Tiny garden

きっと誰よりも何よりも大切だったはず

 夏休み最後の日。
 たまたま日曜日だったから、うちのお父さんも静司くんのおばさんもお仕事が休みだった。それで、静司くんとおばさんがうちに来て、皆で一緒に夕飯を食べることになった。夕飯というか、お父さんたちはお酒を飲むのが主目的みたいで、日の落ちる前から飲み始めていた。
 午後七時を過ぎる頃には、お父さんもお母さんも静司くんのおばさんもすっかり出来上がっていた。お酒の入った時のお約束で、三人は居間で大合唱を始めた。その歌声はちょっとばかり賑やか過ぎて、私と静司くんがこっそり逃げ出してもまるで気付かれなかったくらいだ。ノリノリだった。

「俺、絶対にああいう中年にはならない」
 庭まで逃げてきた後で、静司くんはぼそっと言った。うちの庭先まで、お父さんたちの歌声は筒抜けだった。楽しそうだけど、ちょっとうるさい。
「でも静司くんっておばさんそっくりだよね」
 私がそう言ったら、ものすごくショックだという顔をされてしまった。
「似てない」
「すごーく似てるよ」
「誰が似てやるもんか、あんな奴」
 静司くんがしかめっつらになる。
「希こそ、おじさん似だよな」
「えー、そっかなあ? どの辺が」
「歌。リズム感ないとこ」
 一人だけ調子の外れた歌声があるのが、庭からでもよくわかる。お父さんの声だ。
「すみませんねえ、音痴な親子で」
 拗ねつつ言ってやる。静司くんは笑う。
「ま、言ってみれば風物詩みたいなもんだ。あの三人の合唱も」
「昔からだもんね。お酒入るとうるさくなっちゃうんだから」
「そのお蔭でこうして、抜け出してこれたんだけどな」
「……そうだね」
 それで私もつられて笑って、隣に立つ静司くんの手を握ってあげた。熱いくらいの手だった。小さな頃はよく繋いでいた手。
 夏の夜の庭は、見慣れた昼間の庭とはまるで違う感じがした。歌声の隙間をこじ開けるみたいに、虫の声が微かに聞こえてくる。月と水銀灯の明かりで、立ち木の影が伸びている。温い風が弱々しく吹いている、過ごしやすくて穏やかな夜。
「花火でもしようか」
 確か、線香花火の買い置きがあったはず。居間に戻って酔っ払いの相手をするのも大変だし、二人で花火でもする方がよっぽど有意義だ。――そう思って提案したけど、静司くんは首を横に振る。
「いい。話、しよう」
「話? 何の?」
 聞き返した私にすぐには答えず、繋いだ手に目をやる静司くん。居間から見えないように、縁側を離れたところに来たとは言え、外で手を繋ぐなんてよくないのかもしれない。万が一お父さんたちに見つかったら、きっとびっくりされる。昔とは違って、私たちはもう『お友達と手を繋ぐ』ような子どもじゃない。
 でも、お互いに手は離さなかった。離せなかった。繋いだまま、庭に立って、しばらく見つめ合っていた。ちょっと照れた。

 温い風がふと止んだ時、
「明日から学校始まるな」
 静司くんはぽつりと切り出した。
「うん」
 私は憂鬱な気分になって頷く。
 学校に行きたくない訳じゃない。宿題も終わらせてある。買ったばかりの携帯電話を友達にも見せてあげたい。そういう気持ちはあるけど、夏休みが終わってしまうのはどうしても寂しかった。
 今年の夏はいつもと違っていた。私と静司くんが、ただの幼馴染みじゃなくなった夏。昔みたいに話が出来るようになって、昔以上に仲良くなれた夏だった。その夏が終わってしまうのはやっぱり、寂しい。
「本当はさ」
 まだしかめっつらのまま、静司くんが続けた。
「もっといい雰囲気で迎えたかったんだよな」
 いい雰囲気。何だか意味深な言葉。
「今は、いい雰囲気じゃない?」
 くすぐったい思いで聞き返す。だって二人きりだし、手を繋いでるし、夜だよ。こういうのっていい雰囲気って言わない?
「あの歌がなけりゃな」
 静司くんが私の家を顎で指し示す。その後でお互い、顔を見合わせて笑った。
 歌声は陽気に続いている。これで何曲目なんだろう、手拍子と合いの手も聞こえるようになってきた。私たちがいなくなったのも、まだ気付いてないのかなあ。
「大人になるって、お酒を飲むことでもあるのかもね」
 何となく私は思う。大人はお酒を飲んで、酔っ払うことが出来る。それが出来ない私と静司くんは、まだ大人じゃないのかもしれない。
 でも、もう子どもでもないんだろうな。大人と子どもの、ちょうど間くらいにいる。
「いや、飲むにしたって限度があるだろ? 明日は母さんだって仕事なのに、大丈夫なのかね」
 何だかんだで、静司くんはおばさんの心配をしている。
 私たちはまだ、お酒を飲んだ時の気分や、お酒を飲んだ次の日の気分を知らない。たまに辛そうにしている大人を見る度、じゃあ飲まなきゃいいのにって思ったりもしたけど。
「いつか、私たちもお酒を飲むようになるのかな」
 私の質問に、
「なるよ」
 静司くんは即答した。
「絶対なる。……けど、希はおじさん似だろうから気を付けろ。きっと強くない」
「うん、気を付ける。まだ先の話だけど」
「もうすぐだよ。あと四年も経てば二十歳じゃないか、希は」
 四年もあるじゃん。今の私にとっては四年なんて長いよ。長すぎるよ。全然遠い未来にしか思えない。
 でも静司くんはあと二年、なんだよね。私よりも先に大人になっちゃうことが決まっている。こればっかりはどうしても縮められない年の差。
「一緒に大人になれたらよかったのに」
 繋いだ手に力を込めてみる。ぎゅっと握る。静司くんは握り返してきてくれた。怪訝な表情と共に。
「は?」
「だって静司くん、先に二十歳になっちゃうでしょ」
 二つ年上。だから静司くんの方が先に大人になる。変わってしまうのも静司くんが先。私はそれを、後から追い駆けていくことしか出来ない。
 思えば、ずっと繋いできた手を先に離したのも静司くんの方だったと思う。小さな頃から手を繋いでくれた仲良しの静司くんは、いつの間にかそっけなくて、少し冷たい静司くんに変わっていた。手も繋いでくれなくなった。私は相変わらず静司くんを追い駆けたかったけど、二歳の年の差は大きかった。何も出来ないまま、あっという間に疎遠になってしまった。
 誰よりも何よりも大切だった幼馴染みが、いなくなった頃のこと。
「そりゃそうだろ。一緒に二十歳になったらおおごとだよ」
 静司くんが鼻で笑う。今でもちょっと、冷たいところはある。というか意地悪。
「俺は希よりも年上でよかったって思ってるけどな」
「そう? 何で? 同い年だったら今頃は、クラスも一緒だったかもしれないのに」
 私が矢継ぎ早に尋ねると、静司くんは肩を竦める。
「年上だから、希みたいに頼りない奴を引っ張っていけるんだろ。同い年の奴には無理だよ、お前みたいのは荷が重過ぎる。俺じゃなきゃ駄目なんだ。わかるか?」
「……わかったような、わからないような」
 頼りない、かなあ。そんなに私、駄目な子?
 でも、静司くんじゃなきゃ駄目っていうのは、そうかもしれない。静司くんじゃなきゃいけなかったと思う。
 一度は離れてしまったのに、ちゃんと戻ってきてくれたのも、静司くんの方からだった。静司くんを追い駆けるのを止めてしまった私を、ちゃんと迎えに来てくれた。子どものままじゃないんだって教えてくれた。
 そう思うと、静司くんが二つ年上なのにも意味があるような気がした。静司くんが戻ってきてくれなきゃ、私はこうして、静司くんと手を繋ぐことなんて出来なかったんだから。

 この庭ではいろんなことがあった。
 小さな頃、静司くんと手を繋いで遊んだ。一緒にビニールプールに入って、あひるちゃんと遊んだ。庭にしばらく置いてあったゴンの犬小屋を見て、一緒に手を合わせたりもした。
 静司くんが遊びに来なくなった庭で、私は一人で遊ぶようになった。花を植えたり、空っぽの犬小屋をごてごて飾ったり、調子の外れた歌を歌ったりして。それから夏になるとビニールプールを引っ張り出して、あひるちゃんと遊んだりした。そうして同じ夏を何度も何度も繰り返した。
 十六の夏まで、私はずっと庭で水着を着ていた。そこへ、静司くんが来てくれた。同じ夏を繰り返す私のところへ戻ってきてくれた。そして、繰り返しの夏から連れ出してくれた。
 その夏ももう終わりだった。夏休みが終わる。季節が変わる。これからは季節が変わっても、繋いだ手を離さずにいたい。

 夜の庭は虫の声だけがしていた。ひっそり、静かだった。
 温い風も音を立てずに吹いてくるから、私と静司くんはおでこをくっつけ合って囁く。
「先に年を取ってもいいよ、静司くん」
「何だよそれ。お前の許可がないと年も取れないのかよ」
「うん、許したげる。その代わり、ずっと一緒にいてね」
「……当ったり前だ」
 手はまだ繋いでいた。熱を持っているみたいな静司くんの手が、このままくっついて離れなければいいのにと思う。明日から学校だけど、この手が離れなかったら学校でも、教室でも一緒にいられるよね。
 でも、――静司くんならまた戻ってきてくれるかな。手を離さなきゃいけなくなっても、絶対に私のところへ戻ってきてくれる。だから私も、静司くんのことを追い駆けたい。昔みたいに追い駆けていたい。

 いつの間にか歌声が止んでいたことには、しばらく気付かなかった。
 そんなことがどうでもよくなるくらい、私は静司くんのことが好きだった。
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