You Are Sixteen.

 家の前を通り過ぎるついでに、何気なく横目に見て――ぎょっとした。
 思わず後戻りして、石塀の向こうを覗き込む。
「何やってんだ、お前」
 いつの間にか背よりも低くなった石塀越しに、希の姿が見えた。馬鹿だと思った。庭先にビニールプールを引っ張り出して、白い水着を着て、暢気に浸かっている。
 あのビニールプールには見覚えがあった。俺と希が小さかった頃から、希の家にあった奴だ。昔は二人で入っても広いくらいだったプールは、今の希には小さ過ぎて、手足が長くはみ出している。
 本当に何やってんだ、こいつ。
「何って、見てわかんない?」
 ビニールプールの中の希が、まるで呆れたように言った。呆れるのはこっちの方だっていうのに。
 揺れる水面に浮かんでいるのは、これまた見覚えのあるラバーダッキー。昔からあった、希のお気に入りのおもちゃだったと思う。今も気に入ってるのかどうかは知らない。希の手が水面を揺らすと、水の音と一緒に黄色いあひるも跳ねた。
「まさか、泳いでるのか?」
 まさか、と思いながら俺は尋ねた。
「そうだよー」
 そして幼馴染みの答えは、そのまさかだったようだ。平然と答える様子からして何の自覚もないらしい。
 前髪から雫をぽたぽた落として、全く、いつまで子どものつもりでいるんだろう。
「希、お前な」
 俺は溜息をついた。
「今年でいくつになったんだっけ?」
「え? 十六だよ」
 また当たり前みたいに答えた。見覚えのあるプールの中で、見覚えのあるあひると一緒にいる、見覚えのない水着姿の希。
「十六にもなって、こんなところで泳ぐか? 普通」
「泳ぐよー」
「こんな庭先で?」
「うん」
「恥ずかしくないのか?」
「ちっとも」
 おかしな奴。人目が気にならないのか。田舎町だからって、誰も通り掛からないって訳じゃないのに。
 苛立ちながら、俺は石塀の向こうを睨みつけた。白い水着から伸びる手足は、知らないうちにすらりと長くなっていた。水飛沫を浴びた肌は、細かい光の粒を乗せている。もう子どもじゃないはずの希がそこにいる。
「大体、きちきちじゃないか、ビニールプール」
 俺がそう言うと、希は初めて気分を害したようだった。顔を顰めて反論してきた。
「そんなことないよ。ジャストサイズだもん」
「手足はみ出てるだろ。それのどこがジャストサイズなんだか」
 本当にジャストサイズで、全身が隠れているならよかった。そうやってまるで見せびらかすように手足をふらつかせて、背中だけプールに埋めている姿は、子どもじゃない奴がしていい格好じゃない。十六歳の希がそんな格好でいるのは馬鹿みたいで、俺を無性に苛立たせた。
「……これで十分なの! 十分涼めてるんだからいいでしょ」
 プールの中から噛み付いてくる希は、やっぱり馬鹿だ。
「希さ、お前ももう子どもじゃないんだから、そういう恥ずかしいことは止めろよ」
「何言ってんの。私、子どもだよ。まだ十六だし」
 せっかく忠告してやっても、まるで聞く耳を持たない馬鹿。
「もう十六だろ」
 俺は、『もう』の部分を強調して言う。

 身体つきは大人のようなのに、中身は子どものままらしい希。何だか危なっかしくてしょうがなかった。かと言って、何を言っても聞く気はないようだから、こっちも手段の取りようがない。
 昔はもう少し可愛い奴だったのにな。俺の言うことをちゃんと聞いて、何でも素直に頷いて。たった二つ違いということもあって、本当の妹みたいな気がしていた。素直だった頃の希に、いろいろな遊びを教えてやるのが楽しくて、あちこち連れ回していたこともあった。希もいい子だったから、どこへでもうれしそうについて来た。
 それがいつからか成立しなくなった。希は俺の言うことを聞かなくなったし、どこかへ一緒に行くこともなくなった。俺について来てくれなくなった希は、いつまでも子どもの心にしがみ付いている。俺はこうして大人になっているし、希だって、ずっと子どものままでなんていられるはずがないのに。
 俺はそういう希のことが、苛立たしくて、気に入らなくてしょうがなかった。たった二つしか違わないのに、もう見た目だって子どもじゃないくせに、子どものままでいようとする彼女が。

 石塀を挟んで、道路と庭先で俺たちは睨み合う。希の家の、緑の豊富な庭に、足を踏み入れなくなってからも久しい。
「見てるこっちが恥ずかしくなるな」
「うるさいなあ。だったら覗かなきゃいいじゃん」
 ぶつける言葉もきつくなる。
 希はまた、手の甲で水を跳ねた。黄色いあひるが波に揺れ、水飛沫が敷石の上に音を立てて落ちる。じりじりと陽射しの厳しい夏の日、敷石は相当熱せられているように見えた。
「涼むんだったら、プールでも海でも行けばいいのに」
 俺は言ってから、わざと付け足してやった。
「まあ、お前みたいなのを誘ってくれる男なんていないだろうけど」
 いないだろうけど――でも、希のことを可愛いと言う奴らがいるのは知っている。そういう連中も、希の性格を知ったらさすがにうんざりするだろう。水着姿で庭先にいる希を見たら、馬鹿みたいだって思うだろう。誰が見たってみっともないふるまいでしかない。
「余計なお世話ですー」
 希が言い返してくる。
「男の子となんて面倒くさいからいいんだもん」
 言うと思った。どこまで子どもなんだ。
「静司くんみたいなうるさい人と行ったって、楽しくないもん」
 おまけにそんなことまで言ってくる。他の連中と一緒くたにされたことは、余計にむかついた。こんなに親切な幼馴染みに向かって、うるさいはないだろ。
「何だよ、俺まで一緒にするなよ」
「ほとんど変わんないよ」
 腹の立つ奴。昔の面影なんてどこにもないくせに、希は子どものままのつもりでいる。せっかく忠告してやってるのに。
「そんなんじゃ彼氏なんて一生出来ないな」
 ここぞとばかりに馬鹿にしてやると、希はつんと顎を反らした。
「いいもん。要らないもん。彼氏はいないけど恋人はちゃーんといるから!」
「――あ? 何だって?」
 ぎょっとして、俺は聞き返した。
 今、何て言った。――恋人がいるって? 誰に。
「ほら、プール遊びにも快く付き合ってくれる、私のあひるちゃんでーす」
 希が掌に、あの黄色いあひるを乗せた。昔、お気に入りだったはずのラバーダッキー。こいつが恋人だって? まさかだろ。
「お前、馬鹿?」
 いや、実際馬鹿だけど。俺は眉を顰めた。
 だけど希はそ知らぬふりで、あひるの腹を指で押す。きゅう、と鳴き声が上がった。だからどうした。
「いいでしょ、十年来の付き合いなんだ。もーラブラブなんだから!」
 本当に恋人を紹介するように、希が言う。その態度にむっとする。それがどうした。
「……付き合いだけなら俺の方が長いだろ」
 俺が率直に事実を述べても、
「あとね、お庭でプール遊びしてても嫌味言わないし、意地悪じゃないし、ジェントルマンなんだよ」
 可愛くない口調で言い返してくる。本当に可愛くない奴!
「当て付けかよ」
 呆れるやら、腹の立つやらで俺はそっぽを向いた。それでも横目で見てみると、希はラバーダッキーに頬を寄せているところだ。
「あひるちゃん、ちゅーしよ、ちゅー」
 付き合いきれない。俺はいい加減くたびれてきて、挨拶もせずに希の家の前から立ち去った。とっとと帰ろうと、斜向かいの自分の家へと足を向ける。

 希は、やっぱり馬鹿だ。
 現実が見えてない。子どもの心にしがみついていれば、何も変わらないでいられると思っているらしい。もう既に、自分自身がすっかり変わってしまっているくせに。おもちゃのあひるが恋人だなんて暢気なことを言ってる場合じゃない。
 十六にもなって、あんな格好で庭先に出て、本当に馬鹿だ。誰が通り掛かるかわかったもんじゃない。それこそ、希のことを可愛いと言っている連中が、そこを通り掛かるかもしれない。誰かが、もう子どもじゃない希のことを見つけてしまうかもしれない。希がその誰かに攫われていってしまうかもしれない。
 見慣れない水着と、陽射しを弾くすらりとした手足。額に張り付く濡れた前髪、白い喉元、おもちゃのあひるに寄せた赤い唇。光の粒に囲まれた希の姿は、こうして容易く脳裏に焼き付く。消えずにずっと残っている。
 どこへ行くにも、大人になるのも、ずっと一緒だと思っていたのに――。

 俺は歩みを止めた。
 じりじりと熱い日射の下で、少し考える。焼き付く残像に背を押されて、すぐに踵を返すことが出来た。
 暢気にしていられないのは俺の方だ。
 だから、決めた。希が誰かの目に留まってしまう前に、誰かに攫われていってしまう前に、子どもの心から引き剥がしてやる。そしてこれからは、どこへ行くのも、どこまででも一緒だ。俺がどこまでも連れて行く。
 おもちゃのあひるになんて負けるものか。

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