menu

19:Are you ready?

 私がテントを出ると、柳は笑顔で手を合わせてきた。
「寝る前にごめん! ちょっとキクに話あってさ」
「いいよ、どうしたの?」
 明日の朝ごはんの相談だろうか。そう思って聞き返すと、柳は曖昧に言葉を濁す。
「ちょっと……ここだとできない話なんだ」
「え、何それ。どういうこと?」
「悪いんだけど、場所移していい? すぐ済むから」
 ここじゃできない話とはなんだろう。不思議に思ったけど、気になるのでうなづいた。
「いいよ」
 すると柳はテントに首を突っ込んで、
「伊瀬、キクのことしばらく借りるね」
 と告げ、私に向き直る。いい笑顔だった。
「じゃ、行こ! 遅い時間だし、なるべく静かにね」
「うん」
 伊瀬をひとりで置いていくのも気がかりだったけど――さっき、何か打ち明けようとしていたから余計に。でもそれは戻ってきたら改めて尋ねよう。
 柳の用事はすぐ済むって話だし。

 私は柳の案内で、夜の森林公園を歩いた。
 キャンプサイトから伸びる遊歩道を進みつつ、柳が細い缶を差し出してくる。
「あ、これ虫よけ。使っときなよ」
「ありがと……どこ行くの?」
 受け取りながら聞き返すと、彼女は一瞬目を泳がせた。
「河原まで、なんだけど」
「さっき花火したとこ? ずいぶん歩くね」
 てっきりその辺で話すのかと思ったら、キャンプサイトから離れたところまで行くようだ。
 伊瀬、先に寝ちゃうかな。なんとかそれまでに帰れるといいんだけど。
 それよりも、そんな離れた場所で柳は私にどんな用なんだろう。
「話あるって言ったよね」
 私は虫よけスプレーを腕に吹きかけながら切り出す。
 その間、柳も速度を落として並んで歩いてくれた。
「それってどんな話?」
「あー……えっと、まあ、行けばわかるよ」
 なんだか変だ。柳にしては珍しく歯切れが悪い。
 怪しむ私がさらに尋ねようとするより早く、
「それよりさ、キクのテント盛り上がってたじゃん。邪魔してごめんね」
 柳が話題を変えてきた。
「え、あの、聞こえてた?」
「聞こえたってほどじゃないけど、話し込んでんなって思ったよ」
 そう言ってから彼女は手を振る。
「あ、盗み聞きとかはしてないからね! 念のため」
「う、うん。わかってるよ」
 一瞬ひやりとしたけど。

 伊瀬とは、他の人に聞かせられない話をしていた。彼がこの時代の人間じゃないとみんなに知られたら、絶対ややこしいことになるはずだ。
 そもそも信じてもらえない可能性もあるものの――でも、柳ならわかってくれそうな気もする。
 この先、伊瀬の帰る方法がわからなくてどうしても行き詰まったら、柳に相談してみようかな。そういうことも考えておかなくちゃいけないのかもしれない。

「伊瀬、遠くに住んでるんでしょ? 久々に会ったら積もる話もあるだろうね」
 柳の言葉に、私は『伊瀬はいとこ』という設定を再確認しながら応じる。
「うん。すっかり話し込んじゃってたよ」
「いとこ同士ってどんな話するの?」
「え……いや普通に、友達と変わらないよ。最近どうしてるとか、そういう感じ」
 そもそも本当は友達だから、変わらないも何もない。
 でもこの場はごまかしておこうと、私は適当な話をでっち上げる。
「さっきはSFっぽい話もしてたよ」
「エスエフ?」
「あ、なんていうか、たとえ話なんだけど。もし過去に戻れたらどうする、みたいな」
 言ってしまってから、これは余計な話だったかなと思う。
 これだけで何がばれるということもないだろうけど、柳は不思議そうな顔をした。
「過去に戻れたら……?」
「た、たとえ話だよ? なんかそういう話題で盛り上がっちゃってさ、うん」
 私はまくし立ててから、不審がられる前に柳へ水を向けた。
「柳はそういうのない? もしも過去に戻れたら、何かやり直せるならって考えること」
「過去に、戻れたら……」
 つぶやくようにそう言ってから、柳はふいに口を閉ざした。

 遊歩道を進む柳の足取りはゆっくりだった。ゆっくりすぎるほどだった。
 私はすでに虫よけを使い終えていて、待ってもらう必要もない。でも柳は急ごうとしない。辺りには虫よけの薬めいた匂いが漂っている。
 夜の森林公園は虫の声だけが賑やかだ。他に出歩く人はなく、遊歩道沿いの林は真っ暗で、ぽつりぽつりと立つ街路灯だけが頼りだ。河原はもう近いんだろうか、耳をすませば微かに水の流れる音がする。
 柳はどんな用件で、私を河原に連れていくつもりなんだろう。
 ふと、改めての疑問がよぎった。

「……あるよ」
 やがて、小さな声がした。
 辺りに気を配っていた私は危うく聞き落とすところで、あわてて隣の柳を見る。
 柳はうつむいていた。横顔は夜闇に染まって暗く、細い肩が今はいっそう華奢で、頼りなさげに見えた。
「やり直したいこと、あるんだ」
「あ……そうだよね、誰だってあるよね」
 ただならぬ雰囲気に私が作り笑いをすると、顔を上げた柳も不器用に微笑んだ。
「だよね、後悔するのが人生だもん」
「わかるよ、うん」
「私、好きな人がいたんだ」
 いきなり、びっくりするような告白が来た。
 柳に、好きな人が。しかも今のは過去形、だろうか。
「そうなの……?」
「うん。つっても初手から間違えて、全く相手にされてない恋だったんだけど」
「ええ……意外だなあ」
 伊瀬が言うように、柳は美人だ。性格だって明るいし、面倒見よくて気さくだし、友達も多いしでうらやましくなるほどだ。そんな柳を相手にしない人がいるなんて信じられなかった。
「意外?」
 柳が私の言葉を聞きとがめ、肩をすくめる。
「そうだよね。私ってばこんなにいい女なのに、見る目のない男もいたもんだ」
「冗談抜きでそう思うよ、私。柳を振る男なんているの?」
「振るっていうか、もう眼中にもない感じ。異性だとすら思われてないっていうか」
 誰なんだろうその男。目が節穴という次元じゃない。
 内心憤る私をよそに、柳は力なく笑う。
「だからさ、過去に戻れるなら戻ってやり直したいって思うよ。相手にされる私になりたい。何かっていうと強がって、面倒見のいいふりしちゃうけど、そういうのもやめてか弱くてかわいい女の子になりたい」
 ひと息にそう言ってから、また肩をすくめる。
「まあそうなると、子供の頃からやり直さなきゃいけなくなるけどね」
 柳には、柳なりの悩みがあるんだなあ。
 確かに面倒見いいから、男の子が頼ってきて甘えられないとかそういうことなのかな。それにしたってやっぱり、節穴じゃないのって思うけど。
「ままならないね……」
 私がつぶやくと、柳はぺちっと私の肩を叩く。
「キクがそれ言う? そうだよ、ままならないの」
「私?」
 どういう意味?
 と聞き返すよりも、彼女の次の言葉の方が早かった。
「もっかい聞いちゃうけど、キクは好きな人いるの?」
 その質問に、私はやっぱりうまく答えられない。

 いる。
 でもその人は、諦めなくちゃいけない人だ。
 付き合っている彼女がいたから。今はいなくても、2006年では違うから。
 そして22歳の伊瀬は、どうやらその人のことを気にしているみたいだった。もしかしたら彼が過去に来たのも、彼女のことがあったから、やり直したかったからなのかもしれない。そういう話に聞こえた。

 だから、柳にはこう答えた。
「いない……かな」
「本当?」
 柳がにやにやしてくるから、焦って続けた。
「本当だよ! 誰か紹介して欲しいくらい」
「そっか。じゃあちょうどいいのかな」
 ふう、と大きく息をつき、柳は遊歩道の先を指差す。
「見える? あそこに棚井がいるの」
「え、棚井くん?」
 そちらを見れば、たしかに河原には大柄な人影があった。月明かりを跳ね返して光る川の流れの傍で、何をするでもなく佇んでいる人がいる。
 あれが棚井くん――でもどうして、あんなところにいるんだろう。
「実はさ、話があるのって私じゃなくてあいつなんだ」
 柳が、私の顔を見てそう言った。
「どういうこと……?」
「だから、そういうこと。じゃあ私は先に戻るから、ごゆっくり」
 話を打ち切るように言った後、彼女は私の背中を押そうとする。
 当然、私は戸惑った。
「柳、戻っちゃうの? っていうか棚井くんと私だけ?」
 棚井くんとふたりきりで話をするのは、まだちょっとハードルが高い。花火した時は案外悪い人じゃないのかもと思ったけど、それでも打ち解けたには程遠いし、間が持つかどうか、会話が成り立つかどうかも怪しい。
 だけど柳はそこで思いきり顔をしかめた。
「私が付き添ってどうするの。完全にお邪魔でしょ」
 そして棚井くんに向かって声を張り上げる。
「棚井! 連れてきたよ!」
 棚井くんがびくりとして振り返った瞬間、柳はぱっと駆け出した。キャンプサイトに続く遊歩道を、大急ぎで戻っていく。
「ちょ、ちょっと柳!」
 私が呼び止めても完全スルーで、道の向こうに消えていった。
 街路灯があるからと言って、走っていかなくてもいいのに。それに振り返りもせず去っていく様子もなんだか変に思った。いったいどうしたんだろう。

 呆然としつつも――棚井くんが待っているらしいから、私は仕方なく河原に下りた。
 棚井くんは、直立不動の姿勢で私を出迎えた。
top