Tiny garden

愛で奈落を駆け上がる(4)

 さっきまでとは違う意味で、涙が出た。
「ありがとう……」
 私は翔和くんの背中に腕を回して、しがみつくように抱き締め返す。

 助けに来てくれたんだ、って思った。
 奈落に落ちて一人ぼっちで泣いていた私を、悲しさと悔しさで打ちひしがれていた私を、翔和くんは助けにきてくれた。もう大丈夫だ。不安になることなんてない。
 だって翔和くんは、私を信じると言ってくれた。

「私、どうしていいのかわからなかったんだ」
 彼にしがみついたまま、打ち明けた。
「私が悪いのかもしれない、少しはそう思った。私のしたことで不安になった人がいたなら、やっぱり私のせいかもしれないって。でも……」
 涙が止まらず、しゃくり上げながら、それでも必死に伝えた。
「でも、理不尽だ、私は悪くないって気持ちも消せなかった。むしろ言われれば言われるほど強くなって、私、どうしても謝れなかった」
 今だって、後悔はしていない。
 いや、できないと言う方が正しいのかもしれない。どうしたって私がしたことは取り消せないし、だけど謝る気も起こらない。それは私が謝ったところで解決する問題でもないだろう。
「だから、江藤くんを怒鳴っちゃった。謝るつもりはないって」
 私がそこまで語ると、翔和くんは慰めるみたいに私の髪を撫でてくれた。
 それから、囁いた。
「相手は、何で謝れって?」
「私が、振られた時のこと」
 あの日のことはもう、胸すら痛まない思い出になっていたのに。
 次からは別の意味で思い出すことだろう。
「私が彼をデートに誘おうとしたこと、彼女さんに知られたんだって。それで気まずくなったみたいで、私に、彼女と話して欲しいって言われた」
 勝手なことを言わせてもらえば、そんなの、知られなきゃよかった話だ。
 言い放った通り、彼女を不安にさせないのが彼氏の仕事だと私は思う。翔和くんは私のこと、不安にさせたりしなかった。
「私はきっちり断られてたし、江藤くんも『彼女がいる』ってちゃんと言ってて、そこで終わった話だって私は思ってたの」
「その通りだろ」
 翔和くんが、そこで頷いた。
「都さんは何も悪くない。何ヶ月前の話だと思ってんだ、蒸し返す方がおかしいよ」
 彼がそう言ってくれて、何だかすごく安心してしまった。また泣けてくる。
「本当だよね。こっちは気持ちの整理だってとっくについてたのに……」
「それは腹立つな。都さんが怒鳴るのも当然だよ」
 涙が止まらない私の顔を、翔和くんが覗き込んできたようだ。
 視界が滲んでいるせいで、彼の表情はよく見えない。だけど濡れた頬を指で拭ってくれたのはわかった。温かな手だった。
「俺がそいつに言ってやろうか?」
 翔和くんが私に囁く。
「電話、貸してくれれば代わりに話すよ。『俺の彼女に何ちょっかいかけてんだ』って言ってやる」
 彼の口調は本気そのものだったけど、途端に私の涙は引っ込んだ。
 だってそんなこと、思ってもみなかった。
「それとも、もっと凄んでみせた方いいかな。任侠映画みたいに『俺の女に手ぇ出すとかいい度胸してんなこの野郎!』……くらい言う?」
 翔和くんの凄みは、普段の彼の口調と、優しく甘い顔立ちにあまりにも不似合いだった。
 呆気に取られた私は思わず、尋ねた。
「翔和くん、そういうこと言っちゃう人なの?」
「言ったことない人だけど、でも都さんの為なら言うよ、俺」
 彼は、驚くほどきっぱりと言ってくれた。
「都さんが泣かされてんのに、黙ってるわけにはいかない」
 その言葉がたまらなく嬉しい。
 私が泣いていることを気にかけてくれる人がいる。
 考えてみれば翔和くんは、初めて会った時からそうだったんだけど。
「翔和くん、ありがとう」
 あの時の感謝も全て込めて、私は彼にお礼を言った。
「電話する?」
 彼があくまでその気のようだったから、それには首を振っておく。
「ううん、いい。翔和くんが信じてくれたらそれでいい」
「俺は信じてるよ、けど……」
「本当言うとね、結構、自信なかったんだ」
 自分は悪くない。謝る必要だってない。
 そうは思っていても、どうしても拭い去ることのできない罪悪感があった。
「だって江藤くんの彼女さんの気持ち、わからなくはないから。もし付き合ってる人が、他の子から誘われたって聞かされたら、不安になっても仕方ないと思う」
 それがわかるからこそ、苦しかった。
 謝らないって決めた後も、一人で引きずってしまった。
「だから泣いてたの。自分でもどうしていいのかわからなくなって、でも謝るのだけは絶対嫌だって思ってて。そこに翔和くんが来てくれたから――」
 助けに来てくれたから。
「それだけでいいって思った。翔和くんが私の味方でいてくれたら」
 私がそう言うと、翔和くんは私の髪をまた撫でた。美容師さんらしい、優しい手つきだった。
「俺は味方だよ、都さん」
「うん……」
「でも、やられっ放しみたいで悔しいな。言い返しちゃ駄目?」
「そんなのいいよ。翔和くんまで傷ついて欲しくない」
 さっきから私のことばかり語ってしまったけど、翔和くんにとっても江藤くんは苦い存在に違いない。
 だから、いい。もういい。翔和くんといる時は、彼のことだけ考える。
「そんなことより」
 私はようやくちょっと笑って、目を擦りながら翔和くんに告げた。
「明日も仕事なんだ。泣き止まなきゃいけないから、手伝ってくれない?」
 まだ涙が滲む視界に、翔和くんの表情がうっすら見える。真剣な目をしていた彼は、やがて少しだけ微笑んでから、私に温かいキスをくれた。

 その後、私は彼を部屋に上げ、彼は私が泣き止むまで傍にいてくれた。
「都さん、タオルってどこ?」
「洗面所のカラーボックスの一番上」
 彼は私の言った通りの場所からタオルを取り出すと、温かいお湯で絞った後、私のところまで持ってきてくれた。同じアパートの住人だけあって、お湯の出し方はさすがに説明の必要もなかった。
「ほら、顔拭いたげる」
 そして涙で汚れた私の顔をそっと拭いてくれた後、そのタオルを私の瞼の上に置いた。
「明日、腫れてたら困るだろ」
 私も素直にされるがままになっていた。翔和くんが膝を貸してくれたから、彼の膝枕で目をつむって、しばらく瞼を温めた。泣いた後でくたびれた目元と頭に、その温かさは本当に心地よかった。
「ごめんね、翔和くんも疲れてるのに」
 膝枕されながら謝ったら、返事は軽いキスの直後にあった。
「都さんと一緒にいれたら疲れも吹っ飛ぶよ」
「でも、心配かけちゃったから――」
 言いかけた私の唇を、今度は指先で押さえた後、
「気にしなくていいよ。都さんを一人で泣かせとくなんて嫌だからね」
 翔和くんはそう言ってくれて、心まで温かくなった。
 本当に、翔和くんがいてくれてよかった。助けにきてくれたことも、すごく嬉しかった。
「そういえば、都さんの部屋に入れてもらうの、初めてだ」
 不意に彼が言って、私も同じようにそういえばと思う。
 タオルを持ち上げて彼を見やれば、部屋の中を興味深げにきょろきょろしていた。
「ここが都さんの部屋か……間取り、本当に一緒なんだね」
「でも翔和くんの部屋より狭く見えない? 散らかってるし……」
「きれいだよ。それに、都さんの匂いがする」
 私を見下ろし微笑む顔に、今更だけど少し恥ずかしくなった。
 近いうちに私の部屋にも彼を招こうとは思っていた。だけど今夜になるとは想像もしてなくて、まだ念入りな掃除も片づけもしていない。こういう形の招待でなければ、もっと準備だってできたのに。
「今度、ちゃんと遊びに来てよ。どうせ来てもらうなら、もっと楽しく過ごしたいから」
 私が訴えると、翔和くんは大きく頷く。
「もちろん、また来るよ。今だって楽しいけどね」
「本当に? 私、ただ膝借りて寝てるだけなのに?」
「うん。こうやって都さんといるだけで楽しいよ」
 もしかしたら気を遣って言ってくれてるんじゃないか、そう思って彼の表情を窺った。
 だけど翔和くんの表情は至って明るく、それでいて幸せそうで、心からそう思ってくれているらしいのがわかる。
 だから私も彼の気持ちに応えたくて、そっと彼の手を握ってみた。
「なら、もう少しだけここにいて」
 彼が私の手を握り返す。
「少しと言わず、いくらでも。都さんが望むだけ傍にいるよ」
 それから彼は私の瞼にタオルを置き直してくれて、私は彼に甘えるように、もうしばらくだけ膝を借りることにした。
 幸せだった。
 翔和くんがいることそのものに、この上なく幸せを感じていた。
「もしもの話、だけどさ」
 頭上から、翔和くんの声が降ってくる。
「また誰かに何か言われたりしたら、真っ先に俺に話してよ」
 少し気遣わしげで、優しくて、いとおしげでもある声だった。
「俺、駆けつけるから。何だったら今度こそ、がつんと言ってやるから」
 もしかしたら彼は、やっぱり何か言ってやりたいってまだ思っているのかもしれない。
 でも、そんなことをしなくても大丈夫。
「何か言われたら、今度は私が言い返すよ」
 もう迷わない。ためらいも遠慮もしない。
 明日、もしも、江藤くんが今夜のやり取りを蒸し返してきても、腫れぼったい目を誰かに見咎められて恋愛絡みの修羅場を勘繰られても、私は敢然と言ってやる。
「私の彼氏はすっごく素敵で優しいし格好いいし、私だって彼が好きでめちゃくちゃ愛してるから、他の人なんて興味もないって」
 リハーサルのつもりで一息に言い放った。
 そうしたら、翔和くんは膝の上の私をぎゅっと抱き締めて、
「都さん、俺も大好き! 愛してる!」
 なんて言ってくれたから、私は自分で先に口にしておきながら、その言葉にどぎまぎした。
 愛があるって、なんて幸せなことなんだろう。
 私はようやく運命の人を見つけたのかもしれない。わかりあえる同士。一緒にいても傷つかないどころか、一人でいるよりずっと心地いい相手。何を考えているのかわからなくて悩むことも、不安に思うこともない。だから、いくらでも一緒にいたいと思う。
「……翔和くん、今日、泊まってかない?」
 瞼の上のタオルを持ち上げ、私は再び彼を見上げる。
 翔和くんは瞬きした後、わかりやすく素直に、嬉しそうな顔をした。
「いいの?」
「私がそうして欲しいの。今夜は一緒にいて」
「もちろん! 都さんが望むなら、毎晩でも隣にいるよ」
 本当に、近いうちに、そうなるかもしれない。
 翔和くんと離れて暮らす理由、もう何もない気がするから。

 私の彼氏は素敵な人だ。
 泣いてる時は助けに来てくれるし、落ち込んでる時には甘えさせてくれる。優しいし、料理だってできるし、私の髪をきれいにしてくれるし、何より私のことをとても愛してくれている。
 私だって、彼を愛してる。自分でも驚くくらいに深く、運命の人だって確信している。
 運命は、時が連れてくる――初めて彼の髪を切ってもらった時、翔和くんがそういうふうに言っていた。
 たくさん泣いたり悩んだりした分、ようやく連れてきてもらえたのかな。

 この運命、大切にしよう。
 私だって絶対に、彼を不安にはさせない。幸せにする。
 
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