Tiny garden

たゆたうように うたうように

 私の家から静司くんの家は、ちょうど斜向かいにある。
 靴を履いて玄関を飛び出したら、十数える間に静司くんの家まで着いてしまう。あんまり近いから、子どもの頃は『遊びに行く』なんて感覚はなかった。まるでもう一つの家に帰るみたいな気持ちでいた。
 さすがに今はそんなこともない。と言うよりも、この夏休み前までは静司くんの家から足が遠退く一方だった。静司くんは意地悪だし、昔みたいに仲良く出来そうにないし、おばさんは遊びにおいでって気安く言ってくれたけど、子どもの頃みたいに出かけていく気にはなれなかった。
 でも、また通うようになるのかもしれないな、と思っていた。以前もそうしていたように、静司くんに会いに、静司くんの家まで飛び出していくようになるのかもしれない。せっかくすぐ近くに住んでいるんだから、会いたい時はいつでも駆け込めばいいんだ。

「――お前さ、声、筒抜けなんだけど」
 居間のソファーに腰を下ろした静司くんが、いきなり私を睨んできた。怒っているというよりは、まるで呆れているような目。
 私はその時、ちょうどお風呂から上がったところだった。あひるちゃんと一緒にのんびりお湯に漬かって、いい気分だった。歌も歌った、五曲ほど。うきうき気分のままでバスルームを出て、長めのキャミソールを一枚被って、バスタオルで髪を拭きながら居間へと向かった。麦茶でも飲もうかな、それとも牛乳にしとこうかな、なんて思いながら、あひるちゃん片手に上機嫌だった。
 その気分が一息に冷めたのは、うちの居間に静司くんがいたからだ。
「何でいるの!」
 思わず、叫んでしまった。夏休みに入ってからは頻繁に顔も合わせているし、最近はよく遊びに来てくれるようにもなったけど、さすがにいきなりすぎた。お風呂に入る前はいなかったもん。
 静司くんはきょとんとしてから、さも当然とでも言いたげに首を竦める。
「何でってお前……おばさんが上がって待っててって言うからさ」
「お母さんが!?」
「そうだよ。希はお風呂入ってるけど、多分もうすぐ出てくるから、麦茶でも飲んで待っててって言われたんだ。俺だって断りもなく上がったりはしないよ」
 そう言って、麦茶のコップを掲げた静司くん。美味しそうに一口飲む。お風呂上がりの私の喉が、ごくりと鳴った。
 ――でも、だからって! 上がり込むのはともかく、バスルームの私の歌声まで耳を澄まして聞いてなくたっていいと思う。それにお母さんもお母さんだ。静司くんが来てるならそうと一声掛けてくれればいいのに。そうしたら私だってちょっと控えたのに。歌うのを!
 っていうか、そのお母さんの姿がどこにも見えないんだけど……居間にも、台所にもいない。
「お母さんは?」
 私が尋ねると、静司くんはにやりとしてみせた。
「おばさんは買い物。留守番頼まれてたんだ、俺」
 信用されてるんだよね、実際。

 うちのお母さんはものすごく静司くんのことを買っている。斜向かいの静司くんは真面目で、礼儀正しくて、おまけに成績もいいとってもおりこうさんな子なんだって思ってる。まあ間違いはないんだけど……それだけじゃないんだよなあ、静司くんって。
 お母さんは知らない。静司くんが持ってる、おりこうさんじゃない時の顔。それと、静司くんと私が今、どういう関係なのかってこともきっと、知らない。

「座れよ」
 静司くんがソファーをぽんと叩いた。
 開けっ放しのドアの前で立ち尽くしていた私は、それでようやく我に返る。
「別に静司くんの家じゃないじゃん。何でそんなに偉そうなの?」
「お前は何で機嫌損ねてんだよ」
 にやにやしている静司くんの隣に、結局座った。
 首に引っ掛けたままだったバスタオルを被ると、わざわざ顔を覗き込まれた。静司くんは笑ってる、おかしそうに。
「お前って、相変わらず音痴だよな」
「うるさいなあ」
 知ってるよ、そんなこと。
「音程はもちろん、リズム感もないし」
 からかうように静司くんが続ける。
「ちっちゃい頃からそうだったもんな。よく外で、アニメの主題歌とか童謡とか一緒に歌ったりしたけど、俺も希も同じ歌歌ってんのに、なぜか輪唱になってたりしてさ」
 よく覚えてるよね静司くんも。本当、意地悪なんだ。
 そりゃあ私は、実際歌うの上手じゃないけど、別にのど自慢に出たいとか思ってる訳じゃないもん。お風呂で好き勝手に歌うくらい自由じゃない? 好きに歌う時まで上手くなきゃいけないって決まりはないはずだもん。
「音痴な歌、わざわざ聴いてる方が悪い」
 むっとして言い返す。
 でも、こういう時の静司くんの切り返しは素早い。
「聞こえたんだよ。筒抜けだったって言ったろ?」
 そしてすごく意地の悪い言い方。
「じゃあ聞こえないふりしててよ」
「無理。っつうかお前も大概ノリノリだったよな。合計何曲歌った? 五曲は行ってたよな」
 ずっと聴いてたんだ……。
 居た堪れなくなって、ついでに反論の言葉も浮かばなかったから、私は髪を拭き始めた。あひるちゃんはテーブルの上に置いて、両手でのろのろと拭いた。お風呂上りのいい気分はとっくに吹き飛んでいた。
 恥ずかしい。お風呂から出たのに、のぼせそうなくらい恥ずかしい。静司くんがいるとわかってたらちょっとは控えたのに。お母さんも教えてくれればいいのに!
「子どもじゃないんだからな」
 静司くんがふと、そう言った。
 タオルの隙間から、静司くんの手がちらり、覗いた。居間のテーブルに置かれたあひるちゃんを取り上げ、攫っていく。
 思わず顔を上げると、隣には複雑そうな横顔があった。手のひらの上のあひるちゃんを見つめている。お気に入りの黄色いあひるちゃんは、静司くんの手の中ではとても小さく見えた。
「本当、いつまでガキの気分でいるんだか」
 ぼやくような、静司くんの声。
 私はどうにも答えようがなくって、ただただ髪を拭き続けていた。喉がからからに渇いていたけど、ソファーから立ち上がるのも気が引けた。静司くんの隣にいたかった。

 多分私は、意地悪な静司くんも、お母さんの言うようにおりこうさんではない静司くんも好きだった。
 でも、いろんなことが急に変わり過ぎて、ついていくのがやっとだ。静司くんはこの夏休みの間にぐっと大人になったようで、私もつられるように子どもじゃなくなり始めている。庭にビニールプールを出すのも、お風呂で大声で歌うのも、あひるちゃんと一緒に泳いだり、お風呂に入ったりするのも、何となく恥ずかしくなってきた。
 いつか、全部止めちゃうのかな。あひるちゃんと一緒の入浴タイムなんて、しなくなっちゃうのかな。そう思うと少し寂しい。

 やがて、静司くんはあひるちゃんをテーブルの上に戻した。
 意外なくらいそっと置いてくれた後で、私の方へと向き直る。
「髪、拭いてやろうか」
 いきなりそう言ってきた。
「え? 何で?」
 私、いくらなんでもそこまで子どもじゃない。自分で髪くらい拭けるもん。不思議に思って聞き返す。
「何でって、俺がそうしたいから」
 薄く笑った静司くんが答えた。何それ、変な理由。
「訳わかんない」
「いいから、タオル寄越せって」
「あ」
 私の手から抜き取られたバスタオルが、次の瞬間、がばと頭に覆い被さってきた。
 布地越しに静司くんの手が触れてくる。私の髪を撫でてくる。思っていたよりも優しい拭き方で、失礼かもしれないけどびっくりしてしまった。
 こうしていると何だか、妙に恥ずかしい。どうしてだろう。下手な歌を聴かれていた時よりも、静司くんに髪を拭かれている方がよっぽど落ち着かない気持ちになった。
「お母さん、もうすぐ帰ってくるかもだよ」
 照れ隠しに言った私へ、静司くんは平然と言い返す。
「別にいいだろ、髪拭いてるとこ見られたって。何かやばいことしてるって訳でもないんだし」
 確かに、静司くんの言うとおりなんだけど。
 どうしてかすごく恥ずかしいんだもん。
「静司くん、今日は何しに来たの」
 恥ずかしさに俯きながら、私は小声で聞いてみた。
 まさか私の髪を拭きに来たとか、音痴な歌を聴きに来た訳じゃないよね。隣にいてくれるのはうれしいけど、昔みたいに来てくれるようになったのもうれしいけど、何か用事があったとかじゃないんだろうか。
「何にも」
 と、静司くんは言った。
「単に、希の顔を見たくなったから来ただけ」

 私の家は、静司くんの家の斜向かいにある。
 会いたい時はすぐにでも駆け込める距離なんだ。
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