Tiny garden

どっちつかずの年頃

 嘘をつくのは悪いことだと、俺は大人たちから教わった。だけど大人が子どもに対してつく嘘の中には、どうしても必要なものもあるらしい。嘘も方便という奴だ。
 俺はまだ大人じゃないだろうけど、全く子どもって訳でもない。だから嘘をつくようにと頼まれた。うちの母さんと希の母さんとで約束したんだ。――希には本当のことを教えないって。

 あれきり希はしょげ返っている。毎日のように斜向かいの、希の家の前の道路で、ぼんやり突っ立っている姿を見かけている。ゴンの帰りを待つつもりなのかもしれない。
 希はゴンを可愛がっていた。ゴンの方が希よりも年上で、おじいさん犬のゴンのゆっくりとした歩き方は、希の足の長さにちょうどよく合っていた。二人で並んで散歩している姿は毎日のように見かけたし、その散歩に俺も混ぜて貰ったことだって何回もあった。それも昔の話で、今は、ゴンはここにはいないけど。
「静司くん」
 俺が近づくと、希は力のない声で呼んできた。麦わら帽子の影が落ちた顔は血の気がなく、病気の子どもみたいだった。
「ゴン、今日は帰ってくるかな」
 顔を合わせる度に同じことを聞いてくる。俺も同じように答える。
「帰ってこないよ」
 じっと見上げてくる希はまばたきをしない。大きな目をそらさずに、俺が話すのを聞いている。こっちが目を伏せたくなる。
「おばさんに聞いただろ。ゴンはよそに貰われていったんだ」
「よそってどこ?」
「遠くだよ、ずっと遠く」
 何度同じことを言ってやっただろう。希は子どもだから、何回も繰り返してやらなきゃいけないんだ。それでも全然わかってくれなくて、今日も俺に聞いてくる。
「もう会えないの?」
 そうだ。ゴンとは、あの真っ黒い犬とはもう会えない。
「会えない。ゴンはもうおじいさんだから、希の家じゃ暮らせないんだ。しょうがなかったんだ」
 俺の言葉に希はうつむく。本当のことを知らない希を少しかわいそうだと思う。でも希は子どもだし、泣き虫だ。よちよち歩きの頃から希のことを知っているけど、本当のことを聞かされたら必ず泣くだろう。大人たちはそれをわかっているから、希に嘘をつく。俺もそうだ。
「日射病になるぞ。家に入ってろよ」
 夏休みに入ってからというもの、暑い日が続いていた。陽射しが強過ぎるから外にはいない方がいい。ここで待っていたって、どうせゴンは帰ってきやしない。
 だけど、いつもなら引き下がるはずの希は、もう一度顔を上げてきた。またまばたきをせずに俺を見る。大きな目をそらさずに。
「静司くんは知ってるの?」
「何を?」
「ゴンがどこにいるのか、知ってるの? 知ってたら教えて」
 希のぽちゃぽちゃした手は、ワンピースの裾を握り締めている。
「会いたいの。もう一緒に暮らせないのはわかってるけど、もう一回だけ会いたいの」
 必死の表情が痛々しくて、すぐには答えられなかった。嘘をつき続けなきゃいけないのに。
「もう一回だけでも会えたら、それで我慢するから」
 毎日毎日家の前に立ってゴンを待つことに、もうくたびれてしまったのかもしれない。希は何としてでも本当のことを知りたがっているように見えた。いつになくしつこかった。
「お父さんもお母さんも教えてくれないの。ゴンがどこのお家に貰われていったか、ちっとも教えてくれないの。でも私、ゴンに会いたい」
 かわいそうだ。希は本当のことを知らない。もう絶対にゴンには会えないんだってことを知らない。誰にも教えては貰えない。
 俺も、教えない。希を泣かせるくらいなら嘘をついている方がよかった。この嘘は悪くない。悪いことじゃないんだ。
「ゴンに会いたい」
 黙っている俺に、ぽつりと希の声が聞こえた。サンダルを履いた足元から丸い影が広がっていて、それはやがて、俺の影と重なった。ゴンの毛並みと同じような黒い影。アスファルトの上に染みるように広がっている。
「静司くん、ゴンの居場所を知ってるんでしょ」
 すぐ真下から聞こえてくる希の口調は、希の母さんによく似ていた。
「皆、知ってるんだよね? どうして私にだけ教えてくれないの?」
「希に言ったってわからないからな。わからないくらい遠くなんだ」
 言い訳みたいに答える。それで希も、きゅっと眉を吊り上げた。
「私、そんなにばかじゃない」
 馬鹿じゃない、それは知ってる。でも子どもだ。だから言えない。もし希がただの馬鹿だったら、本当のことを言ったって構わなかったはずだ。
 しばらくの間、俺は考えていた。もっと賢い嘘を。悪くない、希の為の嘘を考えた。
 そして、思いついたことを言ってみた。
「居場所は知ってる」
 途端、希が顔を輝かせる。
「本当?」
「うん。でもすごくすごく遠いんだ。駅まで行って、駅から電車に乗って、ずうっと行かなきゃならない」
「私、行きたい」
 そう言うだろうと思った。そのくらいは想定済みだった。
「駅まで歩けるって言うなら、連れてってやってもいい」
 俺の言葉に、希は笑って、勢いよく頷いた。
「うん! ゴンに会いに行けるなら、頑張る!」
 きっと無理だ。俺は違う意味でちょっと笑った。

 駅までの道は一時間以上ある。子どもの足には辛いはずだった。
 おまけに今日は暑い日だ。陽射しがきつくて、アスファルトまで溶けてしまいそうなくらいだった。希はきっと音を上げるだろうと思った。その時を待ちながら、俺は希を連れて歩き続けた。ゴンの歩き方よりもずっと速いペースで進んだ。
 初めのうちははしゃいでゴンの話を繰り返していた希も、次第に口数が減っていった。麦藁帽子の下の顔が、たくさん汗を掻いていた。それでも、何も言わなくなっても、希はずっと歩き続けた。俺に張り付く影みたいにずっと離れずついてきた。サンダルの底をざらざら言わせながらついてきた。
「疲れてないか?」
 何回か、俺は希に話しかけた。その度に希はきっぱり答えた。
「疲れてないよ」
 汗を掻きながら、肩でふうふう息をしながら、希は疲れてないと言い張った。真っ赤な顔をしていた。だけど俺と目が合うと必ず笑った。
 笑い返す俺は、心の中で思った。早く忘れてくれればいいのに。忘れてしまえばいいのに。――希の母さんが言ってたんだ。希は子どもだから、そのうちゴンのことも忘れてしまうって。いなくなった寂しさだけを忘れて、ゴンといた楽しい記憶だけを残して、また元気にはしゃぎ回るようになるって。だからこれはとても大切で、悪くなんかない嘘なんだって。
 希の為に必要な嘘だ。嘘をついたってちっとも悪いことにならない。そう思えば、俺にも簡単なはずだった。
 希が頑張るようなら、とりあえず駅までは連れて行く。でも電車には乗らない。ゴンのいるところが本当に遠いところだってわかれば、希だって諦めるだろう。熱さに眩みそうな頭でそう考えていた。

 一時間以上の道程を歩き続けた後、見慣れた小さな駅へと辿り着いた。
 駅舎の前で俺は立ち止まり、自然なそぶりでポケットから財布を取り出す。中身を確かめた後で、考えていた通りの台詞を口にした。
「ああ、電車賃が足りないや」
 ちらと見た背後の希が、目を丸くしている。
「静司くん、お金ないの?」
 肩を上下させながら聞かれて、俺は頷いた。
「そうみたいだ。せっかく駅まで来たけど、これじゃあ――」
「ならお金、貸してあげる」
 言うが早いか、希はワンピースのポケットから自分の財布を出してみせた。最近ようやく開けられるようになったがま口をぱちんと開いて、中から五百円玉をつまみ上げ、俺に見せる。
「これだけあれば足りるかなあ」
 子どもの言うことだ、と思った。笑いながら言ってやる。
「そんなんじゃ全然足りない。俺はもう大人料金じゃないといけないし、ゴンのいるところは本当にすごく遠いんだから」
「足りないの? そんなに遠いの?」
 希ががっかりした顔になる。すかさず付け加えた。
「そうだ、すごく遠いんだ。これからずっと電車に乗って、お金も時間も掛けて行くんだ。希は子ども料金でいいかもしれないけど、俺はちょっとお金が足りない。だから行くなら一人で行くしかない」
 知っていた。希はまだ、一人で電車に乗れない。ましてや知らないところまでなんて一人で行けるはずがない。だから諦めてくれるだろうと思った。
 大きな目の希が、まばたきを止めた。
「一人で?」
「そう。無理だろ? 希は一人で電車に乗れないもんな」
 用意していた言葉を告げて、これで希も諦めてくれる、連れて帰ることが出来るとほっとしたのも、束の間だった。
 希が、大急ぎで首を横に振った。
「……ううん、乗れるよ」
 俺の予想を裏切る発言が、希の口から飛び出した。
「私、一人でも平気。ゴンに会えるならそうするから、居場所を教えて、静司くん」
「な、何言ってんだ。平気なはずないだろ」
「平気だもん」
 強い口調で希は続ける。
「ゴンのいるところ、知ってるんでしょ? 私、一人でもそこへ行くから、教えて」
 急に喉が詰まったように俺は何も言えなくなって、思わず一歩後ずさりした。今頃になってだらだら汗を掻き始めていた。それでいてひやりとする感覚――こんなに強く日が照っているのに、寒気がした。
「教えて」
 希はしつこく繰り返す。何度も何度も俺に尋ねる。
「ゴンがどこへ行ったのか、どこで暮らしてるのか教えて。教えてよ、静司くん」
 だんだんとその表情から笑みが引いていく。今の希は、もう笑ってはいなかった。代わりに真剣な顔をして、じっと俺を睨みつけている。
 まるで俺が嘘をついていることを知っているみたいだ。気付いてしまったみたいだ。
「遠くだ」
 ようやく声を出せた。がさがさに乾いた、嘘つきの声だった。
「ずっとずっと遠くにいるんだ。ゴンは、ここからはすごく遠いところに。お前一人でなんて行けっこない。会いに行けやしないんだ。教えたってわからないくらい遠いんだから」
「教えてよ」
 希は同じ言葉を繰り返した。待ちくたびれてしまった希は、手が付けられないほど頑固だった。
「言ったってどうせわからないだろ、希はまだ小さいんだ」
 答えながら、俺は後悔していた。駅までなんて歩けないと思ってた。駅まで連れてきても、適当な嘘で納得させればすぐに帰せると思ってた。会いに行けないくらい遠くにいるってことがわかれば、希もゴンのことをあきらめるだろうと思ってた。希は子どもだから。嘘をつかれるだけの子どもだから。
 連れて来なきゃよかった。俺は嘘をつくのが上手くない。まだ大人じゃないし、子どもでもないから、嘘をつかなきゃいけないのに上手くつき通すことが出来ない。希に嘘をつくのが苦しくて、辛くてたまらない。だけど本当のことを言えば、希は、きっと。
「わかるよ」
 ワンピースの胸元を握り締めるようにして、希が言った。
「私、そんなにばかじゃない」
 ふうと静かに息をついて、続けた。
「静司くん、教えて」
「何を」
 答えた俺の声は嘘つきのまま。
 希の声は、ためらわずに俺へと投げつけられた。
「ゴンは、ちゃんと生きてるの?」

 死んだの、じゃなくて、生きてるの、と聞くあたりは、とても希らしいと思った。希は多分、信じてたんだ。ここに辿り着くまでは、少しばかり疑わしいと思っていたのかもしれないし、不安もたくさんあったのかもしれないけど、それでもずっと信じて俺についてきたんだと、俺は思った。
 でも、もうわかってしまっただろう。希は馬鹿じゃない。子どもだけど、ちっとも馬鹿じゃない。
「どうして、そんなことを……」
 俺が口を開けば、遮るように希は、
「私だってわかるよ」
 と言った。
「わかるんだもん。お父さんもお母さんも、静司くんのお母さんも、静司くんも皆、ゴンがいなくなったって言うだけで、ゴンがどこへ行ったのかは教えてくれないから。皆が私に秘密にしようとしてるの、わかるんだもん。皆が秘密にしようとしてることは、ゴンの行き先だけじゃないってわかっちゃうんだもん」
 サンダルの足元から広がる丸い影が、小さく震えだした。
「私、ばかじゃないよ。皆がそんな風にしてたら、わかるよ。ゴンにはもう会えないのかもって。ゴンはもう絶対に帰ってこないのかもしれないって。ゴンは――」
 唇を噛む。目の前の希も、俺も、同じように。
「私、だって、ばかじゃないもん」
 絞り出すような声の後で、希はもう一度俺を見上げた。
「教えて、ちゃんと教えて、静司くん」
 俺は答えなきゃいけなくなった。ここへ希を連れてきてしまったから。嘘をつくのが下手で、いくつかの嘘を重ねていくうち、希に本当のことを勘づかせてしまったから。そしてこれから本当のことを言えば、希は必ず泣くだろう。嘘をつき通すことは出来そうにない。悪くない嘘、だったのに。
 これは悪いことだ。嘘をつかずに本当のことを教えてやるのは、とてもとても悪いことだ。俺にそれが許されるだろうか。俺は、許されるだろうか。――きっと、許されるはずがない。
 だけどこうして希に見つめられていると、嘘をつき通すことは出来そうになかった。駅までの道をひたすら歩き続けた希の気持ちを、裏切れなかった。希が泣くとわかっていても、希の母さんたちとの約束を破ることになっても、嘘をつくより本当のことを言ってやる方が余程いいと思った。だって、かわいそうだ。嘘をつかれる希は子どもだけど馬鹿じゃないから、本当のことを知らないまま、辛い気持ちのままでいるなんてなんてかわいそうだ。
 ずっと、言ってやりたかったのかもしれない。嘘じゃない本当のこと、教えてやりたかったのかもしれない。とてもとても悪いことだとわかっていても、俺は。
「ゴンは死んだよ」
 俺は、ようやく言った。
「希が出掛けてる間に死んだんだ。希の家の前の道路で、トラックに轢かれて。もうおじいさん犬だったから、上手く避けられなかったんだ。だから」
 アスファルトにじわじわと広がる染みの色を覚えていた。ちょうど、俺が居合わせた。走って知らせに行った俺を、希の母さんとうちの母さんとが驚いた顔で出迎えて、それからゴンを弔った。運良く遊びに出掛けていた希が、帰ってくるまでに済ませなければならなかった。
 希には嘘をつくようにと約束した。必ず泣くだろうから、希には本当のことを教えないって、母さんたちが決めた。これは悪い嘘じゃない。必要な嘘だ。子どもの為に大人がつかなければいけない、つき通さなければいけない嘘だった。
 でも、俺は大人じゃなかった。上手く嘘をつき続けられなかった。必要じゃない嘘まで重ねてしまった。嘘を信じ込まされている希がかわいそうになった。そうして今、一番悪いことをしている。
「ゴンは遠くになんていない」
 奇妙にずきずきする思いで、俺は続けた。
「遠くどころか、この世界のどこにもいない。もういないんだ。どこへ行ったって絶対に会えない」
 悪い奴になったっていい。希にかわいそうな思いをさせるくらいなら、希に嘘をつくくらいなら、本当のことを言ってやる方がいい。全部俺が悪いってことにして、希も希の母さんたちも、めちゃくちゃに怒ってくれればいい。俺を怒って、叱り飛ばして、全部俺が悪いんだと思ってくれたら、ゴンを亡くした辛さも忘れられるだろうと思った。

 希はずっと、大きな目を見開いていた。だけど、俺が何も言わなくなってしまうと、急に思い出したように涙を浮かべ始めた。みるみるうちに涙が滲んできて、すぐに溢れた。ぽたぽたと汗のように流れ落ち出した。
「ゴン、死んじゃったの……?」
「ああ。もう会えない」
 俺が突き放すと、希は声を上げて泣き始めた。勢いよく、ずっと溜め込んでいたものを取り出したみたいにわあわあと泣いた。蝉の声よりうるさく泣き続けた。
 駅から出てきた人たちが、不審そうな目で俺を見た。俺が泣かしたように見えたんだろう。本当にそうだったから仕方がなかった。悪いのは、俺だった。
 でも、いつまでもここにいる訳にもいかない。悪役を引き受けた俺は、少し早口になって希に言った。
「もう帰ろう、希。ここにいたってしょうがない」
 希は答えなかった。子どもらしく、ためらいもせずに声を上げて泣いていた。どうしようもなくて、俺は希の手を強く引っ張って、来た道を戻り始めた。強引なやり方をしたのに、希は抵抗しなかった。悪役のはずの俺に黙って、泣きながらついてきた。
 帰り道でも希はずっと泣いていた。麦藁帽子の下の顔を真っ赤にして、人目も気にせず泣いていた。あんまり泣くから、希が壊れてしまうんじゃないかと思った。泣くだろうとわかっていたのに、だんだんと辛くなってきて俺は、遂に希に声を掛けた。
「泣き過ぎると干からびるぞ」
 でも言ってから、慌てて口をつぐんだ。これも嘘だと気付いたからだ。大人のつく嘘だ。子どもの為の嘘。必要で、悪くない嘘だけど、でも本当では決してない嘘。
 その証拠に、希はどんなに泣き続けても干からびることなんてなかった。握り締めた手は柔らかくて、しっとりしていた。

 結局家に辿り着いても、希はずっと泣き続けていた。だけど希も、希を抱き締めた希の母さんも、俺の頭を撫でようとした母さんも、誰も俺を叱ろうとはしなかった。
 叱ってくれた方がいいと思った。めちゃくちゃに怒ってくれた方が、きっといいに違いないのに。約束を破って嘘をつくのを止めた俺は、悪い奴に違いないのに。誰も俺が悪いとは言わなかった。

 それからしばらくの間、希は塞ぎ込んでいた。だけど一週間もすると、前のように元気になって、家の前ではしゃいで遊ぶようになった。子どもの希は、ゴンのいない寂しさをもう忘れてしまったようだった。
 でも、俺は忘れられない。嘘をついた時の息苦しさも、希を泣かせてしまった辛さも、アスファルトの上に広がる染みのような黒い影も全て忘れられそうになかった。
 俺は希みたいな子どもじゃない。母さんたちみたいな大人でもない。だから上手く嘘もつけないし、悪いこともするし、いろんなことを忘れられずにまだ苦しい思いをしている。すっかり大人になってしまえば、こんな思いもせずに済むんだろうか。
 いつの間にか、酷く日に焼けていた。夏の間中ずっとひりひりと痛んで、簡単には消えてくれなかった。
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