Tiny garden

サイダーとビール

 大人になるってどういうことか、今まで何度も考えた。
 この世には失くしたら絶対戻ってこないものがあるって知ること。嘘をつくのは悪いだけじゃなくて、時には必要な嘘もあるってわかること。誰かを好きになること。好きになった人の為に、私は何ができるだろうって考えること――どれも必ず必要な条件ってわけじゃない。だけど経験する度に大人になっていくって、自分でもわかることだ。
 ただ、身体と比べて心の成長は外側からは見えにくいものだから、曖昧なままにしないよう『二十歳になったら成人です』というルールが存在している。
 そして年齢だけはどんなに急いだって、頑張ったって、早く大人になりたいと思ったって自分の意思だけじゃ増やせないものだ。
 私は静司くんと一緒に大人になりたかった。
 だけど静司くんは私より二年も先に生まれた。だから何もかも一緒というわけにはいかない。

 その静司くんは今、うちの居間でビールを飲んでいる。
 私はそれを、とうとうこの日が来たかという思いで見つめている。
 当たり前だけど私はビールを飲んだことがない。苦いらしいということは知ってるし、お父さんがよく飲むから匂いを嗅いだことくらいはある。それだけでも苦くて美味しくなさそうってわかるのに、大人の人達がビールを好きこのんで飲みたがるのはどうしてなんだろう。お父さんは苦いのがいいんだ、なんて訳知り顔で言ってたけど、そんなに苦いのが好きなら漢方薬でも飲んでればいいのに。
 でも二十歳になった静司くんも、お父さん達と同じようにビールを飲む。ごくごくと喉を鳴らして、とても美味しそうに。苦いっていうんだから美味しいはずないと思うんだけどな。
「ふうっ」
 缶から口を離して大きく息をつく。手に持った開けたてのビール缶が既に軽くなっているのが見ただけでわかった。
「おお、いい飲みっぷりだな」
 うちのお父さんが感心したからか、静司くんは照れ笑いを浮かべた。
「ありがとうございます」
「しかし早いもんだ、静司くんもついに二十歳か」
 うちのお父さんが腕組みをして唸る隣で、お母さんも今更驚いたように頬に手を当てた。
「こないだまで小学生だと思ってたのに、時が経つのもあっという間ね」
「お蔭様で、図体ばかり大きくなりました」
 静司くんはうちの両親の前ではおりこうさんのコメントをする。
 その澄ました態度をおかしいと思ったのは私だけじゃないようで、すかさず隣に座っていたおばさんに突っ込まれた。
「またこの子は大人ぶったこと言って!」
「二十歳なんだから大人なんだよ。ぶってない」
 それを静司くんが慣れた様子であしらうと、おばさんは冷やかすように微笑んだ。
「静司、調子乗って飲み過ぎないようにね。希ちゃんの前で潰れちゃ格好悪いよ?」
「潰れるかよ。お前こそ今日は程々にしろよ、連れて帰るの大変なんだから」
「親に向かってそんな言い方はないでしょ。全く、生意気なんだから」
 おばさんからすれば静司くんはいつまでも子供なんだろうなあ、と思う。おばさんは強引に頭を撫でようとして、すんでのところで静司くんに振り払われていた。私がそれを見てくすくす笑うと、静司くんもこっちを見てうっすらと笑んだ。
「希も一緒に飲めたらよかったのにな。一人だけジュースで、かわいそうだ」
 ごちそうが並んだテーブルの上には飲みさしのビールが四本、そして一本だけサイダーの缶があった。私はまだ高校生なのでもちろんお酒は飲めない。でも仲間外れになっていることを悔しいとか、寂しいとは思わない。ビールがあんまり美味しそうじゃないからというのもあるけど。
 そもそもお酒はビールだけじゃない。ジュースみたいに甘くて美味しいのもいっぱいあるって言うし、私が二十歳になったらまずそういうのを飲むつもりだ。
「あと二年したら飲めるよ。その時はまた一緒にお祝いしようね」
 そう応じると静司くんは嬉しさを押し隠すような澄まし顔を浮かべた。やっぱりちょっと、大人ぶってるのかもしれない。
 一方で、うちの両親は何となく複雑そうだった。
「希もあと二年で二十歳か……。とてもじゃないがそうは見えないなあ」
「ねえ。大学行ったら、静司くんみたいにしっかりしてくれるといいんだけど」
 複雑そうと言うか、いかにも心配そうな目を向けられて、私はどんな顔をしていようか困った。
 私も、こう見えても昔ほどは子供じゃないと思うんだけどな。

 今日は静司くんのお誕生日を祝うパーティだった。
 だった、と過去形なのは、お酒が回り出すとお父さんもお母さんもおばさんも大騒ぎし始めて、何で集まったかなんてどうでもよくなっちゃうからだ。お寿司や唐揚げ、エビフライといった晴れの日メニューのごちそうでお腹いっぱいになった後、私は新しいサイダーの缶を冷蔵庫から取り出しながら、静司くんに声をかけた。
「静司くん、私の部屋行かない?」
 このまま行くといつものようにまた三人で歌を歌い出す。うちで集まってお酒を飲む時は決まってそうなった。それはそれで楽しそうでいいことだけど、私はお父さん達みたいに酔っ払わないから同じテンションじゃはしゃげない。
 静司くんはどうかなと思っていたら、当たり前みたいに席を立った。
「行く。歌が始まる前にな」
 やっぱりか。私はにやっとして、それからもう一度冷蔵庫のドアに手をかける。
「じゃあ飲み物持ってこうよ。何がいい?」
「ビール、まだあるか?」
 意外にも、静司くんはビールのお替わりが欲しいようだ。私が冷蔵庫から缶を取り出し手渡すと、静司くんは大人っぽく会釈をしてきた。
 私の部屋は居間の真上にある。お父さん達が大騒ぎを始めたところで筒抜けだろうけど、こっちの話し声が聞こえないのは都合がいい。階段を上がった後、私は静司くんを先に部屋へ入れ、自分も入った後でしっかりとドアを閉めた。
 途端、静司くんが私の首に腕を回すようにして抱き寄せた。静司くんの腕はぽかぽかと温かくて、その後で私に触れてきた唇も熱を持っているみたいだった。
 それから唇を少しだけ離して、代わりに額をくっつけあって、静司くんは私の、私は静司くんの目を覗き込む。向こうからどんなふうに見えているのかはわからないけど、私には静司くんの目が潤んでいるように見えた。
「酔っ払ってる?」
 私の問いに、静司くんは曖昧に笑った。
「どうだろうな。結構平気だと思うけど」
「腕とかすごく熱いよ。あと、お酒の匂いする」
「気になるか?」
「そこまでじゃないけど、本当に潰れちゃわないか心配かなあ」
 そう言って私が静司くんの手にあるビール缶に目をやると、静司くんはひょいと首を竦めた。
「大丈夫だって。ほら、改めて乾杯しよう」
 促されたので、私は静司くんと並んで床に座り、それぞれサイダーとビールの缶を開けた。炭酸の抜けるぷしゅっと音が立て続けに響き、その後で私達は掲げた缶をぶつけあう。
「かんぱーい」
「静司くん、二十歳おめでとー」
 それからお互いに缶の中身を飲む。静司くんはまたしてもごくごくと喉を鳴らしながら、極めて美味しそうに飲んだ。尖った喉仏が生き物みたいに上下するのを、一足先に缶を口から離した私は何とも不思議な気持ちで眺めた。
 ビールって本当に、そんなに美味しいんだろうか。
「それって、どんな味?」
 静司くんが息をついたタイミングで、私は缶を見ながら尋ねた。
 こちらを見た静司くんはきょとんとして、缶の中身を覗いてみせる。
「どんなって……そうだな。苦いよ」
「やっぱり。どのくらい苦いの?」
「説明が難しい。苦いけど、ごくごく飲めないほどじゃない」
「そんなの、全然美味しそうに聞こえないんだけど」
 好きこのんで飲みたがるような味とは思えない。私が眉を顰めたからか、静司くんは軽く吹き出した。
「でも美味いんだよ。何て言っていいのかわからないけど」
「説明もできないような味なのに、美味しいの?」
「美味いな。冷たい炭酸が喉を下っていった後、胃がかっと熱くなる感じだ」
「それって味の感想じゃなくない?」
 喉ごしの説明じゃないかと思っていたら、静司くんはまた笑い、そして私の肩に手を回した。
「いいだろ。お酒は味わう為だけのものじゃないんだよ」
「……どういうこと? わかんないよ」
 美味しいからというだけで飲んでるんじゃないってことだろうか。聞き返した私の頬に、静司くんが自分の頬をぎゅうっと押しつけてくる。やっぱり熱い。
「飲んでみたらわかるよ。俺はわかった」
「説明してくれないの? じゃあ私、あと二年はわかんないままじゃん」
「拗ねるなよ。俺を見てればわかるだろ、今どんな気分かって」
 静司くんの目は、やっぱりどこかとろんとしている。それでいて眠そうな時とは違い、目元が赤くなっている。私が潤んだその目に見入っていたら、見られるのが嬉しいみたいに目を細めてみせた。
 いい気分、なんだろうな。
「じゃあお酒って、味はともかくいい気分になる為に飲む物なのかな」
「味はともかくとか言うなよ。美味いんだよ、本当に」
「そこがいまいち説得力に欠けるんだもん。私だったら甘いお酒にするな」
「悪かったな、説得力なくて」
 そう言いながらも静司くんは笑っている。私の髪に五本の指を差し入れ、くしゃくしゃと弄ぶみたいに掻き混ぜてくる。ビールの缶に口をつける時は、少し物欲しそうに私の口元を見る。缶の中身を呷ってから、大きく息を吐き出して、ぼそりと呟く。
「酔っ払ってみるとさ、酒の力ってすごいのかもなって思えてくるよ」
 サイダーを飲む私には、そのすごさが全くもって掴めない。黙って缶を傾ける私を、静司くんは酔っ払いらしい目で見つめてくる。
「普段なら言えそうもないことが言えそうな気になってくるんだよな」
「静司くんにも『言えそうもないこと』なんてあるんだ」
 むしろそっちの方が驚きかもしれない。静司くんは結構ずばずばものを言っちゃう人だからだ。まあ、変に素直じゃないところもあるから言えないこともなくはないのかな。
 驚く私を、缶ビールを置いた静司くんが、両腕でがばっと抱き締めた。
 お酒のせいか、静司くんは腕だけじゃなくどこもかしこも熱くなっていた。私の耳たぶに触れる唇も、熱かった。吐息がくすぐったい距離から、囁くように言われた。
「誕生日パーティなんて柄じゃないけど、お前が祝ってくれて、二十歳になってもお前が傍にいてくれて、幸せだ」
 吐息交じりの声は本当にくすぐったくて、私は笑い出しそうになるのをぐっと我慢していた。
「俺、本当にお前が好きで好きでしょうがないんだよ。ずっと昔からだ」
 静司くんはぎゅっと力を込めて私を抱き締めると、囁き声で続けた。
「お前の小さな手を引いて歩いてた頃から、ずっと。この手だけは離したくないと思ってた……」
 懐かしい思い出がまた、おもちゃ箱をひっくり返したみたいに頭の中で再生される。
 干からびそうなくらい暑い暑い夏の日、駅からの帰り道を静司くんに手を引かれて歩いた。うるさく泣きじゃくるどうしようもなく幼かった私の手を、それでも静司くんは離さないでいてくれた。
 あの頃から既に静司くんは私よりも大人で、私は静司くんの何もかもを絶対的に、疑いもなく信じていた。
 何があっても、どんなに悲しいことがあっても、この手だけは離しちゃいけないと思ってた。
 失くしたものが戻ってこないこともあるとわかり始めていたあの頃、私は静司くんを、静司くんは私を、何があっても失くしたくないものとして捉えていたのかもしれなかった。
「私も……いつからかわからないくらい前から、静司くんが好き。すごく好き」
 お酒なんて飲んでいないけど、私はそっと囁き返した。
「早く、一緒にお酒が飲みたいよ。静司くんと一緒に、普段なら言えそうもないことたくさん、たくさん言い合ってみたい」
 すると静司くんは私の顔を見ようとして頭を反らし、そして視線を合わせてから尋ねてきた。
「希こそ、言えそうもないことなんて本当にあるのか」
「ある……んじゃないかなあ。それは飲んでみないとわかんないよ」
 今はまだ全然思いつかないけど、酔っ払ったら案外思い浮かぶかもしれない。もしかしたら二十歳の私には、静司くんには普段なかなか打ち明けがたい秘めた想いが生じているかもしれないし――ちょっと想像つかないけど。
 二年後に思いを巡らせる私を、静司くんは熱に浮かされたような目で見た。
「お前の酔っ払ったとこ、すごく見たい。早く二十歳になれよ、希」
「そんな、急かされたってなれるもんじゃないよ」
 あと二年は先の話だ。こればかりは努力のしようもないし、どんなに急いだって早まりはしない。
 それまでに私、初めてのお酒は何を飲むか、決めておかないといけないな。
「私の二十歳の誕生日も、一緒にお祝いしてね、静司くん」
 今度は私の方からキスすると、静司くんは口元が緩むのを必死で我慢した澄まし顔でこう言った。
「当たり前だろ。その時は必ず、二人で酒を飲もうな」
「うん。ビールと甘いお酒と、どっちがいいかな」
「どっちでも口に合う方飲めよ。美味い方がいいだろ」
 果たして二十歳になった私は静司くんみたいに、ビールをごくごくと美味しそうに飲んでいるだろうか。それはまだわからない。
 階下からは酔っ払った三人の陽気な歌声が聞こえてきて、私と静司くんはそれを笑いながら、サイダーとビールを飲み続けた。

 大人の酔っ払い方にもいろいろあるんだなあって、今日は学んだ。
 どっちかって言うと私は静司くんの酔っ払い方が好きだな。嬉しいから。
▲top