Tiny garden

月も隠れる新婚初夜

 長い溜息の後で、静司くんがぼやいた。
「腹減った」
 意外に響いたその声に、私も思わず頷く。
「本当だね」
 さっきからお腹がぐうぐう言っている。今日は晩御飯も満足に食べられなかった。朝から慌しい一日で、いろんなことがあっという間に過ぎてしまって、ようやく二人で息つけたところ。もう夜も遅い。今から何か食べに、外へ出るのは無理そうだ。
 ましてやここ、家じゃないし。――今、静司くんと二人でいるのはホテルの一室だった。駅前にあるちょっと立派な高層ホテルだ。初めて泊まる、こんなとこ。
 二人でいる部屋は静かで、声がよく響いた。慌しい日を過ごして、その夜。ちょっとだけ疲れていたけど、眠るにはもったいないような気がしていた。
 ベッドの上で寄り添って、並んで寝転がっている。

「案外と飯食う暇、ないもんだよな」
 静司くんは天井を見上げて、まだぼやいている。子どものころから見慣れている横顔は、すっかり大人っぽくなってしまった。でも中身の方は、やっぱりそう簡単には変わらない。
「あんなに美味そうなメニュー並んでんのに、手ぇ出す暇もないんだもんな。誰の為の料理だよってつくづく思った」
「お預け状態だったよね、完全に」
 まるで犬になった気分だった。ホテルの美味しそうなごちそうを前に、私と静司くんには食べる暇もほとんど貰えなかったんだから。
 でも、上手いこと食べられたところで今夜は、味もわからなかったんじゃないかと思う。さすがにああいう場じゃ興奮しちゃうよね。私、ちっとも落ち着けなかった。すごくどきどきした。
「だけど、披露宴なんてそんなもんかも。ごちそう食べる場じゃないんだよ、きっと」
 私は隣にいる静司くんに、そっと笑いかけた。静司くんはにこりともせずに眉を顰めてみせたけど。
「うちの親はむちゃくちゃ食ってたみたいだけどな、あの場でも」
「へえ、すごいなあ。度胸あるね、おばさん」
「単に図々しいだけ」
 相変わらずだ。この年になっても静司くんの、おばさんに対する物言いはきつい。素直じゃないんだから。
「そう言うけどね、私たち、主役だったんだから」
 二つも年下の私の方が、静司くんを宥めようとしている。逆じゃないかなあ、とちょっと思う。
「主役のお披露目の場だから、やっぱりごちそう食べる暇がなくてもしょうがないよ」
「そんなもんか」
「うんうん、そんなもん」
 私が断言すると、静司くんはまた深く溜息をつく。そして、仰向けのままでもう一度ぼやいた。
「でも、腹減ったよな」
「……確かに」
 披露宴で出されたごちそうを思い出したら、余計にお腹が空いてきた。
 何か軽くでいいから、食べたい。そう思ったけど、こんな時間じゃ食べにも行けない。ホテルのレストランだって全部閉まっているみたいだし、困った。
「あ、そうだ」
 ここがホテルだってことを思い出して、私は起き上がり、静司くんの肩を叩いた。
「ねえねえ、ルームサービス頼むっていうのはどうかな」
 だけど静司くんは寝転がった姿勢のまま、呆れたような目を向けてくる。何か言いたげな顔。こっちも唇を尖らせたくなる。
「何。文句でもある?」
「あるよ。お前、ルームサービスの料金見たのかよ」
「え?」
 そういえば、見てない。っていうか、ルームサービスってものがあるって知ってただけで、このホテルにどんなサービスがあるのかまでは確かめてなかった。
「料金、見たの?」
 私が聞いたら、静司くんは重々しく頷いた。
「見た」
「ど、どうだった?」
「……すごかった」
 その口ぶりに、私も二の句が継げない。そりゃあ、滅多なことでもない限り泊まれないようなホテルだもん。ルームサービスのお値段もすごいんだろうなと、今更気づいた。
「原材料、何なんだよってくらいの値段」
「へえ……それはちょっと、頼めないね」
「無理だな」
 静司くんの、三度目の溜息が響く。
 相変わらずお腹は空いていた。何か食べるものを買い込んで置けばよかったなって、ふと思う。用意が悪いなあ、私、今日から奥さんなのに。
「引き出物、カステラだったよね」
 二人で選んだものだったから、もちろん知っていた。美味しいお店のカステラなんだ。私も子どもの頃から大好きだった。
「一つくらい取っておけばよかったね」
 そう言ったら、静司くんも鼻の頭に皺を寄せる。
「だよな。ってか、うちの親もそういうとこ気を遣って、置いてってくれりゃいいのに」
「そこまで期待しちゃ悪いよ。おばさんたちだって今日は忙しくて、それどころじゃないだろうし」
「まあ、そうだけど」
 ごろりと寝返りを打った静司くんは、うつ伏せになって私を見上げてきた。薄く笑った。
「気が利かないのは親譲りだな」
「ん?」
「俺のこと。……ごめんな、ひもじい思いをさせて」
 急に謝られるとどきっとする。だって、静司くんのせいじゃないし。
「そんなの気にしてないよ」
 慌てて私が答えたら、また笑われた。
「嘘だろ。希は腹減ってる時、口数少ないもんな」
「う……」
 図星だ。お腹空いてます、それはもう。
 でもやっぱり、静司くんのせいじゃない。静司くんとおばさんはものすごく似てるけど、でも二人とも気が利かないなんてこともない。二人とも、大好きだ。
 あ、そっか。もう『おばさん』じゃないんだっけ。――でも今更、『お義母さん』なんて呼べるかなあ。うちのお母さんと区別つかなくなるのも困るし。どうしようか、この先の為にも考えておかなきゃ。
「新妻にひもじい思いさせたら、男がすたるって」
 そんなことを言う静司くんは、ちょっとかっこいい。ベッドに寝転がったままじゃなかったらもっとかっこよかったのに。
 ……と思いつつも、私ももう一度、ごろんと仰向けに横たわった。静司くんと並んで寝そべってみる。ぴったりくっついて、だらしない格好をしてみる。
 こうしてるとなんだか、似合いの夫婦って感じしない? 似たもの同士っていうか。
「じゃ、明日は美味しいもの食べようね。思いっ切り、お腹いっぱい」
 私は静司くんの手に、自分の手を重ねた。指を絡めてみる。お揃いの指輪をしている、左手同士。
「そうするか。旅の醍醐味は飯だもんな」
「だよね。食いだおれの旅にしよう!」
「……お前なあ、新婚旅行で食いだおれって、聞いたことないぞ」
 そうかな。でもそういうのも、私たちっぽい気がしない? 子どもの頃からずっと、飾らずに過ごしてきた私たちだもん。これからもそんな感じで飾らず、気取らず、一番楽な格好でいたいな。
「まったく」
 静司くんが溜息をついた。
「希のそういうとこ、いつまで経っても変わんないよな」
 笑いながらそう言ってくれて、だから私も笑顔で答える。
「こんな私だけど、これからもよろしくね」
「おう。……とりあえず明日の朝までは、他のことで気、紛らわしとくかな」
「なになに? しりとりとかする?」
「違うよ馬鹿」
 ぐいっと、静司くんが繋いだ手を引き寄せる。身体と身体がくっついて、心地よい体温を皮膚で感じ取った。静司くんの身体は小さな頃とはうって変わって少し硬いけど、硬くなってからの方がよく知ってて、よく触れ合ってて、私にも馴染んでいるのが不思議だ。こうしてくっついていると安心するし、どきどきする。
 急にくすぐったくなって私は笑った。
「静司くん、大好き」
 私を抱き締めながら、静司くんも笑っていた。
「知ってる」
「そうじゃなくて! 何て言うのかな、こういう時!」
「希、お腹へこんでないか? そんなに腹減ってんのか」
「そうでもなくて!」
「希、愛してる」
「……う、うん」
 不意打ちを食らってぎくしゃく頷く私に、静司くんは嬉しそうな顔でキスしてくれた。

 私たちらしくて、でも夫婦らしくもある、そんな一番最初の夜が始まる。

お題:TV様より「新婚さんに贈る7つのお題」
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