Tiny garden

夢は無限に続いていく(2)

 狭いベランダからの眺めは、それでも隣の部屋とは少し違うようだった。
 翔和くんは私の隣に立ち、物珍しそうな顔で景色を見ている。
「へえ、俺の部屋とはちょっと違う」
 感心したような呟きに、私は笑って応じた。
「そんなに違うんだ。ほんの少しの距離なのにね」
 防火壁一枚で遮られただけの、お隣のベランダ。今は無人のその場所からどんな景色が見えるのか、私はまだ知らない。
「今度、翔和くんのベランダからも見てみたいな」
 ねだってみたら、翔和くんは楽しそうにこちらを向く。
「じゃあ、次の機会は俺の部屋でね」
「いいの?」
「都さんの夢だったんだろ? 俺はいつでも歓迎するよ」
 翔和くんは優しく言って、ベランダの手すりに頬杖をついた。
 私もその隣に寄り添いながら、同じように手すりに寄りかかる。

 冬の夜風は身を切るように冷たい。
 だけど二人で身を寄せ合っていると、肌寒さも一時忘れてしまえた。翔和くんの体温は温かく、二人で眺める夜の街並みは澄んだ空気の中でひときわ美しい。夜空の星が瞬くように、遠くにある小さな光が灯ったり、消えたりする。青みがかった夜闇の中に、その光は無限に広がっていた。
 あの光の一つ一つに、誰かの暮らしがあり、暖かな部屋がある。
 私達も同じだ。振り向けば暖かな部屋がある。
 だからこそこうして、夜風に吹かれていても平気だった。

「夢、叶っちゃったな」
 溜息と共に私が言うと、翔和くんは少し笑って、私の肩を抱き寄せる。
「都さんの夢、俺に叶えられてよかった」
「うん。翔和くんのお蔭だよ」
 失恋したばかりのあの夜は、もう叶わないんじゃないかとさえ思っていた。
 でも、同じあの夜にめぐり会えた運命が、私のささやかな夢を叶えてくれた。
「翔和くんには夢ってある?」
 彼の肩に頭を預けて、私は尋ねる。
 すると翔和くんは困ったように唸って、
「俺の夢も、去年叶っちゃったばかりだ」
 と言った。
「あ、もしかしてお店のこと?」
 私の質問は見事言い当てていたようで、彼はすぐに頷く。
「そう。独立して、自分の店を持つのがずっと夢だった」
「それなら叶ってるね。素敵なお店を持ててるんだから」
 私と一つしか違わないのに、もう自分のお店を持っている翔和くんはすごいと思う。独立したい、自分のお店を持ちたいって思うその意志だけでも立派なのに、若いうちからちゃんと叶えているんだから。
「叶えて満足していい夢でもないけど。これから、しっかり続けていかないと」
 翔和くんは、真面目な口調で言う。
 もちろん彼なら続けていくことだってできるだろう。私はすぐ傍から、彼の『店長さん』の顔を見つめていた。まだ少ししか知らない、翔和くんのもう一つの顔だ。
「榊も連れて帰ってきちゃったしな……」
 少し笑った翔和くんが、今度は私の髪に手を伸ばす。
 意識しているのか無意識なのか、後ろに作ったお団子に弄ぶように触れながら言った。
「前に、両親のこと話しただろ」
「……うん」
 大晦日の夜に聞いていた。
 翔和くんのご両親は、もういない。
「あの頃さ、俺、一時的にだけど金持ってたんだ」
 言葉の軽さの割に、声は酷く寂しそうだった。
 その理由は聞くまでもない。なぜ彼がお金を持っていたのか、わかるからだ。
「そうするとやっぱり、周りの見る目が変わるんだよな。悪気はないのかもしれないけど、軽いノリで『金貸して』って言われたり、飲みの時に『奢って』って言われたり」
 翔和くんがアッシュブロンドの髪をかき上げる。
 もう片方の手では尚も私の髪を撫でながら、続けた。
「向こうは沈んでる俺を励ますつもりだったのかもしれないけど、結構ショックだったよ。世の中いろんな人がいるなって、その時思った」
 世の中にはいろんな人がいる。それは私も同じように思う。
 わかりあえる人も、そうではない人もいる。当たり前のことだ。
「俺が稼いだ金じゃないし、いろいろ言われるくらいならぱっと使っちゃおうかと思ったこともあった」
 そこで彼は苦笑する。
「でも、そうしなかった。榊だけが止めてくれたんだよ。やめとけって」
 口にされた名前に、私は先日、お店で顔を合わせた榊くんのことを思い出す。
「あいつ真面目だからさ、酒は弱いけど。俺のこと、本気で心配してくれたんだ」
 どこか照れたように続いた言葉が、あの日の榊くんの言葉の意味を教えてくれた。
『黒野のこと、よろしくお願いします!』
 真剣なトーンで叫ぶように告げられた意味が、今、ようやくわかった。翔和くんにもひっそりと涙に暮れるような辛い時期があったに違いない。そして彼もまた、誰かに手を差し伸べられて救われた一人だったんだ。
 私も手を伸ばして、翔和くんの背中にそっと触れてみた。
 翔和くんは幸せそうに笑い、頬を寄せてくる。
「あいつの言うとおりにしてよかったよ。その後で先輩が店を畳むことになって、貯めてた資金でそれを譲ってもらって、ちょうど榊も故郷に帰りたいって言ってて、この街に来て――お蔭で、都さんと会えた」
 彼の頬も少し冷たい。
 だけど、触れる吐息は温かい。
「運命は時が連れてくる。その時が来たら、わかるものなんだ」
 翔和くんの言葉に、私は黙って頷いた。

 もっとも、運命の時が来たとわかるのは、翔和くんのようにちゃんと待っていた人だけなのかもしれない。
 現に私にはなかなかわからなかった。私はいつもせっかちで、恋に落ちたら何にも見えなくなって、一人で突っ走ってしまう悪い癖があった。そんなんだから、自分の運命も見通せないまま、一人で落ち込んだり泣いたりしていた。
 だから、翔和くんと出会えてよかった。
 そうじゃなければ私は、ずっと無闇に突っ走るだけの人生を送っていたかもしれない。
 時に立ち止まって、慎重に考えてみることも大切だって、教えてもらえた。

 また冷たい夜風が吹いた。
 私が身震いしたからか、翔和くんが私の髪から手を離し、また肩を抱いてくれた。
「そろそろ中入ろうか?」
「そうだね」
 私達は美しいけど切ない街明かりに背を向け、部屋の中へ戻る。
 そして部屋に暖房を入れて暖まるまでの間、尚も寄り添い合って話をした。
「榊って言えばさ。今度、俺、髪切ってもらおうと思って」
「榊くんに?」
「そう。カットモデルも貴重だから、髪切り合うのもいい練習の機会なんだよ」
 なるほど、美容師さん同士にはそういう慣習みたいなものがあるんだ。
 言われてみると翔和くんの髪も、出会った頃と比べたら少し伸びたように思う。そろそろ顎のラインに届きそうな長さは、確かに切り時なのかもしれない。
 出会ってからそんなに時間が経ったんだって、改めて実感した。
 いや、早い方なのかな。出会ってからたったの三ヶ月で、こんなふうに――二人でいるようになって。いろんな出来事があって、泣いたり笑ったり怒ったりして、だけど振り返ってみればとても幸せな日々だった。
「それで、どんな髪型がいいかな?」
 本職の美容師さんにそう尋ねられ、私は思わず答えに詰まる。
「わ、私に聞いちゃう? 翔和くんの方が詳しいでしょ?」
 すると翔和くんはおかしそうに笑って、
「都さんの好みが知りたいんだよ」
 なんて言う。
「それに、全部お任せにすると榊の奴、本当に好き勝手に切るからな」
「そうなの?」
「うん。前に任せたら、冬場にベリショにされてさ。あの時は頭寒かった」
 それはすごく寒そう。今度は私が笑ってしまう。
「翔和くんの短髪、あんまり想像つかないな」
 小顔だからどんな髪型も似合いそうだけど、短髪にしたら今以上に若々しく、そして可愛くなりそうでもある。
「似合わないよ」
 私の想像を遮るように、翔和くんは慌ててそう言った。
「俺もその一回きりで、もう二度とやりたくないと思ってるから」
 その慌てた様子がちょっと珍しくて、それこそ可愛いなと思う。
「そうかなあ、似合いそうだけどな」
「似合わない、絶対似合わない。現役美容師が言うんだから間違いないよ」
 個人的には本物もとても見てみたい。だけど翔和くんがあまりにも必死に言い張るから、やめておくことにしよう。
 男の人の髪型、私の好みで言うなら――正直、今の翔和くんもすごく素敵だと思っている。軽くパーマがかった長めのアッシュブロンド。でももし変えるのなら、見たことないような翔和くんの顔も見てみたいし、でもよく似合うアッシュブロンドのままの翔和くんでいて欲しい気もする。迷うな。
 しばらく本気で悩んでいたら、翔和くんが私の顔を覗き込んできた。
「じゃあさ、後でヘアカタログ見て一緒に選んでよ」
「あ、それなら決められそう。付き合うよ」
「ありがとう、都さん」
 そう言うと、翔和くんはまた私の髪に触れる。
 お団子ハーフアップの結び目を手のひらで弄んだ後、襟足を指で梳いてくれる。くすぐったいけど、とても心地いい。
「こちらこそありがとう。この髪型、皆にすごく誉められたよ」
 私は彼に感謝を告げる。
 すると翔和くんも、心の底から嬉しそうに目を細めた。
「よかった。またいつでもやってあげる」
「本当? 是非お願いします」
「もちろん。都さんはこれから、もっときれいになるよ」
 彼のその言葉がまるで、運命の予言みたいに聞こえる。

 私ももっと、きれいになりたい。
 見た目だけじゃなくて中身も。
 大切な人の前でだけは透き通っていられるように――翔和くんにとって、『わからない人』ではいたくないから。

「……あ、そうだ」
 決意を新たにする私の隣で、翔和くんがふと、声を上げる。
 それから私に目をやって、
「俺、新しい夢ができたよ。絶対叶えてやるって夢が」
 と言った。
「どんな夢?」
 私が聞き返すと、彼は私の髪をいとおしむように撫でながら答えた。
「都さんを、俺の手で、今よりもっときれいにするっていう夢」
「え、私を?」
「そう。俺の手にはそれができる、知ってるだろ?」
 もちろん知っている。そしてそれは、髪型に限った話じゃない。
 自分でも思う。新しい恋をして、私はきれいになったって。自惚れじゃなくて、ようやく慣れてきたショートヘアの私を鏡で見る度、心からそう思っている。
 今の私はいつでも幸せそうだった。
「幸せすぎるよ、私……」
 翔和くんの言葉が嬉しくて、とろけそうだ。思わずそう呟くと、私が溶け出さないようにする為か、翔和くんがぎゅっと強く抱き締めてくれた。

 夢が一つ叶ったと思ったら、また新しい夢が生まれてきたみたいだ。
 幸せってそういうことなのかもしれない。叶えたい夢がいくつもいくつも生まれてきて、無限に続いていくことこそを、幸せだというのかもしれない。

 私の新しい夢は、翔和くんを大切にすることだ。
 叶ったって満足して言い切れるまでには、きっとすごく時間がかかることだろう。
 だから私はいつまでも、末永く、翔和くんと一緒にいることにする。

 私たちの前には美しい夜の景色がある。
 遠くまでずっと、散りばめられた光で照らされている――際限ないほど広大な眺めを、私は翔和くんと一緒に、いつまでも楽しんでいた。
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