Tiny garden

懐かしい色

 街中を歩いていて、その髪の色を見かけた時、はっとした。
 ミルクティー色の髪、懐かしい色だった。
 車道を挟んで向こう側の歩道を歩いていく人はもちろん見知らぬ人で、彼であるはずはない。わかっていても目を奪われてしまうのは、その色が古い思い出となりつつあるからかもしれない。

 伊瀬が私の前に現れた夏から、もうすぐ三年が経とうとしている。
 私は既に学校を卒業し、市役所勤務の社会人になっていた。伊瀬も来年三月には大学を卒業する予定で、現在は就職活動の真っ最中だ。地元で就職したいからと言ってちょくちょくこちらへ帰ってきている。
 今日も面接があるそうで、せっかくこっちに戻るのだからと、終わったら落ち合うことになっていた。

 待ち合わせ場所のファミレスに、伊瀬はスーツ姿で現れた。
 髪もかっちりセットして、ネクタイも締めて、見た感じは既に勤め出した社会人のようだ。線の細い黒のリクルートスーツは今の伊瀬によく似合っている。
「面接、どうだった?」
 席に着いた伊瀬が烏龍茶とオムライスを注文したところで、私は彼に尋ねた。
「んー……まあまあかな」
 伊瀬は眉根を寄せて難しい顔をする。
「手応えがあったような、なかったようなってとこ」
「随分曖昧に聞こえるけど、期待できそう?」
「期待はいつでもしてるよ。毎回そんな感じだ」
 就職活動は決して順調ではないようだった。でも伊瀬は挫けるそぶりもなく、至って前向きに挑んでいる。そういうところは昔とちっとも変らない。
 そして、あの夏に会った二十二歳の伊瀬とも同じだった。
 気がつけばまた夏が訪れようとしていて、私と伊瀬は共に二十二歳になっていた。あの頃の大人の伊瀬に追いついていた。あの伊瀬も、私の目の前にいる伊瀬も同じ人なのだから、二十二歳になればああいうふうになるんじゃないかと思っていた。でもこちらの伊瀬は私の記憶に残っている大人の伊瀬とは少し違う。
 例えば、髪の色。光に当たると茶色く見える程度の黒。私が知る限り、伊瀬は一度として髪を染めたことがないはずだった。
「……何だよ、じっと見て」
 ふと目が合って、すっかり大人になった伊瀬がにやりと笑った。
「俺のスーツ姿に見とれてんのか、キク」
 その言い種、やっぱり伊瀬は伊瀬だ。私は笑って言い返す。
「うん、すごく大人になったと思う」
「それは当たり前だろ、もう二十二だぞ」
 あの頃は途方もないくらい大人に思えた二十二歳という年齢に、私達はとうとう辿り着いた。実際になってみたら彼ほど大人になれたようには思えないし、私にとってあの夏の伊瀬はいつまでも年上の人なのかもしれなかった。
 今、私と向き合っている伊瀬が私とずっと同い年で、私とずっと一緒にいてくれる伊瀬であるのと同じように。
 私はもう一度、伊瀬の髪に目をやった。ファミレスの大きな窓からは初夏の眩しい光が差し込んでいて、伊瀬の髪を柔らかく薄い茶色に見せていた。
 あのミルクティー色に染めることは、結局一度としてなかった。
「伊瀬は、髪を染める気はなかったの?」
 何となく、私は尋ねた。
 唐突な質問だったからだろう、伊瀬はきょとんとしている。
「何で急に? 就活中だし、それはちょっとまずいだろ」
「ううん、今じゃなくて。大学にいる間に染めたくなったことってないの?」
「髪切りに行った時とか、興味あって話聞いたことはあるけどな」
「でも染める気にはならなかった?」
「まあ、な」
 伊瀬は曖昧に頷いた後、私に向かって軽く笑ってみせた。
「お前が似合うっつったら染めたかもしんないけどな」
 似合うかどうかは、よくわからない。あの伊瀬に明るいミルクティー色の髪は確かにとてもよく合っていたけれど、今の伊瀬は今の自然な髪色の方がいいと思っている。
 だから、首を横に振った。
「染めて欲しいわけじゃないの。ただ、染めたらどうなったのかって思っただけ」
「どうなったんだろうな……仮にやるとしたら、どんな色がよかったと思う?」
 伊瀬が聞き返してきたので、私は一瞬ためらった。
 でも、言ってみることにした。
「ミルクティー色、とか?」
 途端に伊瀬は目を剥いて、それから喉をくつくつ鳴らす。
「何だそれ、染めるにしてもいきなりド派手すぎだろ」
「そ……そう?」
「さすがにお前の頼みでも抵抗あるわ。俺に似合うとも思えねえし」
 そう言って、伊瀬はしばらく笑い続けていた。

 いつかは伊瀬が、あの髪色にするんじゃないかと思っていた。
 私から勧めるつもりはなかったし、それはもちろん伊瀬の自由だ。ただあんな派手な色に――伊瀬本人が目を剥くくらいの明るい色合いに髪を染めていたのには、何か理由があるような気がしていた。伊瀬と一緒にいたら、その理由がわかる日が来るんじゃないか、とも。
 だけど三年が過ぎても伊瀬が髪を染める気配はまるでなく、ミルクティー色の髪は私の中で古く懐かしい記憶となりつつある。
 あの伊瀬が髪を染めた理由も謎のままだ。
 多分もう、解き明かす術なんてないんだろう。
 正直に言えば、知りたいのかどうかさえ自分でもわかっていなかった。例えばあれが大学時代に知り合った誰か可愛い女の子から勧められたものだとしたらきっと、少しはショックだろうし、それでなくても私の知らない伊瀬を知ってしまうのが怖い気持ちはあった。あの伊瀬は私とずっと離れていて、私がハガキを送るまで会うことすらなかったくらいだから――。
 彼は、本来なら会うことさえできなかった人だ。これからだって何一つとして知ることはできない、許されないのかもしれなかった。

 私には、伊瀬がいる。
 私と一緒にいてくれて、私と同じように二十二歳になってくれた伊瀬がいる。
 あの夏の伊瀬とは違う姿で私の前にいる理由も、きっとそういうことなのだろうと思う。

 伊瀬がオムライスを食べ終えるのを待ち、私達はファミレスを後にした。
 それからしばらく街中を二人で歩いていたけど、
「……ああ、そう言や」
 CDショップの前に来た時、伊瀬が足を止めて口を開いた。
「最近聴いてんだよ、このバンド。去年メジャーデビューした連中なんだけどさ」
 店頭には、かろうじて名前だけ知っているロックバンドの宣伝ポスターが貼られていた。伊瀬は電車に乗ってこちらへ来る時、もっぱら音楽を聴いているのだそうだ。
「このボーカルが、言われてみりゃミルクティー色って頭だよな」
 伊瀬がポスターを目で示す。
 そこに写っているバンドのボーカルは、確かに懐かしい髪の色をしていた。
 あの夏にあった伊瀬と同じ、髪の色だった。
「けどこの色じゃ就活できねえし、そもそも俺に似合うか微妙だよな」
 愉快そうにポスターを眺めやった後、伊瀬は私を振り返る。そして目を瞬かせた。
「何だよキク、何をにやにやしてんだよ」
「ううん、別に」
 私は自然と緩んでくる口元を引き締めようとした。でも、できなかった。
 このバンドの影響だった、なんて決まったわけじゃない。他にも何か、この色にした理由があったのかもしれない。
 だけど、もう知ることができないと思った人のかけらを、ここで拾えた気がしたから。
「俺がやっても似合うかな、この色」
 私がポスターを凝視していたからだろうか。伊瀬が不意にそう言った。
 振り向くと、伊瀬も私に視線を返す。真っ直ぐな目だった。大人になった今でも、こうして迷わずに私を見てくれるのが幸せだった。もうじきあの夏が来る。でも予感がしている。この伊瀬はどこへも行かず、ずっと私の傍にいてくれるはずだって思う。
 だから私は首を横に振る。
「私は、今の伊瀬が好き」
 そう告げると伊瀬は、ちょうどさっきの私みたいに解ける口元を引き締めようとして、やめた。
 そして、全開の笑顔で言ってくれた。
「ありがとな。俺もだ、キク」

 ポスターに映されたミルクティー色の髪が懐かしい。
 それから何年経っても、この先ずっと伊瀬と一緒にいても、この色は私にとって永遠に『懐かしい色』となるんだろう。
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