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6:淡き恋心

 2003年にも伊瀬の住んでいる部屋はある。
 当たり前だ。私はその住所を教えてもらって、何度か手紙を出している。
 19歳の伊瀬がこの夏休みをどう過ごしているのかは知らないけど、そこで生きていることは確かなはずだ。
 ということは――。

「伊瀬って……今、どうしてるのかな」
 私はその疑問をつぶやくように切り出した。
「は?」
 伊瀬はきょとんとした顔を向けてくる。
「俺、ここにいるけど」
 それで私は手を振った。
「違う違う、今の――えっと、私と同い年の伊瀬のこと」
 タイムトラベルものの作品だと、未来と過去の本人同士が鉢合わせるパターンはそんなに多くない。
 でも実際はどうなんだろう。同じ時間軸に同じ人間がふたり存在することは可能なんだろうか。そもそも人が時を行き来すること自体可能なのかって疑問もあるけど――伊瀬はそれをやってのけたんだから否定することもできない。
 じゃあ、その後は?
 時をかけた伊瀬は、今の伊瀬に会うことができるんだろうか。
「あ、2003年の俺、ってことか」
 伊瀬本人も納得した様子で、それでも首をひねってみせる。
「今どうしてるんだろうな、あいつ」
「あいつって、自分のことでしょ? 今年は何してたか覚えてる?」
「さあ……あの夏はこっち帰らなかったはずだし、ついでに言うと実のある暮らしもしてなかったな」
 どんだけだめ大学生だったんだろうか。
 私は呆れつつ、でも急に不安を覚えた。
「じゃあちゃんといるんだよね? 19歳の伊瀬は、この世界に」
「そりゃそうだろ。俺がこっち来たからって向こうがいなくなってたら……」
 ふっと、そこで伊瀬は唇を閉ざした。
 不安の影がその顔に差しかかり、さしもの彼もいくらか恐怖を抱いたようだ。きっと私も同じような顔をしてるんだろう。
 だってもし、こっちの伊瀬がいなくなってたら。
 あるいは大人の伊瀬と入れ替わりで、未来に飛ばされてたりしたら――。

 からん、と大きな音がした。
 コップの中の氷が溶けた音だったけど、私と伊瀬は揃ってびくりとする。

 そしてお互い我に返ったように口を開いた。
「や、やめろよキク。そういう不吉なこと言うのは」
「ごめん。でも気にならない?」
「気になるよそりゃ」
 伊瀬は顎をさすりながらうなる。
「けど、まさかな……そんなことになったら大事件じゃねえか」
 本当にそうだ。伊瀬がそんな怖い目に遭ってたら困るし、嫌だ。
 そう思うと私の思いも募った。伊瀬は元気でいるんだろうか。確かめたい。声、聞いてみたい。
 衝動的に自分の携帯電話を引き寄せた。手元に輝くのは機種変したばかりの、2003年の最新モデルだ。伊瀬の携帯より3年も古いはずなのに、こっちは真新しくて、向こうは傷だらけだった。
「電話、かけてもいい?」
 意を決し、私は伊瀬に尋ねる。
「いいけど……」
 伊瀬は顔色がよくない。答えも歯切れが悪く、迷っていることが伝わってきた。

 昔の自分と会うなんて奇妙なこと、誰だって歓迎しないに決まってる。
 まして望んで会いに行くならともかく、こんな状況に放り込まれて、心の準備もなしにっていうのは、伊瀬じゃなくたって迷うに違いない。
 でも伊瀬の無事がわかれば、少なくとも安心できる。この奇妙すぎる事態に、たったひとつだけでも希望が持てる。そう思った。

「伊瀬が嫌なら、かけない5よ」
 私は、だけどそう言った。
 自分が安心したいだけという理由で、伊瀬を不安にさせることもできない。
 私は伊瀬のことが――2003年の19歳の伊瀬が心配だし、大切だ。でも目の前にいる、2006年から来た22歳の伊瀬のことだって心配だし、大切に思ってる。
「嫌っつうか……やっぱ、怖いよな」
 伊瀬の苦笑いが引きつっている。
「俺がもうひとりいるって普通に考えても怖いだろ。しかも俺は昔のこと知ってるけど、向こうからしたら全然知らない男が自分だっつって、お前の家押しかけたりしてるわけだろ? たぶん俺以上にびびるぜ」
「そうだね……」
 もちろん電話がつながったとして、現状を打ち明けるつもりはない。
 だとしても私は伊瀬の未来を知ってしまったから、今までどおりに接することなんてできそうになかった。そしてそのことを伊瀬本人が知ったら、きっと嫌な気分になるはずだ。
 でも、やっぱり無事かどうかだけでも確かめたい。
「けど、いなくなってたらそれはそれでな……」
 伊瀬のうめきからは迷いの色がうかがえた。
「そしたらどうしたらいいんだろうな、俺――やっぱ知りたくねえな……」
 大きな手が額を押さえる、その仕種が苦しげで胸が締めつけられる。

 私は、携帯電話を握り締めていた。
 長いこと握っていたから、金属の塊は体温を吸い、手の中で温かくなっていく。
 それでも無理強いをすることなんてできなくて、伊瀬の次の言葉を待っていた。

 伊瀬はやがて、俯きながら言った。
「かけてくれ、キク」
「いいの?」
 座卓を挟んだ向こう側で、伊瀬はゆっくりと面を上げる。
 その瞬間は硬かった表情が、目が合ったとたんに柔らかくほどけた。
「……気になるんだろ。確かめとけよ、無事」
「じゃあ……」
 私も恐れを振り切るように、急いで携帯電話のフリップを開く。

 伊瀬に電話をするのも久し振りだった。
 高校を卒業してからは初めてのことだ。ずっとかける気が起こらなくて、でもメールじゃ言いたいことがまとまらなくなりそうだったから、手紙にしていた。
 声を聞いたら、会いたくなっちゃうだろうと思っていた。
 でも、今は――。

 電話帳から番号を拾って発信ボタンを押す。
 ためらうような間があって、少ししてからふつりとコール音が鳴り出した。
 あわてて携帯電話を耳に押し当てる。

 コール音がまずひとつ、鳴り終えた。
 目の前の伊瀬が持ってきた携帯電話は無言のままだ。
 ふたつめのコール音が始まる。伊瀬は出ない。2006年の携帯も鳴らない。
 みっつめの音が鳴る。出ない。
 よっつめの音。出ない。
 いつつめ。むっつめ。ななつ、やっつ、ここのつ――。

 私は、携帯電話を耳から離した。まだコール音は続いている。
 22歳の伊瀬は瞬きもせずにこちらを見ていた。
「出ない……か?」
「うん」
 うなづいて、ようやく私は電話を切った。

 部屋に、不気味な沈黙が落ちかける前に、
「単に出られなかっただけだろ、きっと」
 と伊瀬は言った。
「よくあるんだ、風呂入ってる時とかさ、電話来ると後でかけ直そうって思いつつ忘れたりして。寝てる時は絶対出ないし。あと出掛ける時に携帯忘れるのもしょっちゅうだしな」
 努めて明るく言ってくれたのは、私が不安に思わないように、なんだろう。
 そうだ。そう思いたい。
 きっと伊瀬は元気でいる。今はたまたま出られなかっただけだ。だから心配なんていらない。
 10回以上鳴らして出なかったのだってよくあることだ。明日にでもまたかけ直せばいいし、なんならメールしておけばいい。
「それにさ」
 22歳の伊瀬は、朗らかに笑っている。
 私を元気づけようとしているんだとわかっていた。
「2003年の伊瀬くんに不幸なことがあったら、俺だってどうにかなっちゃうのが普通だろ? そいつの未来の姿が俺なんだから。けど俺がこうして元気に生きてる以上、どうあれ2003年の俺も元気だってことだろ」
「……そう、かもね」
 私はうなづいた。少しだけ笑う気にもなれた。伊瀬の優しさがうれしかったし、その言葉に不思議な説得力もあった。
 だからきっと大丈夫。あとで、またかけてみよう。次はちゃんと声を聞けるはずだ。
 私は祈るように携帯電話を抱き締めた。

 座卓の上で頬杖をついた伊瀬は、ふと思い出したような顔をする。
「そう言えば、お前さ」
 そしてつぶやきみたいにこぼした。
「手紙はたくさんくれたけど、電話は一度もくれなかったな」
「え? それって、2006年の私?」
 聞き返すと、伊瀬は肯定のつもりか首を竦める。
「ま、手紙の返事も出さなかった俺も悪いんだけど」

 ――電話、一度もしなかったんだ。
 未来の私もなんて意気地なしなんだろう。
 会いたくなるからなんて理由で迷って、ためらってうじうじ悩んでる間に、伊瀬には彼女ができちゃったのに。手紙だけ送ったって、何かと忙しい伊瀬が返事くれるはずもないってわかってたのに。

「電話、かけてもよかった?」
 伊瀬の顔がどことなく寂しそうに見えたから、私は尋ねてみた。
 だけど伊瀬は苦笑するばかりだ。
「って、俺に聞かれてもな。俺にかけてもらえるわけじゃねえし」
「そうだけど……昔だったらどう? 迷惑じゃなかったかなって」
「迷惑なんて、そんなよそよそしい間柄でもないだろ」
 深く溜息をついた伊瀬が、その後で目を伏せる。
「手紙の返事出さなくて、本当にごめんな」
 言い添えられた伊瀬の言葉どおり、今のままなら彼から返事をもらうこともないんだろう。このまま何もしなかったら。電話も、メールもしないままだったら。
 携帯電話を抱き締めた胸元、心臓あたりがぎゅっと痛かった。
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