Tiny garden

Can't Help Falling in Love.

 静司くんと海を見に来た。夕方、臨海公園まで。
 ちょっと前までは、海は泳ぐ為のもので、ただ見に来るなんて考えもしなかった。夏の海に来て泳がないなんて、じゃあ何しに行くの、なんて思ってた。日が暮れる頃に行ったってそんなに泳げないし、意味もないじゃないってぼやいてただろう。
 でも、今はわかる。海は泳ぐ為だけにあるんじゃない。こうしてオレンジがかった水平線を眺めているだけでも、静司くんと一緒ならどうしてかどきどきする。温い潮風がふわりと、首筋を撫でるように吹き抜けていくのが心地いい。波が凪いでいるのをパノラマで見ながら、私はしばらくの間黙って、公園をぐるりと囲む柵に凭れていた。すぐ隣で静司くんも、柵の上に頬杖をついて、やっぱり押し黙っていた。
 濃い色合いの太陽は、じりじりと輪郭を震わせながら水平線に触れようとしていた。もうすぐ海に落っこちてしまいそうな、すれすれのところにいる。

「……おとなしいよな」
 不意に静司くんが呟いた。臨海公園へ来て海を眺め始めてから、大分時間が過ぎていた。
 私がようやく隣を見ると、不思議そうな顔をした静司くんがそこにいた。こちらをじいっと見つめている。柵に頬杖をついたまま。
「そう?」
 訳のわからないうちから聞き返すと、ちょっと笑われた。
「もっとはしゃいでうるさくしてるかと思いきや、ずっと黙ったままでいるからさ」
「別に、話す必要もないかと思って」
 正直に私は答えた。
 今は言葉も要らないような気がしていた。こうして隣り合っていれば。
「かもな」
 短く言った静司くんも、また海へと視線を戻す。波の静かな、おとなしい海。夕暮れの光を浴びてきらきらしている夏の海。
「でも、ちょっと思い出してたよ」
 目映さに私は目を伏せながら、そっとそんなことを切り出した。
「思い出すって、何を?」
「ちっちゃかった頃のこと」
 今よりもっと子どもだった頃のこと。
「私と静司くんが小学生だった頃までは、一緒に海水浴とかで、海に来てたよね」
 私と私のお母さんと、静司くんと静司くん家のおばさんと四人で、毎年海に泳ぎに来ていた。海は子供同士で来るようなところじゃなかったし、夏に、泳ぐ為の場所だった。私は海で泳ぐのが好きだった。お庭にビニールプールを引っ張り出して、静司くんと一緒に泳ぐのと同じくらい。
「昔はな」
 静司くんも思い出しているのか、相槌は言葉少なだった。
 私はちょっと笑った。
「まだ覚えてるよ。静司くんがさ、私の浮き輪を沖に流しちゃった時のこと」
 途端に隣で、声が沈んだ。
「思い出すなよ」
「忘れられないもん。あれ、お気に入りの浮き輪だったんだから」
 もちろん怒ってる訳じゃない。あの時だって、私は小さな子どもだったけど、静司くんを怒ったりはしなかった。ただお気に入りの浮き輪が手元からなくなってしまったのが悲しくて、泣きたくてしょうがなかった。でも泳いで取りに行こうとする静司くんのことは、泣きながら止めた。浮き輪よりもずっと、静司くんの方が大事だった。これは昔からそう。
「そういえばあれもあひる柄だったな」
 ぼそりと静司くんが言った。感心したように続けた。
「お前、本当に好きだよな。あひるが」
「うん。いいじゃん、可愛いでしょ」
 そう言ったら、少し拗ねられたみたいだ。静司くんの顔が不満そうに顰められて、おかしかった。
 二つ年上の静司くんも結構可愛い。そういうやきもち焼きなところとか、困ってしまうこともあるけど可愛いとも思える。正直に言ったらもっと拗ねるだろうから、言わないでおいてあげるけど。
「いろんな思い出があるよね」
 昔の、優しいけどうっかり屋で、ぶきっちょだった静司くんとも。今の、大人にはなったけどやっぱりぶきっちょで、素直じゃない静司くんとも、いろんな思い出がある。ちっちゃな頃からずっと斜向かい同士で、一緒に大きくなった同士だ。こうして一緒にいるのも、考えてみたら当たり前なのかもしれない。
 泳ぐ為じゃなく、ただ眺める為に海に来るなら、静司くんとじゃなきゃいけない。他の男の子なんて考えられない。静司くんとだから、何もない夕暮れの海を見ているだけで、こんなにもどきどきできるんだ。
「俺はさ」
 ぽつりと、静司くんが言葉を零した。
「夏が来るといつも思い出すんだ、ゴンのこと」
「……うん」
 その名前を聞いて、私も頷く。
 ゴンは、うちで飼っていた犬だった。真っ黒い毛のカーリーコーテッドレトリバー。私が物心ついた頃にはもうおじいちゃんで、ちょっとゆっくりした動作で歩いてくれたから、私でも散歩に連れて行くことが出来た。ゴンとも、たくさんの思い出があった。静司くんに負けないくらいたくさん、一緒にいた。静司くんと一緒に散歩に連れて行ったこともあったし、静司くんもゴンが好きだったと思う。私も大好きだった。
 でもゴンとの思い出は、五年前の夏で途切れてしまった。ゴンは死んでしまったんだ。
「お前、泣いてたよな」
 静司くんが懐かしむように、私の顔を覗き込む。夕陽に照らされた表情はいつもよりも優しく見えた。
「ゴンが死んだって聞いた時、手が付けられないほど泣かれて、こっちが泣きたいくらいだった。皆がお前には嘘をついてたのに、俺が本当のことを教えてしまったから、あの後で少し悔やんだ」
 そう、そうだった。うちのお父さんもお母さんも、静司くんのおばさんも、皆が私に嘘をついてたんだ。――ゴンは遠くへ貰われて行ったから、もう会えないんだよって。私は初めのうちは皆の言うことを信じていたけど、途中で不思議に思い始めた。だってゴンがどこへ行ったのか、誰も教えてくれなかったから。私は子どもだったけど、誰かが死んでしまうことがわからないほど子どもじゃなかった。静司くんは私にゴンの死を教えてくれて、私はそれを聞いて初めて、ゴンの為に泣いた。
「教えてくれてよかったって思ってるよ」
 私はそう思ってる。静司くんが悔やむことなんてない。
「本当のことを教えて貰えなかったら、ずっと不思議に思ったままで、ゴンのいない寂しさも忘れられなかったって思うもん」
 風が出てきたみたいだ。潮の香りがする風が、静司くんの髪と、私の髪とを揺らしていく。少しくすぐったい。
「それにね、ゴンの為にたくさん泣いたら、ゴンの分も頑張ろうって気持ちにもなった。それは静司くんのお蔭」
 たくさん泣いた。一生のうちでこんなに泣くことなんてもうないだろうってくらい泣いた。散々に泣いたらすっきりして、寂しさや痛みは薄れてしまった。ゴンのことを忘れられた訳じゃないけど、いなくて辛いって思うことはだんだんと減っていった。
 あれきり犬は飼ってない。お父さんとお母さんは小さかった私に何でも買ってくれた。けど、生きてるものだけは買わなかった。私の部屋にはぬいぐるみやあひるちゃんグッズが更に溢れるようになった。それも全部、忘れていないからだ。
「でも、泣かせたのはやっぱ、辛かった」
 静司くんは呼吸をするように言った。
「あのことがあってから、俺は、早く大人になりたいって思うようになったんだ」
 十八歳の静司くんはあの頃とは違う。顔つきも、背の高さも、声の低さも、何もかも。今みたいに私をじっと見つめる時の、眼差しの強さも。
「俺がもう少し大人で、器用だったら、お前が辛くないように振る舞ってやれたのかもしれない。そう思った」
 そうかな。そんなこと、本当に出来たんだろうか。だって静司くんよりもずっと大人だったお父さんもお母さんも、静司くんのおばさんも、ちっとも器用じゃなかったもん。静司くんはもちろんぶきっちょだったけど、でも、誰より一番優しかった。私は静司くんが器用じゃなくたって、ぶきっちょでも優しくいてくれたら、それだけでいいのにな。
「だけど大人になったつもりでも、器用になれる訳じゃないんだよな」
 静司くんはそこでちょっと笑った。自分でもわかってたみたいだ。私もつられるように笑う。
 それから静司くんはこちらに手を伸ばして、私の髪をそっと触った。指先が頬をかすめて、潮風よりもくすぐったい。
「それと、俺一人だけ大人になったって、何の意味もないってわかった」
 指先に巻きつけるようにして、私の髪で遊ぶ静司くん。その仕種にどうしてか、私の心臓が慌てふためき出す。静司くんと一緒だとどんな些細なことでもどきどきしてしまう。もしかするとこれは、些細なことじゃないのかもしれないけど。
「希が、一緒に大人になってくれないと。ちっとも意味ないんだ」
 今、向けられた言葉にも、どうしようもなく惹き付けられた。
 うん、その通りだ。本当にそう思う。私も静司くんと一緒じゃなきゃ駄目だって思う。静司くんと一緒に大人になりたい。たくさんの思い出を積み重ねてきた静司くんと、当たり前のことみたいに大人になりたい。
 家族と一緒の思い出は、いつの間にか途切れてしまった。ゴンとの思い出も五年前で終わってしまった。でも、静司くんとの思い出はまだ続いている。これからもずっと続いていく。その為に私たちは一緒に大人になるんだ。
「私も、静司くんと一緒がいい」
 息をつきながら私は伝えた。
 慌しい心臓の奥にあった本当の気持ちを。
「私、まだ子どもっぽいかもしれないけど。これから、静司くんと一緒に大人になりたいの」
 伝えると、静司くんは柵から身を離して、私の頭を抱えるようにゆっくりと引き寄せた。抱き寄せられて、頬が静司くんのシャツに触れる。シャツ越しの体温に触れる。
「そうだな」
 私の耳には、静司くんの唇が触れた。どこに触れられるよりも一番くすぐったかった。
 でも逃げない。一緒にいたいから。たくさん、たくさん触れ合っていたいから。
「ずっと一緒だ。大人になるのも、これから先も、どんなことがあっても」
 静司くんの声を聞きながら、私は目を閉じてしまう。いつの間にか日が沈み切って、辺りはだんだんと暗くなっていた。でも静司くんがいてくれたら怖くない。潮風が強くなったって気にならない、静司くんの熱があれば。
「希」
 耳元で名前を呼ばれて、優しく背中を撫でられた。太陽はもう見えなくなったのに、熱くて、溶けてしまいそうだった。でもそうなることだって、きっと当たり前だった。
 これから私は、少し泣いてしまうかもしれない。だけどそれでも、静司くんと一緒がいい。積み重ねてきた思い出の先でこうして恋をすること、初めから決まっていたんだ。だから、何が起きたって構わない。ずっとずっと一緒がいい。
 静司くんはもう何も言わなくなって、代わりに深く、息をついた。その時熱い雫がぱたりと、私の肩に落ちてきた。
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