Tiny garden

Ex:美味しいオムライスに必要なもの

 2006年の夏、あのハガキが俺のところに届いて、世界の全部が終わってしまったみたいになった時、思った。
 馬鹿馬鹿しい願い事だけど、せめて過去に戻れないものかって。
 少しだけでも過去に戻って、何もかもやり直す事が出来たら。せめてあのハガキをなかった事に出来たら。どんなに良いだろうと思ってた。

 2003年の夏に本当に戻って来てしまった時は、思った。
 きっとこれはチャンスだ。俺にとっての現在、彼女にとっての未来を、すっかり変えてしまう為に訪れたチャンスなんだって。

 俺たちはお互いに、これから起こり得る未来を変えたいと思ってる。
 その気持ちがあれば、何も怖いものなんかない。
 やろうとしてるのが正しい事なのかどうかなんて不安は、今となっちゃどうでもいいんだ。
 二度とあんな辛い思いをせずに済むなら、俺は何だって出来る。例え変えられるのが彼女にとっての未来だけで、俺の、既に起こってしまった現在は変えられないとしても。或いは俺が、2006年に戻れなくなったとしても。或いは、――もう二度とキクに会えなくなったとしても、2003年の、まだあどけない顔をしたキクが望む未来を、手に入れられたなら、それだけでいい。

 だから、あの部屋の鍵を開けた。
 2003年の俺と顔を合わせる羽目になっても、まぁそれはそれで面白いかもな、なんて思ってた。あんまり意地を張るようなら、キクの代わりに俺が説教してやろうか、とか。かつての自分と会う不安や恐怖はあまり、なかった。

 窓が開けっ放しの無用心な部屋は、不思議な事にほんの数日前まで住んでいた2006年の部屋と、あまり変わりがなかった。
 俺は玄関に立ち、苦笑いしながらその光景を眺めた。
 どうなんだ、それって。これでも年に一度くらいは模様替えしてたつもりだったんだけど、何ひとつ変わっちゃいない。センスねえな、と我ながら思う。
 だけど、まぁ感心だな。奥の部屋の布団はちゃんと畳んであるし、テーブルの上も片付いてる。よく床の上に放置してしまう雑誌やCD類も、ちゃんとラックの中に入ってるみたいだ。流し台の中までは見えないけど、食器が積み重なってるって事もないみたいだ。
 やるな、19歳の俺。
 この頃は意外と真面目だったのか。知らなかった。

 ――いや、待てよ。
 何かが違う。

 さっき、この部屋の鍵を開けた直後、俺はキクを入れる前に中を覗いたんだ。
 その時はもっと部屋の中が散らかってて、だから言った。
『散らかってるけど、気にしてやるなよ』
 ほんの数分前の事だから、忘れるはずもない。

 なのにどうして、この部屋は綺麗に片付いてるんだ?

 奇妙な思いで立ち尽くしていると、先に部屋へと上がり込んでいたキクがこちらを振り返った。
 髪形が違うような気がする、と思ったのは一瞬だけ。
 視線が真正面からぶつかり、ふわりと微笑み掛けられた時、その顔立ちまで違っている事に気付いて目を疑った。
 こんなに――大人っぽかったっけ。
 あどけなさは見えない、もう『少女』とも呼べない面差しをしたキクが、呆然とする俺に向かって言った言葉は、
「あ、お帰りなさい」
 ごくあっさりとした、気軽な台詞だった。
 だけど場違いな台詞でもあった。だってここは、俺の部屋じゃない。2003年だ。

 部屋の中で微笑む彼女は、こうして見るとうっすら化粧をしているようだった。
 肌の白さに映える紅を差した唇と、長い睫毛。
 肩まで伸ばした髪は緩やかにカールされていて、さっきまで見ていたセミロングのストレートとはまるで趣が違った。風に吹かれてふわふわ揺れている。良く似合ってる。
 服装も、キャンプ帰りのTシャツ姿じゃなくて、黒のノースリーブワンピースだ。ほっそりとした体型に良く合う服。だけど、いつの間に着替えたんだ。
 むしろいつの間に、こんなに変わった?
 いや、もしかするとそういう事じゃなくて――。

「どうしたの?」
 キクは大人びた顔に怪訝な色を浮かべた。まるで不思議そうに俺を見ている。不思議で堪らないのはこっちなのに。
 俺が身動ぎせず、声も出せずにいると、彼女は俺の背後に視線を投げて、
「ドア、閉めたら? 虫が入って来ちゃうでしょ」
 と言った。
「あ、……そうだな」
 言われるままに、開け放たれたままだった部屋のドアを閉める。
 重たいドアが閉ざされると、部屋の中を吹き抜ける風が少しだけ弱まった。
 そして俺は彼女に向き直る。瞬きほどの間にまるで大人っぽくなってしまった、一昨日からずっと一緒にいたはずなのに、ちっとも見慣れない彼女に。
「私も、今来たところなの」
 彼女は、言う。
 ここへは一緒に来たはずなのに。
 鍵を開けたのは俺で、ここは俺の部屋だ。だからおかしいんだ。『おかえり』なんて彼女が口にするのは妙なんだ。
「あ、部屋片付けておいたから。苦情は受け付けないわよ。いつも言ってるでしょ? 触られたくなかったらちゃんと片付けておきなさいよって」
 片付けた。いつの間に?
 いつも言っているというフレーズにも皆目心当たりがない。
 呆れたように告げられた台詞は、俺が見た事実と辻褄の合わないものだ。
「晩ご飯の材料買いに行くから、買い物付き合ってよ。伊瀬ってば何時でも冷蔵庫の中、空っぽなんだもの」
 だけど、少女には見えないキクの浮かべている微笑を見つめている内に、パズルのピースが填まるような感覚を覚えた。

 まさか、もしかするとこれは――。

「キク」
 俺は彼女を呼んで、怪訝そうな面持ちに向かって尋ねた。
「今って、何年だ?」
「何年って……西暦で?」
「そう」
 キクは瞬きをする。それから、すらすらと答える。
「2006年よ。それが、どうかした?」
「……じゃあ、お前はいくつだ?」
 もうひとつ、慎重に尋ねた。
 急き過ぎて、もうすぐ手が届きそうな真実が壊れてしまわないように、用心深く尋ねた。
「え? 何、急に」
 戸惑う表情が、ゆっくりと綻びかける。
「22歳よ。言うまでもなく、一緒でしょ? 私たち」

 それで俺はようやく、理解した。
 この部屋が変わり映えしないように見えている理由もわかった。

 ここは2006年の俺の部屋だ。俺が、元いた場所、元いた時代だ。
 どうしてここに、まるで当たり前みたいにキクがいて、俺を待っていてくれたのかはわからないけど――ポジティブに解釈するなら答えはひとつだ。
 未来は変わった。
 俺は2006年に戻ってきた。恐らく、まるっきり同じ2006年に戻ってきた訳じゃないんだろう。それでも戻ってくる事が出来て、その上彼女が待っていてくれたのなら、他には何も望む事なんかない。

「どうか、した? さっきから様子が変だけど」
 キクに尋ねられて、俺は小さくかぶりを振った。
「いや」
 それから、笑う。出来過ぎなくらいのこの結末に。
「……ただいま」
「おかえり、伊瀬」
 彼女も笑った。綺麗な笑顔だった。


 靴を脱いで部屋に上がる。
 脱いだスニーカーの横に細い女物のミュールを見つけた時、どきりとした。こんな靴まで履くようになったのか、キク。3年もの間に随分と大人になったみたいで、その間の彼女の事を全く知らないという事実が、寂しくも、心細くも感じられた。
 所在無く俺がテーブルの前に座ると、キクはそれが当然の事のように食器棚からコップを出し、冷蔵庫からは麦茶のピッチャーを出して、俺に注いで渡してくれた。
「ありがと」
 礼を言って受け取りつつも、まだどこか覚束ない気持ちでいる。
 何せ、こっちにとっちゃ『当然の事』な訳がないんだ。22歳のキクと顔を合わせたのは今が初めてだし、どういう経緯でこの部屋に来て貰ってるのかもわかってない。
 良く冷えた麦茶をひと口飲むと、気分が落ち着き始めると同時に、いくばくかの不安も芽生えて来た。
 そもそもこの未来じゃ、俺たちはどんな関係なのかが不明だ。
 うっかり変わり過ぎた未来のせいで、本当に従兄弟になっちゃったなんて洒落にもならない。その辺りもしっかり確かめておかなくちゃいけない。とりあえず彼女の指に、指輪がない事だけは確認したけど――。
「キク、お前さ」
 俺が切り出すと、テーブルを挟んで差し向かいに座っていた彼女が、きょとんとした。
「なあに?」
 大人になった顔でも、その表情は昔の面影が良く残っていた。
「ええと……」
 一瞬、言いよどむ。これって、どう尋ねたらいいのやら。
 躊躇しつつも、それとなく聞いてみた。曰く、
「今日は……その、何しに来たんだ?」
 十分に質問を選んでみたつもりだったのに、キクは奇妙そうにしてみせる。
「何って、晩ご飯作りに……。それがどうかした?」
「いや、どうもしないけど」
 平然と振る舞いつつも、心が逸り出すのがわかる。落ち着け俺。従兄弟同士でもそのくらいはするかもしれない! ここは更に慎重に確かめなくては。
「その……いつも来てるんだっけ? お前」
 俺の考えられ得る最大限の『それとなく』は、彼女にとっては訝し過ぎる質問でしかないようだ。今度は思い切り顔を顰められた。
「いつも、って言うか毎週よね」
「毎週……毎週来て貰ってたのか俺!」
「そうだけど、急に何? さっきからかなり変よ、伊瀬」
 いや、だって、変にもなるだろ?
 キクに毎週のように晩飯作りに来て貰ってて、それが当たり前のようになってて、俺がいない時でも部屋に上がるような事にさえなってるってのに、どうして俺は何も知らないでいるんだ。失われた年月が何とももったいなさ過ぎる。

 俺はコップをテーブルに置き、彼女の傍ににじり寄った。
 彼女は俺の接近に眉根を寄せつつも、また尋ねてくる。
「ねえ、本当にどうしたの?」
 それには答えず、吐息が掛かる距離まで近付いて、その瞳を覗き込みながら俺は言った。
 確認の言葉を。
「お前って、俺の彼女?」
 キクは二度瞬きをした。
 そして事もなげに、
「そうよ」
 頷いた。

 瞬間、俺は本当に気が触れるかと思った。
 うれし過ぎて、幸せ過ぎて。
 あの日望んだ通りに、苦しみもがきながらそれでも願った通りに、こうして事実は変わったんだ。奇跡だ。本当に出来過ぎてるくらい、幸せな奇跡が起きた。
 未来が変わって、弊害もあったかもしれない。現に俺が知らない事もたくさんある。でもそんな事さえどうだってよかった。彼女が、キクがいてくれればそれで、他の事なんてどうだってよかった。幸せだった。

 俺はいてもたってもいられずに腕を伸ばして、目の前にいたキクを抱き寄せた。ぎゅうっときつく抱き締めると、腕の中では彼女の呻く声がした。
「ち、ちょっと、何なの――っ!」
 抗議の言葉は唇で塞いだ。
 2003年では果たせなかったから、お預け食らった分も俺の知らない3年の空白の間も取り返すべく、これからは思う存分キスしよう。
 思う存分独り占めしよう。
 誰に遠慮する事もなく、手が届かない事もない。彼女はこんなにも近くにいる。限りなくゼロに近い場所に。
「もうっ、びっくりするじゃない!」
 唇が離れるとすぐに、呼吸を乱しつつも文句を言って来る彼女。
 上気した頬と潤んだ瞳を見下ろして、俺は口元が緩むのを抑えられない。
「別にいいだろ、付き合ってるんだし」
「そう言う問題じゃないです」
 俺を睨んでいるキクは、だけど腕の中から逃げようとしない。抵抗もせずに収まっている。その姿がいとおしい。
「さっきから変よ、伊瀬。妙な事は聞いてくるし、ぼうっとしてる事が多いかと思えば、急に抱き着いて来たりして」
「変にもなるって。……幸せなんだ」
 カールがかった髪を撫でる。ほのかに良い香りがした。
「お前もう、今日はどこにも行くな。ずうっと俺の傍にいろ。すぐ目に付いて手を伸ばしたらいつでも抱き寄せられるくらい近くにいろ。そうじゃないと嫌だ」
 耳元で囁くと、腕の中のキクはくすぐったそうに身を捩った。
「何言ってるの……。買い物行かないと駄目なんだから。冷蔵庫の中、空っぽだって言ったでしょ?」
「良いって、そんなの」
 もう一度強く抱きすくめる。
「俺、お前さえいてくれれば他には何も要らねえんだ。お前がいれば幸せなんだ。他には何も、何ひとつなくたっていい」
 本当に。
 本当に、心からそう思った。
 だけど、キクは言う。
「嘘ばっかり。そう言っておきながら少しすると『お腹空いた、何か作れ』って言うんでしょ。調子良いんだから。私、ちゃんとわかってるのよ」
 咎めるような視線を向けられ、俺は思わず言葉を失くした。
 そっか、俺の事ちゃんとわかってるのか。うれしいような、ちょっと複雑なような、だけどやっぱり幸せなような。
 少し考えて、俺は深く頷く。
「そう……かも、なぁ」
「でしょ?」
 ふっとキクが表情を和ませる。
「だったら買い物、付き合ってよ。荷物持ちが必要なの」
 最愛の彼氏を荷物持ちと言い切りますか、そうですか。物言いのきつさとか、変わってないところは全く変わってないな。
「しょうがねえな。ところで、晩飯何? 何作ってくれんの?」
「オムライスよ」
 満面の笑顔が答えた。
 好きだもんな、オムライス。何かいかにもらしいチョイスだ。
「そっか。楽しみだな」
「あれ? 今日は『またそれかよ』って言わないのね?」
 何だよ、しかも毎度作ってるのか。つくづく、キクらしい。
「いや、俺も今日はオムライスって気分だったんだ」
「ふうん、それならいいけど」
「その代わりとびきり美味いの作れよ。あのファミレス以上の奴」


 夕飯の買い物には、日が落ちる前に行く事にした。
 ふたり揃って部屋を出る。ドアを閉めると、俺が自分のポケットを探る前にキクが鍵を取り出した。
 合い鍵、持ってんだな。当然の事なんだろうけど、しみじみと思う。どう言う経緯で手渡して、どんな顔で受け取って貰ったのかなんて全くわからないけど、それでも――うれしいんだ。
 それからふと俺は、ポケットの中の空白に気付いた。
 何時も鍵を入れとく場所に、何も入っていない事に。
「あれ?」
 思わず声を上げると、ちょうど鍵を掛け終えたキクが振り返る。
「何? どうしたの?」
「いや、鍵が……」
 ポケットの中に突っ込んだ手には、何も触れない。
 慌てて他のポケットやカバンの中も探してみたけれど、鍵は見つからなかった。
「失くしたの?」
 キクも心配そうに眉を顰めた。
「かもな……。やべ、まずいよなこれ」
「そうね。落とした心当たりは? 最後に出した場所とか……」
「心当たりなんて、んなもんあったら落とさねえよ」
 と応じてから、俺は――気が付いた。
 最後に鍵を取り出し、それを使って開けたのは、ここだ。
 2003年の、俺の部屋のドアの前。
 つまり落としたとすれば、鍵の在り処はきっと。

 念の為、辺りを探してみても鍵は見つからなかった。
「困ったわね。悪用されたりしたら……」
 不安げなキクに、だけど俺はかぶりを振る。
「いや、心配ない。落とした場所はわかってる」

 ――多分、お前なら気が付いて、拾ってくれてると思うんだ。
 しょうがないからお前にやるよ、それ。他には何も贈ってやれなかったし……そうだ、金借りたのに返せてなかったしな。いろいろ世話になった礼にしちゃささやか過ぎるけど、出来るなら大事にしてくれ。
 2003年では本当にありがとう。
 遠回りしたけど、お前のお蔭で俺も幸せになれそうだ。
 これからはもう二度と後悔する事のないように、今のこの気持ちと幸せとを、大切にして行こう。お互いに。

「キーホルダーでも付けて置くようにしたら?」
 キクの提案に、俺は心から頷いた。
「そうだな。今度からは、そうする」
 そして彼女を促し、ドアの前を離れると、アパートの階段をゆっくりと下り始めた。
▲top