menu

2:それがお前の正体か

 冷たい麦茶で喉を潤すと、伊瀬はますます饒舌になった。
「どうせならビールがよかったな」
 などと言い出すものだから、きつく睨んでおく。未成年が何を言うか!
「冗談だよ、冗談」
 へらへら笑いながら手を振って、座卓に空のコップを置く。
 すかさず私がお替わりを注ぐと、またへらへら笑いながら頭を下げてきた。
「なんか、ほっとしたよ」
「何が?」
 私も麦茶を飲む。冷たくて頭がきんと痛んだ。
「キクがさ、全然変わってなかったから。別人みたいになってたら気まずいだろ、こっちも」
「……そう?」
 自分は別人になってしまったくせに。
 心の中で密かに毒づくと、伊瀬は聞こえたみたいに身じろぎしてみせた。
「もっと早く帰って来たかったんだよな、本当は」
「ふうん」
「だけどほら、大学の連中とあれこれやってたらさ、あっと言う間に時間過ぎて。なかなか戻って来れなくて」
 言い訳のような口振りだ。けど、言い訳されるほどの事もない。帰って来て欲しいなんて言ったつもりはないし約束もしていない。そもそも『たった』4ヶ月ぶりなんだから。
「おじさんとおばさんにはもう会ったの?」
 重そうな伊瀬のリュックサックを横目で見て、私は尋ねた。
 すると彼は慌てたようにかぶりを振る。
「いや、まだだけど。お前んとこ先に来ちゃった」
「そうなの? 何、手紙の返事寄越さなかったお詫びに?」
 だったらおかしい。殊勝過ぎる。伊瀬らしくもない。
 噴き出しかけた私に、だけど伊瀬は笑いを消して、視線を座卓の上に落とした。
「まあ……それも、あるし。本当にごめんな、あの、たくさん寄越してくれたのにさ……」
 ――たくさん?
 私はそこで、眉を顰めた。
 伊瀬にはまだ3通しか手紙を送っていない。5月、6月、7月と3通。8月分は送るべきかどうか迷っていた。ことごとく返事貰えなかったから。
 3通を指して『たくさん』と言うのは適切だろうか? 伊瀬にとってはたくさん、のように思えたのかも知れないけど。
「別に。忙しかったんでしょ?」
 疑問はあったけれど、私は尋ねなかった。どうでもよかった。伊瀬がこうして会いに来てくれただけで。もう時間は戻らないのかも知れないけど、それでもよかった。
「うん……」
 伊勢の声のトーンが落ちた。
 その目が、窓の外へと向く。遮られずに覗く夏の青空へと。

 開け放たれた窓から入り込んで来る風は温く、扇風機も必死に稼動しているけど、涼しいとは全く言えなかった。伊勢と一緒だと、特に暑いように感じられる。
 あの頃はずっとそうだった、伊瀬と共に過ごす時間は、奇妙な熱と動悸の速さと、逸る気持ちがもたらす空回りをくれた。
 今も、そうかも知れない。頬が熱いのは夏の陽射しのせいだけじゃない。

「この街も変わってねえよな」
 不意に、伊瀬が言った。
 目はまだ空を見ている。
「駅前の方、見て来たけど。全然変わってなかったな」
「そんなに様変わりするほどでもないでしょ?」
 たった4ヶ月なのに。そう思って私は笑った。伊瀬は笑っていない。
「けど俺、ずっと帰ってなかったんだぜ?」
「ずっとって言うけど……伊瀬が変わり過ぎなだけ。みんなそんなに変わってないよ」
「俺だってそんな、変わったわけじゃ」
 ことん、とコップの置かれる音。
 伊勢の目がこちらに動く。
 真っ直ぐに見つめられて、今度は私が窓を見た。青空が眩しい。
「変わったじゃない。伊瀬、別人みたいに見えた」
 それでも気がつくとそう口走っていた。
「へえ?」
 伊勢の笑う声が癪に障る。頬が熱い。
「高校の頃と全然違うんだもの。びっくりした」
「そりゃそうだろ、4年前と変わんなかったら大学行ってる意味ねえし」
 ――4年、前?
 私はまた眉を顰めた。
 4年前っていつ? 中学生の頃? そりゃあその頃と変わらなかったら確かに妙だけど、どうしてそんな唐突な比較を持ってきたんだろう。伊瀬の言うことは時々突拍子もない。
 奇妙に思って視線を戻すと、彼のにやにや笑いとぶつかりそうになってまた慌てて逸らした。
「どう? 俺」
「どうって、何が?」
「あんまり大人っぽくなったから、惚れちゃったりした?」
 大概にしろ。
 ――という言葉が喉まで出かかったけれど、それを口にするとまるで感情的になってムキになってるみたいで。つまり伊瀬の台詞を肯定してしまう意味にもなりかねないと思ってやめた。
 別にそんなんじゃない。
 今の伊瀬は別人過ぎて、あの頃とは違うから。
「後悔させんじゃねえかなーとも思ったんだけどさ。ま、俺も彼女いるし、浮気なんて事にはならねえから。心配すんなよ」
 だから今の、この台詞だって、別に、どうって事ない。

 そっか。
 伊瀬、彼女いるんだ。
 ……なあんだ。

 ふっと肩の力が抜けたような気がして、私は麦茶をぐいと呷った。
 頭にがつんと痛みが走ったけどそれは無視して、
「おめでとう」
 と言っておいた。
 伊瀬はにやりとする。
「そりゃどうも。ところでキクはどうなんだよ?」
「……私は」
 聞かれるまでもない。卒業まで勇気も出せなかったのに未だに忘れられず、未練たらしく毎月手紙を送ってしまうほど好きな人がひとりいる。
 ――いや、いた。
 答えずにいると伊瀬は首を竦めて、
「確かめるまでもねえか。幸せそうで良かったな」
 別に幸せなんて事もない。
 全くない。
 でも、伊瀬の幸せを願えないほど不幸でもない。
「けど信じられねえな。キクなんてまだ10代って感じでさ、成人してるようにはちっとも見えねえのに」
「――え?」
 伊瀬は、何を言ったんだろう。
 私はすかさず聞き返す。
「何言ってんの? 成人なんて、私まだ10代だよ? 伊瀬だってそうでしょ」
「は? キク、何言ってんの?」
 何って。それはこっちの台詞。
 と言うかさっきから少し、変じゃない? 私たちの会話、噛み合っているようで噛み合ってない。
 これは4ヶ月ぶりに会ったから? 久々だから?

 私と伊瀬は互いにぽかんとして見つめ合っていた。
 けれどふっと破顔した伊瀬は、くくくと喉を鳴らして、
「何だよキク。気持ちはまだ10代ってか?」
「気持ちも何も……私、19だけど」
 こっちは笑う気にもなれずに真面目に応じた。
 何? 何か酷く嫌な予感がする。生温い風に首筋を撫でられるとぞくりとした。漠然とした居心地の悪さ。
「へ? お前、何言って……」
 伊瀬の言葉が途中で止まった。
 彼の目は今や大きく瞠られ、私――の背後の壁にある、カレンダーの日付を見ていた。
 その顔が凍りつく。
「2003年? キク、カレンダーぐらい替えろよ」
「今年のカレンダーだよ? あれ」
 私は言い切る。お正月に架け替えた子猫の写真のカレンダー。自分で購入したものだから間違いないと断言できる。
「まさか」
 乾いた、伊瀬の呟き。
 その目が戻ってくる。視線が私に向けられる。
 いつになく震え、不安に満ちていて、けれど逸らせない強い眼が私に。
「キク」
 そうして彼が私を呼んだ。
「お前、今、いくつ?」

 何を聞くんだろう、と思った。
 私と伊瀬は同い年だ。同じ年度に高校に入り、同じ年度に卒業した。お互いの誕生日は仲間内で祝い合っていたから間違いない。まさか伊瀬だけ二段飛ばしで年を取っていくなんて事もないだろう。
 だから不安に思う事なんて何もない。

 ないはずなのに、
「私」
 声が不自然にかすれた。
「私――、19歳だよ」
 告げた。
 その後で旅行カバンに飛び付いた。もうしまい込んでいたお財布の中、悴むように震える指が学生証を引っ張り出す。通っている専門学校では毎年学生証を作り直すそうで、これは『1年間有効』とはっきり書いてある。無表情な写真の隣には私の生年月日と、学生証の発行された年月日が記載されている。
 差し出すと伊瀬はそれを引っ手繰り、食い入るように見つめた。
 すぐに上がった顔には引き攣った笑みが浮かんでいる。
「キク、こんな冗談……どっきりだろ。まだ専門学校行ってるなんて、そんなはずは――」
「何が冗談? 私、本当の事しか言ってない」
 冗談なんか言ってない。
 嘘もついてない。
 だから私は驚く事なんかひとつもなくて、だけど、驚く為の準備をしている心に気づく。
「俺は」
 伊瀬は、言った。
 彼の声もかすれていた。
「22、なんだけど」

 汗ばんだ首筋に、生温い空気が張りついた。
 心臓がどきどきと速い。

「今年は2006年だろ?」
 カレンダーの2003と言う文字を見つめながら、伊瀬は呟くように尋ねてくる。
 私はかぶりを振る他なかった。
top