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4:……何事?

 ひとまず私は突っ伏したまま、自分の頬をつねってみた。
 よし、ちゃんと痛い。やっぱりこれは夢じゃない。
 それから面を上げ、興奮しているらしい伊瀬の顔を真正面から覗き込む。
「伊瀬、整理しよう」
「……んあ? 何を?」
 間の抜けた声を上げる伊瀬。
「伊瀬は2006年からやってきたんだよね?」
「『来た』って表現されるのも微妙だけどな。俺はどうにかした記憶もないし」
「とりあえずの話。2006年から来たんでしょ? 今、2003年に」
 私はちらとカレンダーを見る。間違いなく今は2003年だ。でも一応、後で新聞も確かめておこう。
「そうらしいな」
 見慣れた頬を掻く仕種で、伊瀬は認める。
「どうやって来たかは記憶にない?」
「記憶にないも何も」
「じゃあ、2006年に戻る方法もわからないんだよね?」
「って事になるよな」
 ずいぶんあっけらかんと答えられた。
 この状況下にあって、伊瀬の表情はやけに明るい。もともと私と違って、彼はポジティブ思考の人だった。悩んだり戸惑ったりという段階はとっくに通り過ぎてしまったのか――にしても切り替え速すぎる。
「これから、どうするの?」
 私は、そうはいかない。
 現実をどう受け入れていいのかわからなくて、頭がくらくらする。
 でも受け止めなくちゃいけない。未来からやってきた伊瀬はここにいて、しかも彼は未来の記憶を持っている。これから先、起きることも知っている。
 というか、2006年の伊瀬がいるなら、今の――2003年の伊瀬はどうしてるんだろう。大学1回生の、私がつい4ヶ月前に顔を合わせた彼は、元気にしているんだろうか。
 髪を染める前の、まだあどけなさの残る顔は記憶の中に焼きついている。
 目の前にいるミルクティー色の髪のお兄さんが、その記憶を鮮烈に塗り替えようとしてくるけど。
「どうって……どうしような」
 へらへらと笑う伊瀬はちょっと憎らしかった。
 何なの、私が必死で考えてるのに。
「帰らなきゃいけないんでしょ? 2006年に」
 そう尋ねたら、伊瀬は曖昧にうなづいた。
「まあ、そうだな。もっぺん単位取り直しとかありえねーし」
「待ってる人だっているじゃない」
「そうかもな」
 またしても、曖昧な答え方をされた。
 さっき聞かされたとおり、伊瀬は未来で彼女がいるんだ。その人のためにも絶対に帰らないとだめ。
「だったら考えなきゃ、ちゃんと向こうに戻れる方法。それにもしあるんなら、伊瀬がこっちに来ちゃった理由も解き明かそう。なんの意味もないのにタイムスリップとかないでしょ、普通。きっと何か訳があるんだよ!」
 まくし立てた私は、単にそう思いたかっただけかもしれなかった。
 内心では途方に暮れている。どうしたらいいかわからない。伊瀬の力になりたいけど、どうすれば彼を帰してあげられるのかちっとも思いつかない。
「お前、相変わらず真面目だなー」
 伊瀬はまだへらへらしている。
「そう言うならお前こそ、俺がこっち来ちゃった理由とかわかるのかよ」
「わ、わかんないけど。だから考えてるんだよ!」
「変わってないよな。昔っから俺が何かしようって言うと、経費だのスケジュールだのややっこしいこと考えてくれんの、いつもお前だった」
 そうして懐かしそうに目を細めては、高校時代の思い出をつぶやく。

 私は自分のことを特別真面目だと思ったことはない。
 だけど伊瀬にはいつもそう言われてて、今言ったように『真面目な』私にできそうなことをいろいろ任せてくれたりした。もちろんそれは伊瀬の発案あってのことで、私ひとりならそもそもイベントの計画も立てなかっただろうし、高校時代に楽しい思い出を作ることだってできなかったはずだ。
 伊瀬がいてくれたから、あの頃は楽しかった。
 私は伊瀬の役に立てたらそれでいいと思っていて、でもいざ進路が離れてしまったら、私には彼に連絡を取るだけの行動力すらないことに気づいてしまった。だって遠距離だし、電話するにしてもメールにしてもお金かかるし、それに何より私が過去の友達になってしまってたら――私が思うほどには伊瀬が私のことを気にしてなかったら、そう考えたら勇気が出なかった。
 そんな私は未来でも、きっと臆病者なんだろう。
 伊瀬とは卒業以来会えなくて、そして彼には彼女がいるんだから。

「……何事?」
 ふいに、伊瀬がつぶやいた。
 私の手の甲に、涙がぽたりと落ちたからだった。
 一度堰を切ってしまうとあっという間に視界がにじみ、温かい雫が頬を次々と伝う。泣きたくないのに悲しくて、切なくてしょうがなかった。
「なんで泣くんだよ」
 伊瀬も困ったように尋ねてきたけど、答えられるはずがない。
 こんな時に私は、自分のことで泣いてる。伊瀬のことを心配してるわけでもなく、ただ失恋したからって理由で。情けない。
「なんでもない」
 啜り上げると、ますます泣きたくなる。
「なんでもなくないだろ」
「違う、本当になんでもないの。ちょっと待って、落ち着くから」
 慌てて目をごしごし擦ると、少しひりっと痛んだ。
「あ、待て待て。擦るなって」
 そう言って私の手を、伊瀬の大きな手が掴む。
 温かい手だった。
 その体温は記憶の中にあるものと変わらない。掴まれた時、心臓が跳ねたのもあの頃と同じだ。一緒に腕相撲をしたり、授業に間に合わなくて走ったり、ふたりで歩きながらなんとなく手を繋いだ思い出と同じだった。
「離して」
 どぎまぎする気持ちを隠すべく、振り解こうとしてみるけど、腕相撲で一度も勝てなかった相手だ。振り解けるはずもなかった。
「だめだ、目が赤くなるだろ」
 ぼやけた視界の向こうでも伊瀬が笑うのがわかった。
 私が抵抗をやめると、温かい手は私の手をぎゅっと握った。
「ってか、俺もまるっきり楽観的でいるわけじゃねえよ。色々と考えてるさ、何でこんな事になったのかな、とか」
 口調は落ち着いていて、とても優しい。
 そして昔より、大人っぽく感じられた。
「でも今んとこ心当たりねえし。だったらまあ、とりあえず成り行きに任せてみっかって思ってんだよ。もしかしたら何かわかったり、思いついたりするかもだしさ」
 そんな保証なんて何処にもないのに。
 でも伊瀬が言うと、その内に何とかなりそうな気がしてくるから、不思議だ。
「やっぱさ、何かやらなきゃならない事があって戻って来たような気もする」
 私の手を握ったままで、伊瀬はまた笑った。
「それって、何……?」
 涙声の私が尋ねると、ぼやけた笑顔が困ったように崩れる。
「いや、わかんねーけど、何かあるんだろ。映画とかだってそういう感じじゃん、タイムスリップって言ったらさ。何かやる事があるんだよ、やらなきゃならない事がさ。きっと。だから――俺はそいつを探す。見つけ出す」
 でも、言葉は力強くて不思議な説得力に満ちていた。
 伊瀬は大人になっても、いいところをちゃんと残している。素敵だ。
「……うん」
 応えると、温かい手の力がもうひとつ強くなる。
「キクも手伝ってくれ」
 そうしてもっと力強い言葉が聞こえた。
「うん。うん、もちろん」
 何度も、何度も何度も私は頷いた。
 当たり前だ、そんなこと。
 私は伊瀬の力になりたい。伊瀬の望むこと、何でも叶えてあげたい。高校時代からずっとそう思ってたんだから。何をするでも一緒にいて、力を貸してあげたいって思ってた。
「よかった」
 涙が晴れてようやくぼやけなくなった視界で、伊瀬の笑顔は目の前にあった。
 身を乗り出すようにして近づいてきた彼に、今になって私は慌てた。
 懐かしい手の温かさが気まずいというか、後ろめたい。
「頑張ろうな、キク」
 伊瀬の笑顔はどこか晴れ晴れとしていて、自信に満ちているようにも見えた。
 それでいて顔つきはすっかり大人に変わっていて――改めて実感せざるを得ない。

 私が会いたかったのは、2006年の伊瀬じゃなかった。
 大人になってしまって、髪も染めて、おまけに彼女まで作ってる伊瀬じゃなぁった。
 手は届かないかも知れないけど、せめて隣にはいさせてくれる、高校時代とまだ変わりない、2003年の伊瀬。19歳の彼だ。
 こんな未来は知りたくなかった。認めたくなかった。

 でも、これが現実なんだってわかった。
 やっぱり伊瀬は、永久に手の届かない人だ。

 悔しくて、私はまた泣き出したくなるのを堪えながら、言った。
「どうして先に大人になっちゃうかな……」
 伊瀬には、笑われた。
「……ごめんな」
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