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23:ちょっと里帰り

 電車を降りて駅を出たところで、みんなとは解散になった。
 一泊二日でもみんな疲れていたのか、解散の挨拶はあっけなかった。柳が一言、『じゃあまた集まろうね!』と言うくらいで終わりだった。でも私は駅に着いたら即行動しようと決めていたから、その方が都合がよかった。
「あ、そうだキク――」
 柳が私を呼び止めかける。
 残念ながらその時、私はふらりとどこかへ行こうとしていた伊瀬の手を掴んだところだった。
 だから、
「ごめん柳、今日はちょっと帰るから。また連絡する!」
 そう告げて手を振って、それから伊瀬を引っ張り歩き出す。
「そっか、わかった……」
 柳の虚を突かれたような声を背中で聞きつつ、私は駅を後にした。
 その間、伊瀬は不気味なくらい何も言葉を発さなかった。

 駅前のアーケード街はちらほらとお店が開き始めた時分だった。
 シャッターが開く小気味よい音が響く中、私は伊瀬を連れて歩いた。どこへ行くかは決めていなかった。ただとにかく人目につかない場所を探していた。
 伊瀬も似たようなことを考えていたんだろうか、アーケード街を抜け、私の家があるあたりに戻ってきたところで声をかけてきた。
「どこまで行く気だよ」
 私が答えに詰まりながらも足を止めずにいると、繋いだ手が軽く引かれた。
「おい、ちょっと止まれって」
 それでしぶしぶ振り返れば、伊瀬は仏頂面でこちらを見ていた。呆れているのか、怒っているのかはわからない。
 閑静な住宅街にひと気はない。車がぎりぎりすれ違えるような細い路上にふたりきり向き合っている。夏の昼前の強い陽射しが、彼の染め上げた髪をより明るく透かしてまぶしかった。
「どこに連れてく気だった?」
 もう一度聞かれ、私は手を繋いだままうつむく。
「考えてなかった」
「なんだよそれ」
 伊瀬が溜息をつくのが聞こえた。
「でも確保しとかないと、伊瀬がどこか行っちゃう気がしたから……」
 続けてそう答えると、もう一度、今度は深々と息をつかれた。
「なんで、そんなこと」
「根拠なんてないよ、ふとそう思ったんだもん」
「俺がどっか行ったってお前は困らないだろ、もともといない人間なんだし」
 突き放すようなその言葉には、さすがにうつむいてもいられなかった。
 勢いよく顔を上げた私は、目の前の伊瀬をきつくにらむ。
「そんなことない! 馬鹿なこと言わないで!」
 伊瀬は伊瀬で、失言だったと自覚があったようだ。とたんに気まずく目を逸らされた。
「……ごめん、口が滑った」
「困らなくないから。急にいなくなったら心配するよ」
「わかってる、ごめんな」
 今度は彼がうなだれる。
 もっともそれは一瞬だけで、すぐに決まり悪そうな笑みを見せてきた。

 さっきのは、大人になったと思っていたはずの彼らしからぬ発言だった。
 それも絶望しているせいならわからなくもない。
 でも私は、伊瀬があきらめてしまった理由をまだ聞かされていなかった。未来を変えられないと思ったその理由、そして変えたいと願っていた未来で何が起きたのかも。

「伊瀬、教えてくれない?」
 私はすかさず切り出した。
「伊瀬が変えたい未来って何? どうしてそれが無理だって思ったの?」
 彼の口元から弱々しい笑みさえ消える。
 代わりに浮かべたのは寂しげな表情だ。
「それを聞いてどうする?」
 もちろん、私の答えは決まっている。
「可能なら、未来を変えたい」
 でもそれは伊瀬を少し驚かせたようだ。目を見開いて、また逸らされた。
「馬鹿言うなよ」
「無理なの? でも伊瀬だって、最初はできるって思ってたんでしょ?」
「ああ。無理だって気づかされたけどな」
「じゃあ、その理由を教えて。どうして無理だって思ったの?」
 伊瀬には無理に思えても、私にはできることかもしれない。
 そんなこと高校時代振り返ってもひとつとして存在しなかったけど――伊瀬はなんでもできる奴だったから、彼には無理で私にはできることなんて想像つかないけど、でも私はまだあきらめてない。
 単に絶望しているだけなら、今こそ私が手を差し伸べたい。
 そう考える私の前で、伊瀬は静かに肩を落とした。
「どうしても、無理だって思った」
 声には諦念がはっきりとわかるほどにじんでいた。
「どうしてもって……」
「未来ってあらかじめ決まってて、俺がどうあがいたって何も変わんないのかなって思うくらいだったよ。そういうもんなんだって見せつけられた感あった」
 伊瀬にそこまで思わせるような出来事って、一体なんなんだろう。
 でもその点については未だに答えてくれてない。
「根拠がわかんなきゃ、私は納得できないよ」
 だから突っ込んで尋ねてみた。
「伊瀬がそう思った理由を教えて。見せつけられたって何を?」
 すると彼は難しい顔をして、唇をぎゅっと引き結んだ。
 そのまま黙ってしまったから、また答えてもらえないのかと思いきや、
「――逆に聞くけどな」
 低い、うなるような声でそう続けた。
「俺が未来を変えたとして、それによって誰かが不幸になるとしたらどうする? 俺のせいで誰かが不幸になるのをわかってるんだとしたら」

 考えてもみなかった問いだった。
 伊瀬が未来を変えたら、他の誰かの未来も変わる。
 しかもその人は幸せかもしれないのに、伊瀬の行動によって不幸になる。だとしたら――。

 だとしたら、どうすればいいんだろう。
 繋いだままの手がじっとり汗ばんできた。返答に窮する私を、伊瀬は少しだけ笑ったようだ。
「だよな、お前はそういうの踏み切れねえよな」
「でも、伊瀬が……」
「じゃあもっと教えてやるよ」
 迷いながら反論しかけたところで、さらに言われた。
「お前は未来で幸せだった。でも俺が未来を変えたら、どうなるかわからない」
「私が?」
 伊瀬が、2006年の私について言及したのは初めてかもしれない。
 高校卒業以来会ってないと言っていた。電話も、メールもしてなかったって。
 でも手紙だけは送り続けていたらしくて、伊瀬は結局一度も返事をくれなかったそうだけど、読んではいたのかもしれない。そこには未来の私についての記述もあったんだろうか。
 自分の未来を知ることになる。そう思うと、やっぱり背筋が寒くなった。
 伊瀬が言うには、私は『幸せだった』らしいけど。
「俺がこっちでしたことが、未来のお前を不幸にするかもしれない」
 彼は続ける。
 笑いの一切ない、真剣な顔つきで語りかけてくる。
「お前から幸せな未来を奪うことになるかもしれない。俺を止めときゃよかった、この夏に俺と会うんじゃなかったって思うかもしれない。そうなるのは嫌だろ? 幸せになれるってわかってんなら、何もいじるな、そっとしとけって思うだろ?」
 伊瀬が未来を変えようとしたら、変わってしまうのは彼だけじゃない。
 みんな、そうなのかもしれない。
 彼は私について言及したけど、私だけでもないんだろう。幸せだった人が不幸になってしまうかもしれない。あるいはその逆だってあるかもしれない。それを私たちの一存だけで実行してしまうのは、やっぱり不公平だろう。
 だけど。
「だけど、私は……」
 私は思う。
「それでも伊瀬をほっとけないよ。伊瀬がつらそうにしてるの、嫌だもん」
 そう告げたら伊瀬が意外そうに片眉を上げた。
 意外、だろうか。私はずっと思ってたのに。
 伊瀬には幸せになってほしいって。
「未来なら、私はもう変えてる」
 宣言して、私は携帯電話を取り出す。
 さらに驚いて目をしばたたかせた伊瀬に、打ち明けた。
「私、伊瀬に連絡したの。2003年――今の、19歳の伊瀬にだよ。昨日、私は2006年まで電話もメールもしなかったって言ってたよね? でも私は連絡をした。まだ返事、来てないけど……」
 19歳の伊瀬のことも心配だけど。
 目の前の、22歳の伊瀬のことだってすごくすごく心配だった。
 だから決めた。それがどんなに悪いことでも、後悔することになったとしても、誰が不幸になったって構わない。
 後戻りなんて、普通はできないんだから。
「私はもう、未来を変えたんだよ」
 きっぱりと、伝えた。
「だから伊瀬がそうしたいなら、私は手を貸すよ。どうせ変わるんだったら、いっそ思いっきり変えちゃおうよ」

 伊瀬はしばらくの間、呆然としていたようだった。
 だけどその後、困ったように笑ってみせた。
「わかった、そこまで言うなら――」
 大人びた笑みで手を繋ぎ直した後、こう言われた。
「未来のことを教えてやるよ。まずはちょっと里帰りだ」
「里帰り?」
「母校訪問しようぜ、どうせなら。思い出の場所だろ」
 そして歩き出す伊瀬を、私は手を引かれるまま追いかける。
 見上げた横顔はやっぱり大人っぽくて、まだ迷っているのか、少し考え込んでいるようでもあった。
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