。昔のより更に美味いよ」
「上がってなかったら困るよ。十年経ってるんだから」
 誉められて私は得意になったけど、来年はもうちょい手際よく作りたいなとも思う。
「来年は固まるまで時間のかからないやつにしようかな」
 そう言ってみたら、静司くんは現金にも首を横に振った。
「別にいいだろ、時間かかっても。今夜みたいに一緒にいられる」
 まあ、私としても異論はないです。
 昔とは違う。今年のチョコは、幼なじみだから作ったんじゃない。
 もちろん来年だってそうだ。静司くんが言ってくれたように、来年もいいバレンタインにする為、今から練習しとこうかな。
 来年のチョコレートの行方は、これからの頑張りにかかっている。
 チョコよりも早く気持ちの方は固まってる。こっちはもう、溶かしようがない。
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