Tiny garden

忘れないで

 隣の県で暮らす伊瀬の部屋を訪ねて、楽しい休日を過ごしたその帰り。
 電車に乗るまで見送ると言ってくれた彼の言葉に甘え、二人で駅のホームまで出た。
 日が沈みかかった秋の夕暮れ、オレンジ色の眩しい光が差してくるホームで電車を待つ。刻一刻と近づいてくる別れのタイムリミットに、だんだん言葉数も少なくなる。いつもはうるさいくらいによく喋るのに、私も伊瀬も不自然なくらい黙り込む。今日の名残りを惜しむように肩を並べて、手を繋いだまま。
 そんな時、ふと、いつも同じことを口にしてしまう。
「私のこと、忘れないでね」
 沈黙を割って告げた私に、十九歳の伊瀬はいつも奇妙そうな顔をする。染める前の髪は夕日を透かしてオレンジ色に光って見えた。
「何言ってんだ、忘れねえよ」
 それから肩を竦めて、私の不安が杞憂だとでも言いたげに続ける。
「俺、そんなに忘れそうに見えるか? ちょっと離れて住んでるからって」
 電車に乗って二時間、それが今の私と伊瀬の間にある距離だ。会いたくなったからといって気軽に会いに行けるほど近くはなく、でもお金と時間に余裕ができる度に会いに行ってしまう距離。
 あの夏に気持ちを確かめ合ってからというもの、私達はよくこうして会っていた。私が伊瀬の元を尋ねていくのがほとんどだったけど、冬休みにはこっちへ帰ってきてくれるそうだ。まだ秋のうちからその日が待ち遠しくて仕方がなかった。
 片想いだった恋が叶って、今は不安なんて何もなかった。
 それでも私が伊瀬に『忘れないで』と言いたくなるのは、今とは違う未来を知っているからだ。
 忘れないで、と言えなかった未来を。
「うん、わかってる。伊瀬は一旦忘れてもちゃんと思い出してくれる人だって」
 私は伊瀬の顔を見て、笑ってそう告げた。
 でも彼はたちまち不満げに眉を顰めてしまう。
「何で忘れること前提なんだよ。忘れねえって」
 私を安心させる為か、もしかしたら咎める意味でか、繋いでいた手に痛いくらいの力を込めて握ってきた。
「伊瀬、痛いんだけど」
「うるせえ、人を疑った罰だ」
「疑ったんじゃないってば。ねえ、もうちょっと優しく握って」
「嫌だ。これに懲りたら彼氏をもっと信用しやがれ」
 拗ねた顔で言う伊瀬は十九歳らしく、まだほんの少し子供っぽい。髪はまだ染めていなくて、顔つきは高校時代から変化がないように見える。この髪が、この顔つきがあと三年であんなふうに変わってしまうなんて、何だか想像もつかない。
 でも繋いだ手の大きさだけは、記憶の中にあるものと――二十二歳の伊瀬と、何も変わりはなかった。

 忘れそうに見えるとか、信用していないとか、そういうことじゃない。
 私は、私のことを忘れてしまった未来の伊瀬を知っている。確かに会った。話もした。
 全てを打ち明けてくれた時、大人になった彼は、とても辛そうで悲しそうだった。
 私はただ、私の好きな人にそんな思いをさせたくないだけだ。

「忘れないで、っていうのはね」
 ようやく彼の手の力が緩んだところで、私は伊瀬に説明した。
「私なりの努力って言うか……おまじない、かな」
「おまじない? キク、そういうの信じる派なのかよ」
 その時、伊瀬は笑った。それはそうだろう、十九にもなっておまじないだとか、もっと不思議なことを本気で信じているのは多分、馬鹿げている。
 私も笑って、続けた。
「そんな大した話じゃないの。言い続けてれば本当になるって思ってるだけ」
 十九歳の私は伊瀬のことが好きだった。でもそのことを口にはできなかった。
 結果、私はやがて他の人を好きになり、伊瀬は私を忘れてしまった。
 それが私にとって不幸な未来だったわけではないと思う。現に伊瀬は、私が幸せそうだったと教えてくれた。未来の私はその選択を何も後悔していなかったのだろうし、過去の失恋も時の流れと共に呑み込み、受け止めてしまっていたのだろう。でも――。
 今の私はこの恋を過去にはしたくなかった。たとえそれが未来の私の意思に反していたとしても。
「むしろ、言い続けなくちゃ駄目なんだって思ってる」
 忘れないで、私のことを。
 この言葉はきっと、今の私の好きな人を幸せにできるだろう。
 そして私は伊瀬が幸せになる未来を選んだ。いや、選び続けていくつもりだ。
「思ってることを口にしなくちゃ何にも変わらないままだった。伊瀬とだって。そうでしょ?」
 そう問いかけると、伊瀬はどうも釈然としない様子で首を捻る。
「うーん……言いたいことがわかるような、わからねえような」
「そんなに難しくないと思うけど。伊瀬が好きって言い続けるのと同じことだもの」
「同じかあ? 好きって言われんのはともかく、忘れないでってのは……」
 伊瀬は尚もすっきりしない顔で首を傾げていた。
 だけど直に深く息をついて、ぼやくみたいに言った。
「まあ、これだけ離れて暮らしてるんだしな。お前がそう言いたがるのもわかるけど」
 もうすぐ、電車が来る。
 私は一人でそれに乗って、向こうの街に帰らなければならない。別れ際はいつも寂しい。でも同時に、また来ようと強く思う。
 思いを口にし続けるのも、伊瀬に会いに行き続けるのも、この恋を未来まで届ける為の私なりの努力。そして、おまじないだ。
「でも、お前のことはそうそう忘れねえよ。心配すんな」
 伊瀬が屈託のない笑みを浮かべる。
 その言葉に嘘がないこともわかっているから、私は何度も繰り返す。
「うん。忘れないでね」
「わかってる。お前こそ、そっちの学校楽しいからって俺のこと忘れんなよ」
「私は忘れられそうにないもの、何があったって……あの夏からのことは、ずっと」
 今考えてみても夢のような、奇跡みたいな出来事だった。多分もう二度と、私の身にあんな幸運は巡っては来ないだろう。
 瞼を閉じると、二十二歳の伊瀬の姿を今でも思い出すことができた。今よりかなり大人びていて、髪の色なんて目の覚めるようなミルクティー色で、服のセンスだって全然違ってた。話し方はあまり違わなかったけど仕種とか、私に言い聞かせるような物言いは確かに年上の人みたいだった。伊瀬のことが好きだと言った私に、キスはしてくれなかったことも含めて、あの人は確かに大人だった。
 私の好きな人。
 私が、幸せにすることはできなかった人。
「……何かお前、ちょっと変わったよな」
 隣にいる伊瀬が、不意にそんなことを口にした。
 瞳を開けると、先程より色濃くなった夕暮れの光の中、彼はまるで見とれるように私を見ている。
「高校時代よりも一気に大人びたっつうか……落ち着いた?」
「それ、昔は落ち着いてなかったみたいに聞こえるんだけど」
「お互い様だろ。でも今は、一足先に大人になったように見えんだよな」
 伊瀬はその後もしばらく、穴が開くくらい熱心に私を見つめていた。私がその視線を黙って受け止めていると、やがてどことなく寂しげなそぶりで聞いてきた。
「なあ、俺の知らないところで何かあったとかじゃねえよな?」
 彼からの鋭い問いに、私はつい笑ってしまった。伊瀬も意外と私のことをよく見ているのかもしれない。
「別に何もなかったかな。伊瀬のこと以外は」
 私が答えたのと時を同じくして、電車がやってくるアナウンスがホームに流れた。
 程なくして線路の向こうから、けたたましい音と強い風圧と共に電車が近づいてくる。次第に速度を落としてホームに滑り込んでくる電車が完全に停まるまで、私達は手を繋いでいた。
 電車のドアが開く。降りる人がホームになだれ込んでくる。それに飲み込まれないようにドアの脇に立った私達は、最後に視線を交わし合う。
「またね、伊瀬。また会いに来るから、忘れないでね」
「……ああ」
 伊瀬は私の言葉に頷くと、私の手をするりと離した。
 そして降りる人が途切れたタイミングを見計らい、私を一度だけ、数秒間だけぎゅっと抱き締めた。
「何があったって忘れねえ。お前は俺のものだ、キク」
 別れ際に、急に何を言うんだろう。
 私は驚いたけど、伊瀬は顔を赤くしながらも真剣な顔で頷いて、それから私を解放した。
 その時、伊瀬の表情は今までより少しだけ大人びていて、思い出の中の二十二歳の伊瀬と重なった。

 帰りの電車にはたった一人で乗り込んだ。
 すぐに日は完全に沈んでしまって、残照が広がる秋空と、光を散りばめた街の景色が車窓を流れていった。
 あの夏の日も、帰りの電車には一人で乗った。幸せな気持ちの一方で、行きの電車でずっと手を繋いでいてくれた彼のことを思い出し、少しだけ感傷に囚われもした。
 今でも時々考える。
 二十二歳の、私にいろんなことを教えてくれた大人の伊瀬は、未来で幸せになっているんだろうか。
 彼は私に力を貸してくれて、とても心強かったけど、私は彼の為に何かできただろうか。
 あれから彼がどうなったか、こればかりはどうしても確かめようがない。彼が無事に未来に戻れたのか、部屋の鍵を忘れていって困ることはなかったのか、知りたくても知る術がなかった。
 私にできるのは、忘れないでいることだけだ。

 伊瀬。私の好きな人。
 私は、私が幸せにできなかった分まで、彼を幸せにしてみせる。
 未来の私が言えなかった言葉で――私のことを、離れていても決して、忘れないで。
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