Tiny garden

In The Toy Box.

 はっきり夢とわかる夢を見た。
 夢の中で、あひるちゃんが巨大化していた。
 いつもは手のひらに乗るサイズのあひるちゃんが、私と同じくらいの背丈になっていた。多分、私に合わせてくれたんだと思う。さすがは我が恋人。優しいけど表情の変わらないクールガイ。
 夢とは言え、私はうれしくって飛びついた。あひるちゃんに抱きついて、くちばしにちょっと口づけた。あひるちゃんもキスを返してくる。思いのほか、柔らかい感触。
 あれ、おかしいな。ゴムで出来てるあひるちゃん、こんなに柔らかかったっけ。くちばしはもうちょっと硬かったような気がするのに。それに何だか温かい。あひるちゃんに舌があるのも変だ。これは、もしかして――。

 目を開けた時、そこには静司くんがいた。
 ものすごい至近距離にいて、おまけに目を閉じている表情だったけど、それでもすぐにわかった。静司くんが、私にキスしていた。
 ベッドに寝ていた私の傍に、いつの間にやら現れていた。
「ちょっ、何やってんの!」
 すぐに唇を離して、私は静司くんの肩を押す。静司くんはそれで初めて目を開けて、次の瞬間両目を大きく見開いた。たちまち私から身体を離し、気まずそうな顔になる。
「……お、起きてたのか」
 いきなりどもってみせた。目を逸らすそぶりが白々しい。
「今起きた」
 私は答えて、タオルケットを引き寄せながら静司くんを睨む。こんなことしておいて起きてたも何もない。寝起きでぼうっとする頭でも、事態は把握出来ていた。
 ここは私の部屋だ。お昼頃の強い陽射しが満ちていて、白い壁紙が眩しい。ぬいぐるみの並んだ棚を背景に、静司くんの姿がある。ベッドに両手と膝をついた静司くんは、私の視界をまだ遮っていた。
 思い出したように風が吹いてきて、レースのカーテンが揺れる。汗ばんだ肌に少しだけ涼しい。だけど頬は、それから唇は熱くて、息も上手く出来ないくらいだった。
「どうして」
 尋ねようとしたら、声がかすれた。喉が渇いた。ちょっとのお昼寝のつもりが、随分長く寝入っちゃったのかもしれない。
「どうして、静司くんがここにいるの」
 がさがさした声でも続けると、静司くんはすとんとベッドから降りて、立ったまま私を見下ろした。
「来てやったんだろ、会いに」
 静司くんの頬も真っ赤だ。そのくせ口調は何だかふてぶてしい。
「勝手に部屋に入らないでよ」
 私が言い返すと、つんとした答えが戻ってくる。
「おばさんがいいって言ってくれたんだぞ」
「え? お母さんが?」
「そうだよ。お前は寝てるけど、入って待っててもいいって」
 うちのお母さんもどうかしている。いくら長い付き合いの、斜向かいの家の静司くんだからって、こんなに簡単に娘の部屋に入れちゃうなんて。
 お母さんは知らないんだ、私と静司くんがもう昔みたいな仲良しの間柄じゃないってこと。学校ではすれ違っても口も利かないし、お外で会ったって憎まれ口を叩かれるばかり。一緒に遊ぶことなんてなくなってしまったし、もう仲良しなんて言える間柄でもないのに。
 おまけに昨日は、私たちの間柄が、もっと劇的に変わってしまうようなことが起きた。お蔭で私は寝不足で、だから昼寝をしようとしたんだ。そこに――。
「だからって」
 ベッドには寝転がったまま、私は唇を尖らせた。ちゃんと考え出すとどぎまぎしてくるから、とにかく考えないようにしていた。頭はもうぼんやりしていないのに、寝ぼけているふりで腹を立ててみる。
「いきなりあんなことしなくたって」
 あんなこと、と告げたら、静司くんの肩が一瞬びくりとした。だけどむくれた顔で答えてくる。
「別に……いきなりした訳じゃないし。大体、三十分も前からいたんだからな、俺は」
「嘘! そんなに前からいたの? 何で起こさなかったの?」
 もしかして寝顔を見られたのかと思うと、嫌だ。恥ずかしい。
「何回も声掛けたけど、希がちっとも起きなかったんだろ」
「知らないよそんなの」
「昔っから寝起き悪いもんな、お前」
 静司くんは言って、その後急に歯切れ悪くなって、続けた。
「だから、何とかして起こしてやろうと思って……ああいうやり方をしただけ」
 起こしてくれるなら、他にもやり方があると思う。寝ている女の子の部屋に入り込んで、いきなりキスするだなんて重罪だ。そりゃ、彼女が相手ならそれも許されるのかもしれないけど、私と静司くんはまだ、そういう間柄じゃない。
 まだ、幼馴染みのままだ。多分。
 昨日で変わってしまったような気がするのに、変わっていないようにも思う。曖昧でぼんやりしたままの関係。キスはしたけど、はっきり言葉にはしていない関係。
 私はタオルケットを口元まで引き上げた。さりげなく防御のつもり。
「びっくりした」
 他に形容のしようがなくて、そうとだけ訴えた。
「悪かったな」
 相変わらず嫌味っぽい口調で言って、静司くんは私に背を向けた。出て行くのかなと思ったらそうじゃなく、ベッドに腰掛けてきた。スプリングの軋む音がして、ベッドの片端が沈み込む。
 タオルケットに包まった私には背を向けたまま、静司くんが溜息をつく。
「希、お前さ」
「何?」
 その背中に尋ね返した。
 静司くんは視線を上げて、私の部屋を眺めているみたいだ。
「酷いな、この部屋」
 いきなり言われたから、むっとした。
「何が? 酷くないよ別に」
「酷いだろ」
 と言って、静司くんはゆっくり頭を動かす。ベッドに寝たままじゃ静司くんの表情は見えないけど、視線を巡らせているらしいのはわかった。女の子の部屋をじろじろ見るなんて、失礼な。
「ぬいぐるみばっかり飾って、一体幾つあるんだよ」
「うーん、小さいのも入れたら五十個はあると思う」
「多過ぎだろ」
 さすがに呆れられたみたいだ。
 でも、好きなんだから仕方ない。可愛いものを自分の部屋に置いておいて、文句を言われる筋合いなんてないもん。あちこちに飾ってるんだ、勉強机にも本棚にもカーテンレールの上にも。
「おもちゃ箱みたいだよな、希の部屋は、昔から」
 静司くんはぼやくように言う。
「十六にもなって、こういうもの飾っとくの止めろよ」
「いいじゃん、静司くんには迷惑掛けてないよ」
 大体、私の部屋に来たのだって、何年ぶりかわからないくらい久し振りのくせに。私が一人部屋を貰ってからは、ほとんど遊びに来なくなった静司くん。今日だって、まさか部屋まで来るなんて思ってもみなかったから、ろくに片付けてもいないのに。
「子どもじゃないんだからな、お前」
 その言葉には、どきっとした。
 昨日も言われた。庭先でビニールプールに浸かってた時。静司くんに言わせれば、私はもう子どもじゃないから、水着着てお庭で遊ぶのは止めるべきなんだそうだ。私は、自分では子どもじゃないのかどうかよくわからないけど、静司くんに見られるのは恥ずかしいから止めようと思った。
 だけどぬいぐるみは、別に見られても恥ずかしくない。だから飾るのを止めようとは思わない。
「静司くんが慣れればいいんじゃないの?」
 私は、だからそう言った。
 振り向く静司くんと、目が合う。慌てて逸らした。
「私の部屋に遊びに来たいなら、自分が慣れればいいんだよ、ぬいぐるみに」
 また来る気があるならだけど。来てくれるなら、だけど。
 遊びに来てくれるのは構わない。だって嫌いじゃないもん、静司くんのこと。今でも特別だって思ってるもん。むしろ今の方が、ずっと特別。
 さっきみたいな『起こし方』をされるのはちょっと困るけど、普通に遊びに来てくれる分にはちっとも気にならない。
 そう思って言ったのに、静司くんは溜息をついた。
「慣れられないって。むちゃくちゃ見られてる感じがするだろ」
「何に? ぬいぐるみに?」
「そうだよ。この部屋だけで幾つ目があるんだか」
 変なこと気にするんだなあ。結構神経質だ、静司くん。
 私が視線を戻すと、静司くんはまた振り向いた。今度は目を逸らす間もないうちに、その手がタオルケットに触れた。軽く引っ張られたから、私は慌てて引っ張り返す。
「それに、この柄だってどうかと思うし」
 こっちを見下ろす視線が、どことなく恨みがましい。
「可愛いじゃない。気に入らない?」
「気に入らない。何であひる柄なんだよ」
 もちろん、好きだから。
 あひるちゃんはお気に入りだ。お風呂用のゴムのあひるちゃんだけじゃなくて、あひるちゃんグッズはいろいろ持ってる。例えば学校で使うペンケースだってあひるちゃん柄だし、雨傘だってそう、白地に黄色いあひるちゃんが描いてある奴だ。それから今、私が包まっているタオルケットもそう。黄色くて愛らしい顔のあひるちゃんがあちこちに散りばめられた模様だ。
 静司くんはそれが気に入らないらしい。眉間に皺を寄せていた。
「あいつとは別れろって言ったのに」
 舌打ちしながらそう言うから、私も唇を尖らせる。
「だって、出来ないもん。捨てるのなんてもったいないし、今でも好きだし……」
 変な話かもしれない。おもちゃのあひるちゃんを恋人にしてた私と、それにやきもちを焼いてる静司くん。私の趣味も子どもっぽいってわかってるけど、本気にしちゃう静司くんだって十分子どもっぽい。私よりも二つも年上で、何かと大人ぶってるくせに。
「そんなに好きなのか」
 また、静司くんがタオルケットを引っ張った。今度は全部持っていかれた。顔を隠すものがなくなって、私はうつ伏せになって枕に顔を埋める。
「うん」
 頬っぺたを枕に押し付けて、答える。力のない、はっきりしない声になった。まさか、さっき夢で会いましたなんてことは言えない。
 静司くんはタオルケットを放って、おもむろに手を伸ばしてくる。枕の横に置いた、私の手を握る。汗ばんだ手。今日の気温よりもずっと、暑い。
 いつの間にか風は止んでしまって、おもちゃ箱みたいな部屋には、重苦しい空気が満ちていた。暑さに頭がぼうっとしてきた。息が苦しい。
 うつ伏せの姿勢で、身動きも取れない私の手を、ぎゅっと強く握り締めて。
 静司くんが、ふと言った。
「じゃあ、俺は?」
 枕から顔を上げると、視線が絡まる。風のない熱せられた空気の中で、しっかりと結びついて逸らせなくなる。
「お前の中に、俺の入る余地って、あるのか?」
 尋ねてきた静司くんの目は、真剣だ。昨日と同じ。ビニールプールに浸かっていた私にキスをした時と同じ目をしている。
 昔みたいに優しい顔はしてない。だけど、目が離せない。

 私は答えた。
「昔から、あったよ」
 静司くんは多分知らないだろうけど、私の初恋の人は、静司くんなんだ。
「ずっと前から静司くんは、特別だったもん。今も、そう」
 手が更に強く、痛いくらいに強く握られた。
「あひるちゃんよりもずっと長い付き合いなんだから、当たり前でしょ?」
 言ってから、もう片方の手を、静司くんの手に添える。
 ベッドの端に座った静司くんは、じっと私を見下ろしている。抑えた声でこう言った。
「特別って、どのくらい特別なんだよ」
「一番、でいいよ」
 私はちょっと笑ってあげたのに、静司くんは不満げに鼻を鳴らした。
「一言余計だ。素直に言えよ、一番だって」
「静司くんほど酷くないよ。私、素直に言ったもん」
 そうだ、ちゃんと言った。順番で行けば、次は静司くんの番だ。
 だけど静司くんは何も言わなかった。代わりに大きく身を乗り出すと、顔を上げたままで寝転んでいる私の頬に、素早く唇で触れた。
 あんまり素早くて、あっという間で、声を上げる暇もなかった。
 唇と手を離した静司くんは、弾かれたように立ち上がる。
「そろそろ起きろよ。出掛けるぞ」
「出掛ける? どこに?」
 短いキスに呆気に取られていた私は、やっぱりぼんやり聞き返す。
 首だけ振り向いた静司くんが、私を睨んだ。
「昨日言っただろ。海でもプールでも俺が連れてってやるって」
「い、言ったけど……まさか、これから行くの?」
 お昼寝を始めたのが十時過ぎだったから、もうお昼は過ぎてる頃だと思う。ご飯も食べなきゃいけないし、今から出掛けるなんて遅くなっちゃうのに。
 なのに、静司くんは平然として、
「おばさんには言っといたからな。今日は遅くなるから夕飯要らないって」
「ええっ! 何で勝手に!」
「いいって言ってたぞ、おばさんも。俺と一緒なら安心だってさ」
 勝手なことを言いながら、私の部屋を出て行こうとする。
 ドアノブに手を掛けて、一度部屋を見回して、ふとベッドの上の私に視線を戻した。
「それと、今度から俺が来る時は、少しぬいぐるみを片付けとけよ」
 何で? 起き上がった私はぽかんとしたけど、静司くんは苦笑していた。
「そいつらの視線感じると、やましい気分になるんだよ」
 別にそれは、ぬいぐるみのせいじゃないと思うけどなあ。
 でも、子どもじゃない静司くんと、子どもじゃないらしい私とが一緒に過ごすなら、確かにおもちゃ箱みたいな部屋は相応しくないのかもしれない。静司くんにこれから連れて行って貰うところは、もう少し私たちに相応しい場所なのかな。そこで私たちは、どんな関係になるんだろう。
「あひるのことは許してやってもいい」
 相変わらずつんとした口調で、静司くんは言った。
 あひるちゃんと夢の中でキスしたことは秘密にしよう。それこそやましかったから、起こされた時のキスは許してあげて、私も素直に応じることにした。
「うん。すぐ準備するから、ここから連れ出してね、静司くん」

 静司くんに連れられて、おもちゃ箱みたいな部屋を出る。
 これから行く先はまだ知らないけど、私たちはもう子どもじゃないんだから、きっとどこへ行くのだって平気だ。
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