Tiny garden

その手に誓う約束

 二月に入っても、寒さは緩むどころか厳しくなる一方だ。
 今年は雪が積もることも多くて、その度に翔和くんは大喜びしている。先日なんてとうとうお店の前に雪だるまを作って、わざわざその写真を送ってきた。会社の昼休みにそれを見た時はつい吹き出してしまった。
 私としては翔和くんが喜ぶ顔を見られるのもいいけど、暖かい春が待ち遠しいというのも本音だった。

 なぜかと言うと。
 日が落ちた後の気温に震えながら帰ってくれば、
「おかえり」
 アパートのベランダに時々、翔和くんが待っているからだ。
 毎日じゃない。でも彼が休みで私が仕事の日は大抵そう。白い息を吐きながら、私を見下ろして甘く微笑んでいる。
「ただいま」
 私は彼と同じくらい小さな声で答える。

 寒いから待ってなくてもいいよ、って言ってみたこともあった。
 でも翔和くんは待ちたいと言って聞かなかったし、逆に土日で彼がお店に出る日は、私の方がベランダに立って彼の帰りを待ってしまう。お互いに帰る時には連絡を入れ合っているけど、それでも夜風に吹かれて十分以上も待つことになる。
 このささやかな儀式は、今もずっと続いている。
 だから早く暖かくなってくれた方がいい。お互いを待つ時間がずっと過ごしやすくなるだろうから。

 私たちは時々、一緒に夕飯を食べる。
 翔和くんが休みの日は彼の部屋で手料理をごちそうになるし、私が休みの時はこちらに招いてご飯を作ってあげる。時々は外食もする。
 今夜は翔和くんが夕飯を振る舞ってくれた。
 メニューはビーフシチューオムライス。とろとろの半熟卵とビーフシチューがすごく美味しい。
「翔和くんのご飯、いつも美味しいね」
 あの可愛いこたつで一緒にご飯を食べながら、私は彼の料理を誉めた。
 しかも盛りつけ方もカフェみたいなワンプレートで、目にも美味しいのが翔和くんのすごいところだ。
「ありがとう、都さん」
 翔和くんは照れたように笑った後、こう言った。
「でも俺、レパートリーが単調じゃない? そろそろ家庭料理も覚えたいんだ」
 彼のレシピはお店に置いている料理雑誌などが元らしい。見た目華やかなメニューが多いのも頷ける。
 だけど翔和くん自身が好きなのは、もっと家庭的な料理だった。
「大晦日に都さんが作ってくれたお煮しめ、美味しかったな。あれ覚えたいって言ったら教えてくれる?」
「教えるほど難しくないよ」
 野菜の下ごしらえをしたら、あとは煮るだけっていう献立だ。翔和くんなら口で説明するだけで覚えられると思う。
「それとカレーと、おでんと、肉じゃがと……」
 翔和くんは指を折ってメニューを挙げると、ちょっと恥ずかしそうに言い添えた。
「俺、そういうの全然習ってこなかったからさ。母さんに聞いとけばよかったよ」
 もう叶わないことを、それでも暗くない口調で語る。
 すると私の方が胸が詰まるような気持ちになって、慌てて明るく応じた。
「それなら私でも教えられるかな。今度一緒に作る?」
「いいの? 是非教えてよ、都さん」
 翔和くんが嬉しそうに相好を崩すから、心がほんのり温かくなる。

 彼が家庭料理を好きな理由も、こうしてできる限り私とご飯を食べたがる理由も、私は知っている。
 その気持ちになるべく答えてあげたい、とも思う。
 私がいる限りは寂しい思いなんてさせたくない。この街に来てよかったって思ってもらいたい。それに、幸せにもしてあげたい。
 だからいつかは、私が彼の家族になれたら、なんて考えているけど――口にするにはまだ早い。お付き合い始めてから二ヶ月も経ってないんだし。

 でもまだ二月、されど二月だ。
 この時期と言えばやはり気になるのはバレンタインデー。
 家庭料理が好きな翔和くんの為に、どうせなら手作りチョコをと考えている。
 ただそれについては、他にも気になることがある。

「翔和くんってさあ」
 食事の合間に、私はさりげなく水を向けてみた。
「バレンタインのチョコ、結構貰う?」
 翔和くんは一瞬きょとんとした後、優しく微笑んでくれる。
「都さん以外から貰う予定はないよ」
「本当に? お店のお客さんとかは?」
「こっち来てから半年経ってないしなあ」
 彼はごまかすというふうでもなく肩を竦めた。
「そもそもバレンタインにサロン来るお客様って、その後デートって子が多いんじゃないかな。店に来てまでチョコくれるってことはまずないな」
「ふうん……」
 そうかな。美容師さんを好きになったら、その日に予約を入れて施術の後に手渡して――なんてこともありそうだ。
 とは言え私としても、そういう怖い想像をしたいわけじゃない。
「心配要らないよ。本命は都さんからしか受け取らない」
 でも翔和くんがきっぱり答えてくれると、ちょっと安心したりもする。
 と言うか、全然さりげなくなかった。チョコ渡すってもうバレちゃった。
「あー……じゃあ作るから、貰ってくれる?」
 今更ながら気恥ずかしくなりつつ、私は尋ねる。
 すると翔和くんは大きく頷いた。
「もちろん欲しい。くれなきゃ拗ねちゃうからな」
「でもあんまり期待しないでね、手作りだから」
「そういう前振りで期待しないとか無理だろ。楽しみにしてる!」
 彼がいかにも含んだように笑んだので、これは大変だと私も内心身構える。
 翔和くんに喜んでもらえるような、本命らしいチョコを用意しないといけない。

 例えば職場で、美容師さんとお付き合いしていると言うと、そこそこの確率で聞かれてしまう。
「えっ、大丈夫? 心配にならない?」
 通説によると『3B職業』なんていう言葉もあるらしく――バンドマン、バーテンダー、そして美容師さんは彼氏にするのが難しい相手、と言われているそうだ。
 もちろん、不安が全くないとは言わない。翔和くんは毎日のように女性のお客さんを相手にしているのだし、あの芸術品のようにきれいな手でお客さんたちを磨き上げていく。そうして美しくなっていく女性たちと常に接しているわけで、当然ながら彼の目は非常に肥えていることだろう。
 一方こちらはしがないOL、毎日疲れてよれよれで帰ってくる顔を彼に晒しているわけだ。比較されたことなんて一度もないけど、もしされようものなら軍配がどちらに上がるかはわかりきっている。
 でも、言われるほど心配ではない。
「深読みすれば、心配にならない職業なんてないでしょ」
 私はそう答えている。
 だって女性と全く接しない仕事なんてそうそうないだろう。うちの職場ですら異性との接触は普通にあるし、私なんて以前好きだった人と一緒に働いている。不安だと言うなら翔和くんだって同じ気持ちに違いない。

 そして、翔和くんは優しい。
 私を絶対に不安がらせたりはしない。
 少なくとも彼と付き合ってから心配になるようなことは起きていない。彼からの愛情は疑いようもないし、お互いに空いた時間でできる限り一緒に過ごすようにもしている。彼がどんな仕事をしていても大丈夫だって、翔和くんなら信じられる。
 だからバレンタインには、美味しいチョコを作って彼を喜ばせたい。

 チョコレートは、バレンタイン直前の週末に作ることにした。
 本当は当日がよかったんだけど、今年はバレンタインが平日だ。仕事の後にお菓子を作る気力はないし、どうせなら余裕を持って作りたかった。
 できたてを食べてもらいたいから、選んだのはフォンダンショコラだ。
 生地だけを用意して、彼から帰る連絡を貰ったらオーブンに入れる。翔和くんがアパートに帰りつく頃には温かいお茶と一緒にフォンダンショコラを振る舞える、という計算だった。

 計算通りに翔和くんから連絡を貰って、ココット型に入れたフォンダンショコラをオーブンに入れて焼き始める。焼き時間は十五分。彼が部屋に着いて手を洗ったらちょうど焼き上がるくらいにセットした。
 それからベランダへ出ると、思いのほかすぐに、走って帰ってきた彼の姿が見えた。
「ただいま、都さん」
 息を切らしている翔和くんを、私は怪訝に思う。
「どうしたの、そんなに急いで」
「都さんがチョコ作って待ってるっていうから」
 白い息をふうふう吐きながら、彼はベランダの私を見上げていた。
 アッシュブロンドの髪を風に乱して、頬を真っ赤にした翔和くんが、こちらに向かって微笑みかけてくれる。
 それだけでもうじっとしていられなくなって、私は彼に呼びかけた。
「おかえり、翔和くん。早く中に入って」

 だけどこんなに急いで帰ってくるとは思わなくて、ちょっとだけ計算が狂ってしまった。
 フォンダンショコラはまだ焼き上がっていない。あとほんの少しなんだけど。
「時間ある? じゃあさ、都さん」
 私の部屋に上がった翔和くんが、いいことを思いついたように姿見を指差す。
「バレンタインに似合うヘアアレンジがあるんだ。試してもいい?」
 それってどんな髪型だろう。
 気にはなったけど、私は仕事帰りの彼を気遣いたかった。
「いいけど、翔和くん疲れてない? 一息入れてからでも……」
「都さんの髪弄れたら、疲れなんて吹っ飛ぶよ」
 そんな嬉しい言葉の後で、翔和くんは私を姿見の前に座らせた。
 彼は私の背後で膝立ちになり、まずは髪を梳かし始める。
 本職だけあって、彼の触れ方は私が自分でするより優しく、丁寧だ。ブラッシングだけでも心地よくて、目をつむりたくなってしまう。
 チョコレートの香りが漂う部屋の中、翔和くんは手際よく私の髪をまとめていく。ワックスを髪に馴染ませ癖をつけてから、トップの髪をざっくり結ぶ。そして耳の下からも髪を集めて、ハーフアップに束ねていく。
 ショートボブの私の髪をハーフアップにするのはなかなか大変なんだけど、翔和くんは苦もなくまとめて、無雑作で可愛く仕上げてくれた。
「へえ、こういうのもいいね」
 鏡の中の自分の顔に、私が満足しかけた時だ。
「まだだよ、仕上げはこれ」
 翔和くんがポケットから何かを取り出し、私の頭の上に載せた。

 白い幅広レースの、可愛いリボンカチューシャだった。
 繊細な編み模様のレースを髪の上に垂らした後、長いサテンのリボンを襟足でさっと結ぶ。
 鏡の中の私は白いカチューシャを載せて、可愛いハーフアップにしてもらっているのに、随分怪訝そうにしている。
 だって――。
「何か、花嫁さんみたい」
 こういうアレンジを結婚式で見たことがある。白いリボンカチューシャとあえてラフなヘアアレンジの花嫁さん。
 思わず呟いた私に、翔和くんは屈託なく笑った。
「わかる? これ、ウェディング用にも使えるアレンジ」
「え……」
「よく似合うよ、都さん。世界で一番きれいだ」
 そう言うと翔和くんは私の頭を抱き寄せて、額にそっとキスをする。
 それから姿見越しに私を見つめ、垂れ目がちな目を柔らかく微笑ませた。
「俺さ、自分の花嫁さんは自分できれいにしたいって思ってる」
 鏡越しの眼差しに、頬がかっと熱くなる。
「仕事以外でも髪を触りたい、きれいにしてあげたいって考えるのは都さん一人だけだ」
 込み上げてくる幸福感に眩暈がした。
「だから――結婚して、俺の家族になって欲しい」

 その言葉は。
 私も、彼に、いつか言いたいと思っていた。
 まだ早いんじゃないかって一度は思い留まったけど、でも――翔和くんは今、その言葉を私にくれた。
 きっと彼は、家族が欲しいんだ。
 他でもない私を望んでくれているんだ。

 それなら、早いも遅いもない。
 ためらう理由だってない。
「私も、翔和くんの家族になりたいな」
 そう答えたら、翔和くんは背後からぎゅっと抱き締めてくれた。
「本当にいいの? 都さん」
「もちろんだよ。私も、いつか言おうかなって思ってた」
「そっか……」
 珍しく緊張していたんだろうか。翔和くんが大きく息をつき、その吐息が襟足の髪とリボンを揺らした。くすぐったい。
「断られるって思ってた?」
 私が尋ねたら、鏡の中の彼は照れ笑いを浮かべていた。
「気が早いって言われるかも、とは思ってた。そしたらそのリボンは、普段使いにしてもらうつもりだった」
「普段なんてもったいないよ。どうせなら結婚式でつけたいな」
 自分の結婚式なんて想像もしてなかったけど、もしそういうものを挙げることになったら。
 今、鏡に映ってるみたく、翔和くんの手できれいになりたい。
「その時は翔和くんが素敵な花嫁さんにしてね」
 私がねだると、彼は私を抱き締めたままで頷く。
「もちろん。世界一の花嫁さんにしてあげるよ」
 それはとても素敵な約束だ。
 嬉しくて、私は彼の手にそっと頬擦りをした。
 芸術品みたいな美しい手を、こうして独り占めできるのは私だけの特権に違いない。

 予期せぬプロポーズの後で、フォンダンショコラはちょっと焼きすぎて、普通のチョコケーキになってしまった。
 だけどこれはこれで美味しかったし、翔和くんは大喜びでぺろりと三つも食べてくれた。
「バレンタインに似合うヘアアレンジ、って今考えると苦しいな」
 そうしてお茶を飲みながら、少しだけきまり悪そうにしている。
「そうだね。どんな髪型か考えちゃった」
「早く言いたくってさ。チャンスを窺ってた」
 翔和くんはそう言うと、いつものように私に甘く微笑みかけた。
「こんなに一緒にいて、ずっと幸せなのに、結婚しない理由なんてないよ」
 その通りだと私も思う。
 翔和くんは優しい人だ。私を不安にさせたりしない。
 だから私も翔和くんにとって、そういう存在になりたいと思う。

 ちなみに今年、翔和くんが貰ったチョコレートは、
「都さん以外だと、うちの店の近江がくれた駄菓子のチョコと、榊のお母さんがくれたのだけ」
 だそうだ。
「わかっただろ? そんなもんだって」
 翔和くんは肩を竦めつつも、どことなく嬉しそうにしていた。
「都さんが気にしてくれるのは嬉しいけど、心配要らないよ。来年あたりはもう指輪してるだろうし」
 プロポーズを受けたばかりの私には、まだ来年の今頃なんて想像もつかない。
 でも幸せでいることは間違いないって確信している。
 だって、翔和くんと一緒だから。
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